第6話 幕間―スキュラの海
驚くほど
帆は浜に打ち上げられた海月のように力なく垂れさがって、男衆は額に汗水飛ばして櫂を繰る。
昔ながらの舟歌。
それに娘たちの合いの手が入り、歌声は楽し気に海鳥たちと唱和する。
タレイアは歌に興じるふりをしながら、ソッと海面を盗み見る。
潮焼て色の抜けた金の癖っ毛には深紅のリボンが結ばれている。船出前に
(でも、身代わり様に選ばれるならクレッサだろうな)
水面に映る己の姿を見るフリをして、クレッサはちらりと一人の乙女を横目する。
同じものを食べて、同じように生きて来たというのに、五歳年上のクレッサにはどこか他の女たちとは違った、海の女の逞しさと強さとは異なる憂いに似た陰ある色気があった。
他の娘たちが真っすぐな日差しに花開く
女と娘の間を行き来するような肢体のアンバランスさがまた一層彼女の魅力を増して、賑やかで陽気な海の女たちとは薄絹一枚隔てた向こう側にいるかのような雰囲気を
(身代わりになるならクレッサが良いな)
炎の女神としてはか弱いように見えるクレッサだが、その慎ましやかな目の奥には静かに
燃え盛り、全てを焼き尽くすような華々しさも火の女神様の一面であるが、きっとああしてどんな風にも消えずに静かにくすぶり続ける熱だって女神様の顔あるはず。
クレッサは
その奥に秘めた炎はきっと誰よりも熱く激しい。
と、
それは長い長い、白色の吹き流しのように見えた。
紺青の水中をそれはゆらりゆらりと、はためくように流れ、くねり、うねり、
美しい光景。そのはずなのに、タレイアは何故かゾッとした。
「ね、ねぇ……あれ、なんだろ」
近くに座っていた別の少女の袖を引いて、タレイアは呟く。
「え? 何? なんか言った?」
「なんか、来てる」
それは殆ど確信だった。
暗い暗い、見通せないほど暗い、光が届かないほど遠い海の底から。ゆらゆらと、ぬらