第8話 うたびとはさけぶ

 かがり火の者たちの住まう土地から海を隔て、海流に乗って南西へ半日ほど。土師器はじきの者たちの住まう土地の浜にその日一人の男が漂着した。

 浜に打ち上げられた者は手当の甲斐あって息を吹き返したが、その目は既にぽっかりと開いた二つの穴でしかなく、口から出る音は言葉を為さず、魂の抜けたように呆然と座り込むその姿はまるで赤子に戻ったかのようだったという。

 利き腕につけた雷を象った金の腕輪に心当たりのあった者が、船を仕立てて彼の島へ使いをやった。

 曰く。汝らの船はスキュラに沈められた――と。



 揃えた指先から流れるように水面に触れる。

 皮膚をなぞる感触が空気のそれから水のそれへと変化する交錯は一瞬。日焼けた体は鞭のようにしなって水中へと滑らかに飛び込んだ。ぞぞぞと耳元を水流が走り抜けてゆく音。アリオンは目を開いた。

 アリオンたちの漁はその身一つで海へと潜り網を張り、中へ魚を追い込んでゆく素潜りと追い込み漁の中間のようなスタイルである。

 どこに網を張るか、どれ程巧く魚を追い込めるか、どれだけ長く息が続くか。

 アリオンはそれらの性質を備えた天性のすなどりであった。

 潮の流れの緩急が激しく、手練れのすなどりでも避けて通る複雑に入り組んだ岩礁の間をアリオンは巧みに泳ぎ回り、昨日手入れしたばかりの罠を仕掛けて回る。

 引き締まった腕が水を押しのけるように一掻きするごとに、節の高い指の合間を気泡がするすると抜けてゆく。水を捉える足裏は白々と海中で閃いて、腰に巻き付けた雷を象った飾りと衣が水流を受けて尾びれのようにひるがえった。

 泳ぐアリオンは一頭の魚だった。

(そろそろ潮時か)

 肺に残った空気の残量を冷静に計算して、アリオンは最後の罠を岩の合間に埋め込むと、足で水を蹴って四方へ水しぶきを散らしながら海上へ顔を突き出した。

「ぷはっ!」

 溜めてた息を大きく吐き出してから犬かきで海面を滑るように移動して、アリオンは近くの岩場に腕をかけると、腕力だけで体を持ち上げ、平らな石棚の上によじ登り、そのままだらんと四肢を熱く焼けた石板の上に投げ出した。

 長い潜水で冷えた体に、石に蓄えられた熱が心地よい。

 乾いてゆく肌と、濡れて張り付く衣。

 二種類の感触に包まれながらアリオンは目元を手で覆い「畜生ちくしょう」と小さく呟いた。


 あの日船出をした者のうち、島に戻ってきたのは僅かに五名。全員男だった。

 うち四名は水でブクブクと膨らんだ死体で、最後の一名であるケフェウスは呪いに体を蝕まれ、気が触れた状態で戻ってきた。彼は今は闇をこぼす目を麻布で硬く覆って山小屋に隔離されている。いずれ長老衆の決定が下されるだろうが、もう漁に出ることは愚か、人並みの生活すら無理だった。

 笑顔で手を振って出て行った娘たちは誰一人として見つからず、かがり火の者たちの島からぐっしょりと水を吸い込んだ衣だけが哀悼の言葉と共に返還された。

 奉納品の幾らかも浜に打ち上げられたが、スキュラの災いを受けたものを神に捧げることは出来ない。死の穢れを持ち込まないためにも、アリオンたちいかずちの者らはポポナウへの協力を辞退した。


 麻の衣を身に着け、しゃりんしゃらんと弔いの鈴が啜り泣きに溶けてゆく夕刻。

 変わり果てた死体に縋って泣く家族、無言で俯くすなどりたち、胸を叩き哀悼を示す女衆、好いた少女を失った少年。誰もが悲しみにうち沈み――だがアリオンを責める者は誰一人いなかった。


