第22話 うたびとはざんげする
「……こんの阿呆が」
チリチリと貴重な火が燃えている。
鯨油独特の臭いのする室内で、アリオンはあぐらをかいて翁と向かい合っていた。
布で仕切られた向こう側にはタレイアを寝かせてある。
背から下ろした彼女は黒化が進んでいて、ぽっかり空いた目から墨のような滴を垂らしていた。
アリオンは黙ってそれを指でぬぐった。
泣かせた。
泣かせたのは村の皆と、その反応を見誤った俺だ。
あぐらをかいたまま向かい合うかつての師と弟子。
ある意味でアリオンの親でもあった翁の顔は一晩でぐっと老けたようだった。
「阿呆が」
「……。それでも、俺は二言するつもりはねぇ」
「タレイアの家のもんがこれから先どうなるか、そこまで背負う覚悟がテメェにあんのか? あん?」
たとえ、村の衆がアレをタレイアと認めなかったとしても、アリオンがタレイアを娶ると言った言葉だけはしっかりと全員が聞いている。
となれば、アリオンが死んだ暁には婚家のタレイアの家が短剣の家の持つ漁業権を得ることになる。
「妬みも
「タレイアの家族は俺以外も守る人がちゃんと居る。支え合う家族も居る。けど、今のタレイアには俺しかいねぇ。俺がタレイアをこっち側に引き留めて、連れてきて、あんな言葉聞かせちまった。その責任は俺が負うのが筋だ」
見てくれ。
アリオンは言って、くるりと翁に背を向ける。
潮焼けた、赤銅のなめらかな肌。まっすぐな背骨にほど良く引き締まった筋肉がしっかりと着いている。
成熟過程の、伸びやかな、若い男の背中だ。
「俺の背がどこか穢れているか」
「……」
「俺はタレイアを見つけてからずっと触れていた。息を吹き返す前も、その後も抱えていた。連れ帰る間は背負ってた。けど、俺のどっかが汚れちゃいるか? いねぇだろ。こいつはスキュラに呪われたかも知んねぇけど、今までのとは違うんだ。言葉も通じるし、意識もある、しゃべりもする」
ちっと色が変わっただけなんだ。
繰り返したアリオンに、翁はガシガシと蓬髪をかきむしって深い溜息をつく。
「お前が考えなしに連れてきたたぁ、思っちゃねぇよ」
翁の言葉にアリオンの目がまんまるに見開かれる。
「おい、だってあんた、あのとき」
「村のもんの反応を見ただろう」
面倒くさそうに脇に置いた
「皆の反応が分かっていても、お前はアレを連れて行ったか?」
「……」
「夜中にたたき起こして、タレイアちゃんのおやじさんとおふくろさん泣かして、皆を騒がせて、満足か」
「……俺は、ただ」
「これがお前のやりたかったことか、×××」
その名前を呼ぶのはずるい。
その名前を俺から奪ったのはあんたじゃないか。
反射的に口から出かかった言葉を飲み込み、アリオンはむっつりと黙り込む。
ジジッと焦げ臭い炎が揺れる。
ややあって、ぽろりとこぼれたのは懺悔の言葉だった。
「俺のせいだから」
「……あ?」
「スキュラの海を通るって話が出た時、皆不安がってた。あの時、俺が馬鹿正直にイルカの話じゃ海の心配はねぇなんて答えなきゃ……船出の歌でちゃんと守れてりゃ、こんなことにゃならなかったのに」
思い起こすのはいつも決まってあの輝かしい船出の日。
皆笑っていた。
送り出す者も、送り出される者も。
船から落ちそうなほどに大きく手を振っていたタレイア。
譲り渡した真っ赤なリボンがまぶしかった。
「俺のせいだ」
「おい、小童」
「船が沈んだって聞いてからも、俺にゃ何一つ出来ちゃいねぇ。皆が肩落として、つらい顔してんのに、うたびととしても、すなどりとしても中途半端な俺にゃ何一つ、何一つ」
どんっと、振り下ろした拳が膝をたたく。
