第18話 うたびとはあらがう

「さて」

 水に生き、水に棲むうつくしい人の姿が海に溶けて消えたのを見計らい、崖の上の翁は表情を厳しいものに改めてアリオンを、その背後を見た。

 岩盤の上に投げ出された少女の腕。

 ときおりピクッと指先が痙攣することで、生きているのだと知れる。

 働き者の手をした、しかし年相応の華奢さをみせるその手が、洞の暗がりよりも黒いことを翁の目は見逃さなかった。

 痛ましさに目を伏せること一瞬。

 顔をあげた翁の表情はいつになく真剣で、厳格なものであった。

「アリオン。何故連れてきた」

 翁の言葉にアリオンは困惑した。

「何故、って……当たり前だろ」

「もう一度聞く。何故連れてきた」

 繰り返された言葉に、アリオンは反発のこもった紫の目で巌(いわお)のような老人を睨みあげる。

 無意識に背後をかばう姿勢をとった若者に、老人はほぞを噛む。

 嫌な役回りだ。損な役回りだ。だが、告げねばならないことだ。

「夜が明けたら、それを捨ててこい」

「はっ?」

 愕然と。

 紫色の明るい瞳が見開かれるのを翁は厳しい顔つきのまま見ていた。

 青年を衝撃から立ち直らせたのは憤怒。

「ボケてんじゃねぇぞクソ爺ぃ! こいつが誰か分かってねぇのかよ! 同じ村の仲間だろうが!」

 怒声ががあぁんと洞に響く。

 怒りのあまり息を荒らげ、しかし、アリオンは叫んだことで冷静に立ち戻ったのか、「あ」と顔を一転明るいものに変える。

「そっか、暗いし、ちょっと染まっちまってるから分からなかったんだな……安心してくれ。こいつはタレイアなんだ。生きていたんだ! イルカたちが俺に教えてくれて……すごい、夢みたいだろ! スキュラの海から女なのに生きて帰ってきたんだ! 最初見つけたときはちっと死にかかってたけど、たぶんもう大丈夫だ。そうだ、おやじさんたちにも早く知らせて――」

「聞こえんかったか」

 立ち上がろうとするアリオンの姿勢が、中腰で止まる。

「夜が明けたら船を貸してやる。それで捨ててこい」

「……ジジイ、耳まで遠くなったのか? こいつはタレイアなんだ」

「お前こそ耳が悪くなったのか。それとも悪いのは頭か? あん?」

「……どういうつもりだ。冗談にしちゃタチが悪いぜ」

「冗談で言っているのでは無いからな。もう一度だけ、言うぞ」

 夜が明けたら「ソレ」を捨てろ。誰にも話さずに。

「ふ……ざけんな」

 表情一つ変えずに繰り返した翁に、アリオンの奥歯がギシリと音を立てる。

「ふざけんな! 誰がそんなこと!」

「テメェが招いたことだ。後始末はテメェでつけろ」

「絶対にお断りだ!」

 静かに告げる翁とは対照的に、アリオンの声はもはや吼えているに近かった。

「俺はこいつがおしめしてた頃から知ってる! 見間違うはずがない! こいつはタレイアだ!」

「んなもん、俺だって分かっとるわい」

「なら捨てる理由がどこにあるってんだ! 同じこと、こいつのおやじさんたちの前で言えんのか! ガキんちょどもの前で言えんのか! こいつが帰ってこなくてメソメソ泣いてやがったマッタイアスの前で! 自分が止めてりゃ良かったつってたイエスースの前で! シモンやイアコブの前で! 他の娘を失った家族の前で、おんなじことが言えんのかよ!」

 皆、待ってたんだぞ。

 やっと一人取り戻したんだぞ。

 その奇跡を、どうして捨てろなんて酷いことを言うんだ。

 叫んで、吐いて、吼えて。

 ぜいぜいと肩で息をしながらギラギラと目を憎しみに輝かせる青年に、崖の上の翁は憐憫のこもった目を向けた。

「言うに決まっとろうが。この阿呆」

「……。は?」

「迎えに来て正解だったわ……お前がソレを村に連れ込む前に、な」

「ソレなんて言うな。こいつはタレイアだ」

「良いか。お前が連れ込んだモノの正体を教えてやるから、耳の穴かっぽじってよぉく聞け」

 そいつはケガレだ。

 無表情に告げた翁に、ぐっと口をへの字にひき結んだアリオンの目が挑戦的に光る。

「マーレのお方がそれに触れたか? シャチもよう触れんかっただろう。穢れているからだ。お前はそれをよりによって村に持ち込もうとした。だが、まだここなら間に合う。もう一度、村の害になる前にそれを捨ててこい。それはもう、お前のかわいがっていた妹分じゃねぇんだよ」

「違う……」

 諭すような翁の声に、しかしアリオンは歯ぎしりしながら応える。

「こいつはタレイアだ。ちゃんと言葉だって喋ってた。俺のことだって分かってた」

「……言葉が?」

「そうだ」

「……だとしても、ここから先、ソレを通すわけにはいかん」

「石頭のクソジジイが……」

「石頭はテメェだ、小童が」

 洞の中、老いた男と若い男の視線が火花を散らす。

 息詰まるような緊張。

 先に動いたのはアリオンだった。

 先ほどまでへたばっていたのが嘘のような素早さで飛びかかった対象は翁――の足下。

 濡れた岩棚の上を躊躇無く滑った足が、カンテラを勢いよく蹴り飛ばす。

 真鍮とガラスでできたカンテラは金と緑の火の粉をまき散らしながら吹き飛び、洞の天井にぶつかって甲高い音を立てた。 

 飛び散るガラス片から頭を守るために太い両腕を頭上に掲げ、翁は舌打ちする。

 すべからくがら空きになる胴に、次に襲い来るであろう衝撃に備えて力を込める。

 しかし、構えれども予測していた一撃は無く。

(しまった、読み違えたか)

 翁は己が先ほど下ってきた隘路(あいろ)をふり仰ぐ。

 そこには黒ずむ少女を背負って、一心不乱に道を上るアリオンの姿が見えた。

 そう、アリオンには何も翁を倒す必要性は無い。

 彼の望みはただ、あの哀れな娘だったものを村に連れて帰ることだけ。

 灯りを蹴飛ばしたのは陽動。

 そして、翁の視界を奪い、その隙を突いて「娘」を村へ連れて行くため。

 追いすがろうとした翁の足が、しかし、アリオンの背負うもののおぞましさに一瞬鈍る。

 その一瞬があれば十分だった。

 アリオンの足が、地上へと続く段を踏みしめ、浅黒い引き締まった体が月の光に照らし出される。

「馬鹿モンが……っ!」

 唸り声を上げた翁の耳に、アリオンが高らかに叫ぶ声が響く。


 皆。タレイアが生きていた――!

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