第21話 幕間―短剣の家の×××
アリオンは十六歳だ。
漁村において、この年齢で未婚独身の男というのはまず居ない。
すなどることで生計を立てる彼らの成人は早く、十二、三で嫁を迎えて家を構え、すなどりの仲間入りをするのはごくごく自然な流れであって、その中で十六になっても独り身のまま、すなどりたちの男性社会にも属さず、女衆に混じって野菜を洗ったり、子供たちの面倒を見たりしているアリオンは特殊な立ち位置にあった。
まして、それが長者の血筋「短剣の家」の血を引く直系の男子ともなれば。
実際、何事もなければアリオンは、×××という名のままとっくに身を固め、すなどりの一員として働いていただろう。
家名の元となった短剣は彼の腰では無く、父親の腰に収まっていただろう。
だが、×××はその名を捨て去られ、うたびとアリオンの名を継ぎ、そして未だに独り身であった。
事情は単純だ。
アリオンが――×××がまだ棒きれを振り回して遊んでいた幼年の頃。短剣の家の血統は全滅した。
理由は正月料理に含まれていた貝の毒であったらしい。
本家も分家も、網子たちも、老いも若きも、男も女も。「短剣の家」に関わる全員が集った祝いの席で振る舞われた鍋を口にした者たちは一人残らず内臓が腐り、己の吐瀉物の中で苦しみのたうち回り、排泄物にまみれて死んだ。
ただ一人、その日高熱を出して寝込んでいた跡取り息子の×××だけが生き残った。
遺された幼子の身の処遇を巡って、すなどりたちの中で諍いが起こった。
当然だ。
古くから続く「短剣の家」の直系。
その名の持つ威光も、権利を有する広大な漁場も、すなどりであれば喉から手が出るほど欲しいものだ。
彼らは互いの顔を見合わせ、遺された子を誰が取るのかをそっと目で探り合った。
女衆は殊更幼子に優しくした。同年の子供たちも彼を壊れ物のように、崇めるように扱った。
それで×××が懐いて、「この家が良い」とでも言えば万々歳だ。
そんな周囲の変化を、思惑を幼いなりに何かしら感じていたのだろうか。
×××は次第に無口になり、人では無くイルカたちとばかり話すようになった。
×××が彼らの言葉を理解するようになったのはこの頃だ。
俺の家が。いや、俺の家が。いやいや、こちらが。いや、俺の家が引き取るのが筋だろう。
大人たちが話し合う部屋の片隅で膝を抱え、爪を噛む×××をつまみ上げたのが、当時「豪腕のアリオン」と呼ばれていた男だった。
こいつは俺がもらい受ける。ちょうど、次のうたびとを探していたところだ。
てめぇらも文句ねぇだろうな?
「うたびと」という長者筋や老人衆とはまた別の権力者であり、隆々たる筋肉を備えたアリオンに、すなどりたちは居心地悪げに目配せを交わし、不承不承うなずいた。
そうしてアリオンの鶴の一声で×××の処遇は決まったが、×××自身が納得しているかと言えばそれは全く別の話。
それはもう、逆らった。
それまで黙って目をぎらぎらとさせて隅でうずくまっていたのが嘘のように、全力で暴れ逆らった。
勝手に決めんな。俺ぁ、おやじと同じすなどりになるんだ!
ぎゃあぎゃあと喚いて、四肢をばたつかせて抵抗する×××をぶん殴って、引きずって、押さえつけて、しかしけっして見放すこと無く、豪腕のアリオンは彼にうたびとのわざを教え込み続けた。
それでも、何度殴られても、蹴り転がされても、×××は隙を見て脱走しては海に向かった。
×××はこの頃から泳ぎ上手のすなどり上手であったうえに、この小さなイサナ(勇魚)のような少年を愛したイルカたちの手伝いもあって、その釣果は大人のすなどりに比べてもなかなかのものであった。
ピチピチと跳ねる小魚をたっぷりと詰めた網を引きずってきては、×××はアリオンに言う。
どうだ。俺はちゃんとすなどりとしてやってけるんだ。
胸を張る小僧の頭をごぃんと殴って、アリオンはそんなことより歌を覚えろ阿呆と一喝する。
そうして殴っては教え込み、教えようとしては逃げだし、連れ戻しては殴り。
月日が巡って、×××は「短剣の家のアリオン」になり、かつてのクソ餓鬼に役目を譲った豪腕のアリオンは崖の上の翁となった。
その頃にはアリオンは村社会における己の立ち位置の微妙さも理解していたし、人嫌いも治っていた。
否、叩き直されていた。
拳も蹴りもたっぷり貰ったが、崖の上の翁の愛情を理解しないほどアリオンは盲目では無かった。
納得はしていなかったが理解はしていたし、口には出さなかったが感謝もしていた。
男衆とも女衆ともつかぬ曖昧な立ち位置はアリオンの身を守った。
うたびとという特殊な職業のおかげで得た豊富な知識は彼を助けた。
イルカたちの言葉を聞き取れるという彼の特殊性にも関わらず、村人たちが村の一員として受け入れ、「短剣の家」の唯一の血筋として敬意を払い、尊重してくれるのは『うたびと』という立場が少なからず貢献していることを彼は悟っていた。
だから、嫁取りができる年齢になった時に、再び己の周囲に不穏な空気が沸き上がってきたことも、その理由も、アリオンは察していた。
アリオンの姻戚となるということは、アリオンがうたびとになった為になあなあになっている「短剣の家」の漁場の漁業権を得ることと等しい。子が生まれれば、その子が次の短剣の家の直系だ。
次々とアリオンには婚姻の話が舞い込んだ。
それを崖の上の翁がすべて蹴って捨てた。
こんなひよっこがいっちょまえの顔して、余所様の大事な娘さんを貰おうなんざ百年早いわ!
ごぃんと、昔と遜色ない重い拳を脳天に落とされてアリオンは涙目でクソ爺と叫ぶ。
だが、不器用な翁の守り方がこれなのだと分かっていたから、自分から誘惑に乗ることもしなかった。
次々と結婚して所帯持ちになってゆく幼なじみたちに祝い歌を贈って、アリオンは笑う。
良いのだ。これで良い。
利権が絡めば、そりゃあ争うこともあるだろう。
だが皆が悪い人間では無いことは、これまでの生活を通じて分かっている。
誰も悪くないのだ。
誰もが己の家族を養うのに懸命なだけだ。
家族であれば当たり前のことだ。
だから、己が争いの種になるぐらいならば、一生独身のまま笑いものになったって構いやしねぇ。
血統が絶えれば、持ち主の居なくなった漁場は村人たちの間で公平に分けられる。
それで良いじゃ無いか。
俺はこの村を、皆を、海を、好いている。
嫁が居なくたって、子が望めなくたって寂しかない。
村の皆が俺を家族のように扱ってくれる。殺したって死ななそうなクソ爺だって居る。
チビたちは可愛いし、幼なじみたちとつるむのは楽しい。
どこにも不満なんかあるはずがない。
アリオンは結婚するつもりは無かった。
今日、このときまでは。
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