「戻ってきたケフェウスの世話もケガレがうつるからって遠ざけられて。皆が苦しんでいるところを見ているばっかりで、気の利いたことも言えなけりゃ、守ることもできてなくて」
「……。この阿呆が」
殴られるかと思ったその手は、ぼすりとアリオンの頭に乗せられた。
そのままわしゃわしゃと雑に撫でられる。
「うたびとは神じゃあねぇ。歌に祈りは込めるが、人の生き死にをどうこうする力も、お天道様を動かす力も、漁の出来不出来もどうすることもできねぇ。俺らは人だ。ちっぽけな人だ。高波の一つ来りゃあおっ死ぬ。腹が減っても死ぬ。いつだって不安だらけだ。だから俺らが歌うんだろうがよ」
んなことぐらい、百も承知だろうが。
ごしごしと頭をゆさぶりながら、翁は愛弟子に語りかける。
「お前が未熟だから船が沈んだ? なら誰が歌えゃ沈まない? 聞かれたことに正直に答えたのが悪かっただぁ? 馬鹿言え、てめぇの意見にそこまでの影響力があるわけがねぇだろうがよ。あそこで何言おうが、納期に任せる為にゃ、どっちにしたってあそこを通るしかなかったんだ。それとも何だ? てめぇは船が沈め、スキュラが来いとでも願ったか?」
「そんなわけがねぇだろ!」
「だろうよ。どうせ、毎日無事にいきますようにとかうじうじ祈ったんだろうが」
頭を手で押さえつけられたまま、アリオンは黙ってうなずく。
無事を、幸せを、成功を祈らなかった日など一日も無かった。
祈りは届かなかった。
アリオンの知らぬ所ですべては終わってしまった。
「皆スキュラに食われた。男は戻ってくるから火の女神の慈悲を受けられる。けど、女衆は生き死にも、どんな目にあっているのかも分からない。女神の慈悲も、海に還すこともできない」
そんなのって、あんまりだろう。
あんまりだ。
だからせめて、形見の一つでも見つかればと思っていたところにタレイアを発見して、どれだけ嬉しかったことか。
ぽっかりと開いた眼窩を見た時に正直怖じ気づいたが、必死に呼び戻して。
タレイアは、ちゃんとタレイアとして返事をしてくれた。
諦めないで良かった。
泣きそうになった。
笑いだしたくなった。
海の神の奇跡に感謝した。
皆、喜ぶだろうと思った。
「……お前、あれをどうするつもりだ」
静かな声で尋ねられ、アリオンは「看取る」と短く答える。
「ケガレがうつるようなもんじゃねぇって分かりゃ、タレイアを見る目も変わるだろう。あいつが家族が恋しいってんなら家に帰すし、帰りたくないっつぅんなら俺の家に居りゃあ良い」
(あんな言葉聞かされて、帰りたいと思うかも分からないしな……)
アリオンは翁に頭を捕まれて退場する直前に聞いた声を思い出す。
『正気に戻れ。そんな化け物が人の子を産める訳がないだろう!』
子を産めぬ
そう糾弾されたタレイアの心中はいかほどであっただろうか。
「最後に火の女神の慈悲を受けさせるのか、海に還すのかはタレイアのおやじさんたちと相談する」
もそもそと答えたアリオンに、翁は深々と息を吐き、濁酒の残りを喉に流し込むと酒臭いげっぷをした。
「よし、分かった」
「……良いのか?」
「それは俺が決めることじゃあねぇよ」
のそりと大熊のような動作で立ち上がる翁を見上げ、アリオンは目をしばたかせる。
「村の連中はお前を猫っ可愛がりしすぎだ。良い機会だ。てめぇの目で見てみろ」
「見る、って。何を」
「気になってたんだろ」
会わせてやるよ。ケフェウスに。
そう告げた翁の顔は鯨油の灯りを背にして、まるで読めなかった。
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