第13話 交差(3)

 浅黒い精悍な顔の中でアサガオガイに似た紫の目が見開かれる。

 驚きに声を忘れたらしく、はくはくと口を動かす青年に、

 ロアンは今代のうたびとは存外若いと思う。


 地上種の青年は突然の邂逅に驚き戸惑いながら

 黒く染まる少女を彼からかばうよう抱き込み

 射るように強いまなざしでロアンをにらむ。 

 その腰に見覚えのある短剣を見て、ロアンはなるほどと心中でうなずく。


 海のひたひたと押し寄せる洞にて

 ひとりまもりつづける同胞――もりびとナハルト。

 ならば、この子がナハルトの守り児か。


 ゆるやかに、しなやかに、

 しらじらとした砂がかすかに光る浜辺にて、

 ロアンは褐色の指をもたげる。


 生暖かな夜の空気をひそやかにふるわせる蝶の瞬きのように。

 あるいはかがり火からこぼれる火の粉のように。

 水棲人の冷たい指が、満天の夏星のもとすべりゆく。


 わたしの名はロアン。

 月のこぼれるみなぞこから歌にいざなわれここへきた。

 ナハルトのまもりうけし子、名は何という。


 しかし、いくら待っても青年は返事をしなかった。

 ただ困惑のこもった眼差しでロアンの顔を呆けたように見ている。


 その有様にロアンの周りを囲んでシャチたちが、

 尾びれで水面をぱしぱしと叩き、あるいは水中を転げまわり、

 浜に身をのりだして青年の足裏にまあるい鼻面をすりよせ

 大笑いする。


 だめ だめだね ぜんぜん つうじてない

 ロアンの かおばかり みてる

 だめだめ そこじゃないよ ちじょうのこ

 ゆびさ ゆびをみるのさ ロアンのゆびをごらん よくみてごらん


 自由におしゃべりするかれらの言葉に青年はハッとし、「指?」とつぶやく。

 ロアンは頷き、彼の視線が己の指に移ったのを確認し

 さきほどまでよりもゆっくりと、指で語る。


 わたしの名はロアン。

 ナハルトのまもりうけし子、名は何という。


 真剣な顔でロアンの指を見つめていた青年は、しばらく目を白黒させ、

 しかし、何かに気づいたのか、少女の頭を支えていた手でとつとつと描く。

 それは古めかしくもつたない指話。


 ――波のようにくりかえしうちよせよ。


 それを受けてロアンは再び、ゆっくりと、指をすべらせる。


 わたしの 名は ロアン。


「ロアン……と、言うのか?」

 彼の呟きに、ロアンは頷く。

「スキュラ……では、無いのだな。海神様の使い、なのか?」

 ロアンは首を横に振る。

 深く青い目を向け、静かに返答を待つロアンに青年は少し迷ったが、

 やがておもむろに少女を砂上に横たえ、ぎこちなく指を動かして語る。


 ――わたしは名乗ろう、うたびとアリオン、うたうもの。

 アリオン。なぜ、なげく。

 ――さりゆくもの、かなしみゆえに、わが子の。

 なにを、のぞむ。

 ――かならず帰ろうぞ、われらの家、海の向こう。共に。


 うたびとに伝わる「歌」の音節(フレーズ)をつなぎ合わせ、

 アリオンの指から、ぽたりぽたり、雫のように落ちる「ことば」。

 小粒の真珠のようなそれらをつなぎ合わせれば、一つの意味を持つ歌になる。


(穢れを受けた娘と共に島に帰ろうというのか……)


 若いうたびとの願いに

 ロアンはなんと無謀なことだろうとひっそり息を吐く。


 アリオンの腕に抱かれた娘は、あのかがり火の娘より幼い。

 きっと見目も悪く無かったのだろう。

 しかし幼さを残す顔は、徐々に黒く変色しつつある。

 いずれ指の先まで穢れに侵され、

 ふれるものすべて呪う、穢れそのものになるだろう。


 瞬きのない青い目で見つめるロアンの表情から何かを悟ったのだろう。

 アリオンはグッと口を引き結び、

 そしてロアンに向けて、ロアンのためだけに歌った。


 うたびとがうたう

 旧(ふる)い歌の旋律にのりて、しんしんと指は語る。


 tosena bokisotawa rokutu sahoineo

 なぜに ぼくたちを わけて しまうのか

 doio-enugaada kekehu medosatsuyu

 どうか おねがいだ ここへ もどしてよ


 うち寄せる波が砂の上にえがくもようのように。

 いままでのとつとつとしたつたなさが幻のように。

 雄弁に語ったアリオンの節高い、傷跡だらけの手が

 ロアンの濡れた手をぐっと掴む。


 ――熱い。

 地上を歩くものの血潮の熱さが、脈打つ鮮やかな鼓動が、

 ロアンの水と同じ温度の手に流し込まれる。

 その燃えるような手が、目が、ロアンを掴んで叫んでいる。

 ほんのひとかけらでも少女が少女であるなら、かならずや共に帰るのだ、と。


 一歩も引く構えのない、いっそ頑迷なまでにまっすぐで硬い、

 まるで短剣そのもののような青年に、

 ロアンはそっと握られた手の上に、己の手をのせる。


 分かった。

 短剣の子よ、私がそなたを呪われた少女と共に島へ送ろう。


 それは大気の中にあって掠れて、吐息のようにはかなく、

 しかし水の中にあってはおんおんと響くだろう不思議な声だった。


 二人の指のやりとりを息をひそめて見守っていたシャチたちは、

 話がついたと見るやいなや、

 クァクァと陽気な笑い声をあげ、ロアンとアリオンに波をけしかける。


 おはなし、おわった? おはなし、おわった!

 ちじょうのこ、およぐ? ちじょうのこ、およぐって!

 はやくはやく ロアンはやく はやく

 よるのうみ ぼくらのうみ すてきなうみ

 たのしいよ たのしい うれしいな うれしいな

 いっしょだ いっしょ なかま きみも、なかま

 おいで おいで およごう およごう およごう ぼくらとおよごう


 浜に身を乗り上げたシャチの一頭が、気早くアリオンの足首を咥え

 ぐいぐいと水中に連れ込もうと引っ張る。


 さすがに顔色を変えたアリオンに、

 ロアンは、はしゃぐシャチたちを指笛ひとつで海へ戻らせ、

 とりわけ体の大きい三頭を選ぶと、陣を組むように並ばせて、

 アリオンを静かに手招いた。


 けがれの娘は 水にふれてはならない

 シャチたちに ふれてもならない

 やくそくを 守れるのならば 島へおくろう


 ロアンの指話にアリオンはしっかとうなずき、

 娘を負ぶって、シャチたちのいかだの上にそろそろと乗り、

 振り落とされぬように背びれにつかまった。


 青年の様子を確認し、ロアンもまた肩まで海にひたる。

 月の雫と南の風が溶けこんだ夜の水は肌にしっとりと柔らかく、

 ロアンの青い髪もまたその一部になろうとするかのように

 ゆるゆるとほどけて、とけて、ゆく。


 一海里ほど離れた位置に漂い、こちらを窺うとがびとの片割れに

 まなざしを投げること刹那。


 この海で何よりも早く駆ける海の狼たちと共に

 ロアンはうたびとの住む島へと向かうべく、

 泡をしなやかな裸体にまとわせて、海中へと身を躍らせた。

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