第19話 うたびとはとまどう

 深夜の村にアリオンの声は良く響いた。

 歌で鍛えている喉は、こんな場合も良く動いた。

 何より、深夜を過ぎても姿を見せぬ短剣の家のアリオンのことを気遣わぬ者は居なかったので、村人たちが目を覚まさぬ道理はどこにも無かった。

 その声が告げる言葉が異常であったとしても。

 ガラガラと戸を開き、良く帰ってきたアリオン。心配したぞ。兄ちゃん戻ってきたの。と、眠い目を擦って表に出た彼らの目に飛び込んできたのは月下に立って息を切らす青年。

 その背に負われた、ぼたぼたと半開きの目蓋の合間から泥のように黒いものをしたたらせるモノ――

 最初に悲鳴を上げたのは誰だったのだろうか。

 一度堰を切った恐怖は次々と伝播し、村人たちは恐慌に陥った。

 赤ん坊がひきつけを起こしたように母親の腕の中で泣き叫び、気の強い女衆が絹を裂くような悲鳴を上げ、男衆の日焼けた顔が蒼白になる。

「ケガレだ……ケガレがいるぞ」

「感染(うつ)るぞ! 近寄っちゃあならねぇ」

「こわいよかあさん」

「何をしているんだアリオン! 早くソレを捨てろ!」

 悲鳴と怒号が交錯するのを、アリオンは呆然と眺めた。

 同じ村人が、同じ村の仲間の生還を喜ぶどころか、まるで汚らわしいモノのように、忌まわしいモノのようにして避けようとするのを、彼はただあっけにとられて見ていた。

「落ち着いてくれ……タレイアなんだ。生きていたんだ。イルカたちが俺に教えてくれて……」

「タレイアだって? 女がスキュラの海から戻ってこれるはず無いじゃないか」

「アリオン……そんな悪趣味な嘘はやめてくれ。あんまりだ」

「本当なんだ。明るい場所で見れば分かる。ちゃんと話だって通じたんだ」

「近づくな!」

 鋭い拒絶の声に、アリオンは踏み出しかけた足の置き場を見失って立ちすくむ。

 見渡す顔に、想像していた表情はない。

 皆一様に硬くこわばった、恐れと嫌悪の混じった顔でアリオンの背を見ている。

(どうして。何でだよ。あんなに会いたがってたじゃねぇか……泣いてたじゃねぇか)

「アリオン。早く逃げておいで」

 女衆の一人が、丸い頬を青ざめさせながら必死な声で彼を呼ぶ。

「お前さんまで黒くなっちまったら村は終わりなんだよ。さ、早く」

「そうだ。まだうつってねぇうちならなんとでもなる。早く水で背を洗えば良い」

「兄ちゃん、そのこわいの、はやくすてて」

 おわあ、おわあ。

 泣き叫ぶ赤ん坊の声が村人たちの声に重なる。

 アリオンはその中にひとつもタレイアの名を呼ぶ声が無いことに絶望しながら、彼らの顔を見渡す。

 どれもこれも見知った顔だ。

 それなのに、急に知らない人々の中に放り込まれたような気分になるのは何故だろう。

(俺も、タレイアも同じだろう? 皆、同じ村で生まれ育った仲間だろ? それが帰ってきたのに……)

 さまよう紫の目が、人の輪の片隅で立ちすくみ、手を握りしめ合う一組の男女の姿に留まった。

 それはタレイアの父親と母親だった。

「おやじさん! おふくろさん! あんたらの娘だ! まだ生きていたんだ!」

 ほっと顔を緩めたアリオンに、しかし彼女の母親は血の気の失せた顔で硬く口を結び、激しく頭(こうべ)を左右に振った。結んでいない黒髪がばさばさと夜闇に音を立てる。

 その母親を背にかばい、苦渋の表情で口を開いたのは父親だった。

「……どうしてそんなモノを連れてきなすった」

「どうして、って……」

「そんなモノ、うちの家族にはおりゃあせん。娘は死んだ」

「……なんで。なんでそんなこと言うんだ」

「アリオン。娘の死体にむち打つような真似はよしてくんねぇか。いくらあんたでも、これ以上俺の家族を傷つけるような真似ぇすんなら、我慢できねぇよ」

「……俺は」

「アリオン」

 父親の表情は苦かった。

 スキュラの海に船が消えたと聞いたときよりも、余程つらそうだった。

「どうして連れてきた。どうして娘を人間のまま死なせちゃくれなかった」

 その言葉に、アリオンは息をのむ。

 人間のまま。

 人間のまま。

 ならば、今自分が背負っているこの子はもう人間では無いというのか。

「アリオン兄ちゃん」

 夜中に起こされて、寝ぼけ眼(まなこ)の幼い少女がひくりとしゃくり上げる。

「そのお化け、こわいよ」

 道理を知らぬ幼子ですら、タレイアをもう人とは認めないのか。

 そのとき。

 アリオンは首筋に小さな痛みを感じてハッとした。

 黒く染まったタレイアの指。

 それが、キリキリとアリオンの皮膚に爪を立てていた。

 子猫の抵抗のように弱々しい力。

 何かをじっと堪えるように、耐えるように、縋るように力のこもった指にアリオンは胸打たれる。

 生きているのだ。

 まだちゃんと人としての感情があるのだ。

 この悲鳴も、怯えるざわめきも、言葉も、すべて彼女に届いているのだ。

 そう分かると、胸に言葉に出来ない熱いものがこみ上げて、アリオンの視界が潤む。

 黒い少女を背負って、アリオンは独り足を踏ん張り、叫ぶ。

「まだ人間だ!」

 顔見知った仲間の、血のつながった家族の言葉に傷ついている、哀れな少女だ。

 赤ん坊の頃から知っている、小さな小さな、可愛い妹分だ。

 守らなければならない、大事な仲間だ。

(ついこの間まで、船を見送ったあの日まで、皆だってそうだったじゃないか)

 だからタレイアを見つけたときは嬉しかったのだ。

 生きていてくれたことも勿論嬉しかった。

 だが、それだけでは無く彼女の生存を知った皆がきっと喜ぶだろうと。

 あの日以来、どこかしら精彩を欠いていた村がわき起こるだろうと。

 だからこそ必死で死にゆこうとするタレイアを呼び起こし、引き留め、海を渡って連れて帰ってきた。

 しかし周囲から返ってくるのは戸惑いの視線ばかり。

 まるで異境に迷い込んでしまったかのようだ。

 誰も彼も知っているはずなのに、まるで知らない相手のようだ。

 家であるはずの場所で、アリオンは圧倒的に孤独だった。

 それは今までに感じたことの無い感情だった。

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