第9話 うたびとはよばう
人の、水中での鈍さをこれほど呪ったことがあっただろうか。
無我夢中で波を掻き分け、水の重みに上手く走れない足で水底の砂を掻き、飛沫を盛大に蹴散らしながら、アリオンはこけつまろびつ浜に駆け上がる。
「タレイア! タレイア!」
繰り返し名を呼びながら走り寄って砂の上に膝を着き、力なく倒れ伏す少女の肩に手をかけようとアリオンは腕を伸ばし――刹那、最悪の想像が頭をよぎる。
もしも、この肩が石のように固く冷たかったら?
もしも、濡れて乱れ海藻の絡んだ髪で覆われた顔が腐っていたら?
もしも、あの闊達な唇が二度と開かなくなっていたら――?
ゴクリと唾をのみ、しかし力強くアリオンは彼女の肩に触れ、叩く。
「タレイア! 返事をしてくれタレイア! 俺だ、兄ちゃんが助けに来たぞ!」
触った皮膚は氷のように冷たく、アリオンの背中を総毛立たせる。
だが、触れた分厚い掌の皮越しに、わずかにピクリと
生きている。
まだ、間に合う。
「タレイア! タレイア! 大丈夫か! 戻ってこい! 絶対に、引っ張り戻してやるからな!」
うつ伏せの体を力任せに横たわる形に押し転がすと、少女の半開きの口からゴボッと水が吐き出された。
その顔は砂に塗れ、貝の内側ように蒼白だったが、タレイアの顔だった。
そのことに安堵しつつ、アリオンは考える。考える。
(どうする? どうすれば良い? どうしたらコイツは助かる?)
混乱する頭と、粗くなる呼吸。震えだす手。
アリオンは叫びだしたくなるのを堪え、必死で記憶を探る。
前に幼馴染が溺れた時はどうした? 自分が沈んだ時はどうやっていた? 崖の上のジジイはいったい何と言っていた?
思い出せ、思い出せ、思い出せ、早く早く早く早く早く早くっ!
(そうだ、まずは、ケガが無いか見て……)
『頭を打ってるようなら動かしちゃならん。そうでないなら、ひっくり返して水を吐かせろ』
出血が見当たらないことを見てとって、アリオンはタレイアの飲み込んだ水を吐かせようと足で腹を踏もうとし――咄嗟に思い留まる。
男相手なら容赦なくグリグリと踏みにじって吐かせるが、女は駄目だ。女の腹には子を宿す大事な場所があるのだ。
だが迷う時間はない。
アリオンは片足を上げ、己の太腿上に少女の胃が乗るように、彼女の体がくの字に折れ曲がるように、うつ伏せにさせて、異物を飲み込んだ幼児にするようにパァンと平手で彼女の背を叩いた。
胃を圧迫され、タレイアがげぼぉっと水を吐き出す。
「良し、良いぞ! 全部吐いちまえ!」
「うぇっ、げっ、ごぼっ……」
恐らく胃液まで吐き出させているが、アリオンには気づく余裕はない。
『心の臓が止まっていたら危険だ。そういう時は胸の間を掌で押せ。骨が折れようが気にすんじゃねぇ。生きかえりゃ御の字だと思って思い切りやれ』
(心の臓……動いているのか?)
背中に耳を当ててみるが、聞こえるのは激しい自分の鼓動ばかりで良く分からない。
ええい、ままよ。
相変わらず死んだように動かないタレイアを仰向けにひっくり返し、辛うじて体を覆っていた布を腰の短剣で問答無用とばかりに引き裂くと、白い日焼けぬ乳房がぽろりと零れ出た。
「胸の間……ここか? 合っててくれよ!」
手の甲に手を重ねるようにして、左右の指を互いに絡めるように曲げ、全体重を乗せるように肘を伸ばし垂直に。
「一、二、三、四、五、六……ええぃ、いくつだ、分からん!」
とりあえず六回だ。
アリオンは心臓を押しつつ、少女に呼びかける。
「タレイア! おい、聞こえるか! タレイア! 起きろ! じゃねぇと、テメェが浜茄子の爺さんの寝床にカニ入れたことバラすぞ! おむつ替えの話とか、他にも兄ちゃん知ってんだからな! 知られたくないなら起きろ、タレイア!」
一、二、三、四、五、六。
一、二、三、四、五、六。
一、二、三、四、五、六――。
何度繰り返しただろう。
巧みに水を捉えるアリオンの手がだんだん疲れを訴え出したころ。
それは唐突に訪れた。
「ごぼっ」
横を向いていたタレイアの口から水が吐き出され、ピクリと瞼が動いた。
「タレイア?」
「カヒュッ……ふ、ゲホッ、ゴホッ」
「タレイア!」
「あ、たし……」
「良かった……俺は、本当に……」
思わず涙ぐんでアリオンは安堵の笑みを浮かべ――ようと、した。
開いたタレイアの瞼の奥には何もなかった。
ただ、真っ暗な、見ているだけで気が狂いそうな『無』がぽっかりと、あぎとを開いていた。
アリオンの脳裏に唯一返ってきた男衆の虚ろな、闇を溢しだす眼窩が、意味をなさない言葉の羅列を吐き出すだけになった口が、まばらな顎髭の生えた青ざめた顔が、よみがえる。
「……タレイア、お前、その目、は」
「あの人は、どこ……なにも、みえない……どうして、なんで……」
「しっかりしろ! 俺が分かるか? 兄ちゃんだぞ?」
「××××にーちゃん……?」
今は誰も口にしなくなった、アリオンがアリオンになる前の名前を拙い口調で呟いたタレイアに、アリオンはそうだぞと努めて明るく笑って頷く。そのアリオンの日焼けた大きな手を、タレイアの指がギシリッと掴んだ。
「どうして」
「……え?」
皮膚に突き立った爪の思いがけぬ強さと、その指のゾッとするような冷たさにアリオンは言葉を失う。
が、それきりタレイアは目を閉じてぐったりしたのを見て、頭の奥に浮かんだ違和感はすぐに焦りにすり替わる。
(呼吸……している。意識を失っただけか)
体はまだ冷たい。早く火のある安全な場所へ連れて行って、手当しなければ。
だが、どうやって。
アリオンがいかに泳ぎ上手であったとしても、意識のないタレイアを連れて島まで泳ぎ着くのは無理だ。
イルカたちは既に飽きたのか、どこかへ散ってしまっている。
呼び戻したところで、彼らにアリオンの言葉は通じないし、気ままに飛び跳ね、潜り、泳ぐ彼らに掴まったところでタレイアが再び溺れかねない。
「クソッ」
ここまで来て。ここまで来て、失うのか。
「いいや、まだだ。まだ諦めるな、何かあるはずだ……できる事が……」
冷えてゆく少女の手を握り、アリオンは祈る。歌う。
それは古い古い詩。
doio-aotoade doio-aoatode
(去らないで 去らないで)
tosena bokisotawa rokutu sahoineo
(何故我らを引き裂くのか)
doio-enugaada kekehu medosatsuyu
(乞い伏して願う その戻らんことを)
momutu tokatogayo kekede toatuari
(涙滴りて 我が嘆きは響く)
白い浜、碧い海、蒼い空。
分たれる者の嘆きの歌が、悲痛な叫びが、響いた。
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