「何が『アリオン』、だ……無様すぎんだろぉ!」

 握りしめた拳を岩盤にたたきつける。

 手のひらに爪が食い込むほどきつく握った手は血管が浮き上がり、震えていた。


 情けない。

 役目ひとつ請け負っておきながら、責を果たせなかったことが情けない。

 浅ましい。

 誰一人にも責められなかったことに、一瞬安堵してしまった己が浅ましい。

 悔しい。

 ただ無為に海に逃避していることが悔しい。


「っ」

 ばね仕掛けのように上半身を跳ね起こし、四つ這いになって岩べりを掴むと、水面を覗き込まんばかりに身を乗り出してアリオンは獣のように海に向かって声を張り上げた。

 それは歌とすら呼べない、詞もない、感情のまま迸る稚拙な叫び。

 アリオンは腹の底にわだかまったものを言葉にできるほど器用ではない。

 だから、ただ叫ぶように、振り絞るようにして唄う。

 苦悩、怒り、足掻き、うねる声は潮騒を切り裂いて、何処までも碧い海原に吸い込まれてゆく。

 吐いて吐いて吐いて吐き出して、最後は咳き込みながら我に返り、生理的な涙に滲む目を水面に落としたところで、アリオンはいつの間にか水面に顔を出していた「友人」たちの顔に気づいた。

 流線型の滑らかな体。海水の艶を帯びた肌。愛嬌のある顔は一様にアリオンを見上げている。


 どうした どうしたの ちじょうのこ

 だいじょうぶ いっしょにあそぶ?

 およぐ? ねえ、およぐ?


「お前たち……悪ぃ、騒がせちまったな」

 通じないことを承知でアリオンは決まり悪げにつぶやき、いつの間にか集まっていたイルカたちの真ん中にどぶんと飛び込む。イルカたちも心得たもので、「泳ぎの下手な仲間」を歓迎するように鼻面をこすりつけ、背中に突進し、尾びれでバシャバシャと水を跳ねかけた。

 スキュラの災い以来久しぶりに受けた遠慮のない対応にアリオンは顔を綻ばせ、歯を見せて大きく笑う。

 

 わらった わらった よろこんだ

 たのしい? ねえ、たのしい?


「おう、ありがとよ」

 イルカたちの言葉はアリオンには分かる。

 だがアリオンの言葉はイルカたちには通じない。

 水越しなら伝わるかと子供の頃に潜った状態で話しかけたが、声はぶくぶくとしたあぶくになるばかりでさっぱりていを為さず、熱中するあまりに溺れかけ、そのころはまだ健在だった両親にしこたま叱られ、同い年の仲間には阿呆じゃねぇかと大笑いされたのは今では良い思い出――良いかはとにかく、思い出だ。

 イルカたちは笑いさざめきながらアリオンの周りを輪になって泳ぎ、時折小突いたり、胸びれで小魚を跳ね上げて寄こしたり、シュッと息を吹きだしたりと、かわるがわるちょっかいを出しては、愉し気にジャンプする。

 と、そのうち鼻に白斑のある一頭が「ちじょうのこ」とアリオンの背中をまろい鼻先で突いて、キュキュッと歌った。


 なくして げんきない? なくした みつけた おしえてあげる

 そうだ そうだ しってる

 あかいの ひらひら きれい


「ああ、あれか……」

 何を勘違いされているのか大体察して、アリオンは笑みをひきつらせる。

 確かにあのリボンをタレイアにやった翌日――つまり船の出航日からアリオンは彼らの安全を気にかけていた。

 その様をイルカたちなりに、アリオンが元気がない+アリオンが持っているリボンがない=リボンがないから元気がない、と結びつけたのだろう。

 要らないと言いかけ、アリオンは思う。

 大方イルカたちは何か別の赤い物を例のリボンと勘違いしているだけだろう。

 それでも、もし、万に一つでも妹分の遺品が漂着しているならば、彼女の家族に届けてやれば少しは慰めになるのではないか。

 つかまって! と言われるまま背びれに手をかけ、イルカたちにけん引されていった先に見えて来た浜の光景にアリオンはハッと息を呑む。

 汚れ、捻じれ、変色しているが、あれは確かにあの日タレイアに渡したリボンだ。

 否、それだけではない。


「タレイア!」


 浜にうつぶせて倒れている妹分の変わり果てた姿に、アリオンの悲鳴のような声が響き渡った。

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