第20話 うたびとはせんする
「なあ、アリオン」
幼なじみの男衆の一人が、こわごわと言った様子で声をかけてくる。
薄気味悪いと語るその目は、アリオンにも向けられつつあった。
「それがほんとにタレイアだとして、女があのスキュラの海から戻ってくるなんてことが万が一起きたとして……けど、もうスキュラを見ちまってるんだろ?」
「……」
「なあ、アリオン。スキュラを見たなら男だってもうおしまいだ。分かるだろ? なあ、分かってくれよ」
「……タレイアは言葉が通じるんだ。あんな風に腑抜けちゃいない。ちゃんと俺らの言葉だって分かってる。今だって、皆の声が届いているんだ」
「アリオン。なあ、アリオン。お前の言葉が全部その通りだとしてさ。だけどさあ、アリオン。誰がそのタレイアだったものの面倒を見るんだ?」
「それは」
当然のように家族の元へ帰るだろうと思っていたアリオンは言いよどむ。
ちらりと横目で窺ったタレイアの父母の顔には、強い拒絶と嫌悪の色があった。
それはどこを見渡しても同じだった。
「それにいったい何が出来るんだ? 服の繕いひとつできるようにゃ見えねぇ。働けもしねぇ、ろくすっぽ動けもしねぇ、ただケガレと呪いをまき散らすだけのモン、誰が面倒みれるってんだ?」
「それは……」
「なあ、アリオン。タレイアが生きてたらそりゃあ俺らだって嬉しいさ。けどな、アリオン。そいつはもう、タレイアにゃ見えねぇよ。あのタレイアは、お前がかわいがってた妹は、もうあの海で死んじまったんだ。なあ、そういうことにしようぜ。頼むから分かってくれよ、アリオン」
「アリオン」
「アリオン」
「アリオン」
「アリオン」
アリオン、アリオンと手が伸ばされる。
縋るような声がかけられる。
請うような視線が向けられる。
それらを一身に浴びて、アリオンは泣きたくなった。
どうしてその手の、声の、視線の十分の一、百分の一、否千分の一でも良いから、それを背中に負われた少女に向けてくれないのか。
全員とは言わない。
一人だけでも良い。
たった一人。
嘘でも良いから彼女にお帰りと言ってくれないのか。
ただいまの一言を言わせてやれないのか。
いったい何のために、この娘はあの暗い海の底から戻ってきたのか――
「……分かった」
絞り出すようにして声を出したアリオンに、村人たちは一様にほっとした顔になる。
だが、続いた言葉に彼らの顔は再びこわばった。
「俺が責任をとってタレイアの面倒を見る」
アリオン、と誰かが叫んだ声は悲鳴のようだった。
「考え直せ!」
「責任なんてどうでも良い。ただそいつを村の外に捨ててくれりゃそれで良いんだ」
「お前がつらいなら俺たちがやる。さあ、渡すんだ」
「駄目だ」
かぶりを振ったアリオンに幼なじみたちが馬鹿野郎と怒鳴り、男衆がこの頑固者がと頭を抱え、頼むから考え直してくれと女衆が涙ながらに訴える。
それがアリオンには情けなく、つらかった。
それでも、彼は笑顔を作ってみせる。
「こいつはタレイアなんだ。怖がる必要はどこにもない。俺はずっと昼から一緒に居るが、どっこも黒くなっちゃいない。今は寝てるけど話だってできる。ほんとに、ちっとばかし見た目が変わっただけで……冷たい海から帰ってきて震えてる、俺たちの仲間だ」
「……アリオン」
この野郎とうめいた幼なじみには悪いことをしていると思う。
それでも、ここで退くことは出来ない。
女がスキュラの海から戻ってきたことは過去一度もない。
死体すら見つかったことはない。
だから、スキュラの海で消えた女たちは、葬式すらまともに出すことができない。
海へ還ることができず、戻ってきた男のように火の女神による救済も受けられない。
それが初めて戻ってきたのだ。
帰ってきたのだ。
手の届く場所に、目の届く場所に、帰ってきてくれたのだ。
理由は分からない。
分かるのはこれが夢でも幻でも無い、間違いなくタレイアだということだけだ。
このまま黒に侵食されてなくなってしまうとしても、その最後の時間を生まれ育った村で、皆に囲まれて過ごして欲しい。
なすすべ無く奪われたのは、タレイアも、少女たちも、村人たちも、皆、同じなのだから。
「今すぐ受け入れてくれとは言わねぇよ。皆が……誰か一人でも、こいつがタレイアだって納得できるまで俺が面倒を見るし、なんなら看取る。それで許しちゃくれないか」
「……」
曲がらぬアリオンの態度に、群衆からは次第に興奮の代わりに困惑が広がる。
「しかしなぁ、アリオンよ」
そんな雰囲気の中、群衆の輪から進み出たのは老人衆の一人、櫂の家のカドモスだった。
経験豊かなすなどりの登場に、一同の動揺がわずかに和らぐ。
年長者に敬意を払うべしと骨の髄までたたき込まれているアリオンもまた、弱った妹分を背負ったままではあったが姿勢を正し、カドモスの言葉に耳を傾ける。
「引き取ると言って、場所はどうするのかね?」
「それは、俺の家なら他に誰も居ないし……」
「そうさなぁ。そうだろう。しかしなぁ、アリオンや。年若い未婚の男女が一つ屋根の下に寝泊まりするのはちょっとばかり問題だとは思わんかね」
柔らかい口調で問うたカドモスに、なるほどそういう方向から諭すかと周囲は関心半ば、安堵する。
アリオンにとって、タレイアが大事な妹分の一人だったのは誰もが知ることだ。
ならば、背中のソレを彼女だと言い張るアリオンが、今は亡き妹分に汚名を着せるような真似はすまい。
これで丸く収まる。
そう安堵した彼らは見誤っていた。アリオンの頑固さを。実直さを。強情さを。
「分かった」
アリオンはうなずいた。
清々しい、決意の顔だった。
「なら、俺がタレイアを娶ろう」
場は再び阿鼻叫喚に包まれた。
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