第15話 交差(5)
カンテラを足下に置き、
両膝を砂の上に着き、胸の前で両の手を交差させ、
静かに、深々と、こうべを垂れる――
それは優雅で厳粛な、敬意の姿勢であった。
祈るかのような姿勢のまま、
翁の節くれ立った指が驚くほどなめらかに動いて語る。
我らの若子をお助けいただき感謝します
彼の歌がわたしのシャチを動かし 彼の願いがわたしを動かした
ゆえに、礼には及ばない
ありがたきお言葉です 情け深きかりゅうどロアン
名乗った覚えのない名を指摘され、
ロアンはかすかに眉を動かす。
駆り手の心情を敏感に察したシャチたちがじゃれるのをやめ
水面に顔を出して翁を見た。
その様に、しかし、
翁は動じる様子を欠片も見せずに呵々と大笑した。
そして、すぅと見事に割れた腹に息を落とし込み
朗々と歌いあげる。
『飛ぶもの 泳ぐもの 歩くもの かつて矛を交え 血を流す
されど 懸命なるものつどいて 共に語り 友誼を結ばん
飛ぶもの 羽をやすめ 風を包みてさえずり
泳ぐもの 岸によりて 水を孕みてささやき
歩くもの 間に立ちて 絡まりし憎しみを解く
故に 我 うたびとアリオンは 彼らの名を謳い 歌い継がん
ミヒール、コラン、ロアン、ケイゼル、リューレ、ヒポリタ、ナハルト……』
しゃがれた声は、独特の艶をもって洞にわんわんと共鳴する。
老いて役目を降りたといえど、
かつてアリオンの名を冠した男の歌は
圧倒的な力を持って、その場の空気を、水を、岩々に反響し、
ひととき世界を音で満たした。
力ある「何か」が
翁の体という洞を通して語っているかのごとく――
歌が反響を繰り返し、繰り返し、繰り返し、
やがて波間に吸い込まれて消えた後。
人の形をしたナニカは消え、
そこには頑健な体をした翁がひざまずいているだけであった。
一度でも『アリオン』となったものなら
あなたの名を知っている
ニヤリと食えない笑みを浮かべてそう指で告げた翁に
早瀬のごとき指話の流れについていけず
目を白黒させていたアリオンが
「あれ? ロアン? ロアン……」と
『会話』に含まれていた単語を拾い上げ、不思議そうにつぶやく。
その脳天に岩のような拳が落ちた。
ガツンという骨同士のぶつかる大変痛そうな音がして、
ワンテンポ遅れて「痛ってえ!」とアリオンの悲鳴が洞に響き、
驚いたシャチたちが一斉に水中に避難する。
「こーの馬鹿たれが。まったく、普段からまじめに歌を覚えんからだ」
無言で悶絶するアリオンに
ふんと大人げない顔で鼻を鳴らし、翁は腕を組む。
シャチたちはゲラゲラと笑っている。
彼らの間でも突進したり小突きあったりする遊びは珍しくない。
地上人がじゃれ合っているようにしか見えないのだろう。
中にはとんと鼻面を別のシャチにぶつけ、
そのシャチがもんどりうつ真似をしているものもいる。
夜の洞窟にシャチたちの陽気な笑い声が響く。
きゃいきゃい楽しそうに鳴き交わす猟犬たちを見回して嘆息し、
ロアンは翁へ「もう戻ろうと思う」と告げる。
それに翁はあらためて、恭しく感謝の言葉を述べる。
その姿勢にはマーレの人ら――水棲人たちへの
畏敬の念が込められていた。
しわぶかい右手が
アリオンからは見えない場所で素早く語る。
彼は私たちの、私の大切な子なのです
今夜我々はあなたには感謝しきれない、
返しきれない恩を受けました
ロアンは翁の表情を見る。
カンテラ以外の光源の無い洞の中、
翁の顔はしわが濃い陰影となって表情は読み取りにくい。
だが、地上人よりも良く光を捕らえる狩人の目は
翁の瞳に隠された深い慈しみの色を見落とさなかった。
ロアンの青い目がまだ頭を抱えて唸っているアリオンに向く。
水棲人の感覚ではほんの少し前。
地上人の寿命では数代を重ねるほどの年月が経ってしまう程前。
同胞の水棲人が
まだ大切に守り続けている恋情を捧げた地上人の娘。
その血を引く子は愛されて育ったのだ。
(良かったな、ナハルト)
彼女は幸福では無かったかも知れないが、
少なくとも、
きっと、
不幸では無かったのだろう。
遺した子はこうして今も健やかに
まっすぐな短剣のように育ったのだから。
さて、と
ロアンは潮の満ち具合を見て、
きらびやかな三叉をくるりと回す。
シャチたちが泳いで出られるうちに帰らなければ。
有翼人や地上人に比べ水棲人の時間はゆったりと流れているとはいえ、
今回の寄り道が想定以上に長くなったことは確かだ。
これでは全部の箇所を見回るのは無理だろう。
重要なところだけ駆け足で巡ることになりそうだ。
シャチたちがここ最近で一番のご機嫌なのが救いと言えば救いか。
またあそぼー、つぎはぼくにのって、など
海の猟犬たちは頭を涙目でさすっているアリオンに声をかけている。
アリオンが律儀に一頭一頭へうなずいているのが少し微笑ましい。
さて潮時だ、と肩まで海に浸かったところで
しかしロアンは
「待ってくれ!」
必死な声に
ロアンは肩まで海に浸かったまま振り返る。
見れば
アリオンが四つ足で這いずってロアンの元へ行こうとするのを、
翁が襟首を猫の子にするように掴んで引き留めているところだった。
「待ってくれ、ロアン! どうしても聞きたいことがあるんだ!」
「この阿呆が。これ以上マーレの方にご迷惑をおかけするでない」
「分かってる! けど!」
「だいたい口の利き方がなっとらん! ロアン様の心の広さに甘えるでない!」
「ロアン、頼む、一つだけで良いんだ! 教えてくれ!」
「ええい、この馬鹿たれが」
ずりずりと引き戻そうとする翁。
四肢を踏ん張って抵抗しているアリオン。
ロアンは苦笑いして二人を手振りでなだめ、
何だろうかと指で問いかければ
アリオンがパッと笑顔になった。
甘いことだ。自分でもそう思う。
どうにも、ああいう目に自分は弱いらしい。
あの娘を思い起こすからだろうか。
アリオンは「あの」と声を上げ、
何かを思い出したように
後ろを向いてごそごそと何か作業をし、
すぐにロアンの方へ向き直って
ぐっと握った拳を彼の方へつきだした。
その拳の端からだらんと垂れる紅いリボンに、
最近ナハルトの首に見かけないと思ったら
ここにあったのかとロアンは得心する。
それをつきだしたまま、
アリオンはロアンの目をまっすぐ見て尋ねる。
「これを、俺にくれた……あのとき俺を助けてくれた人を知らないか?」
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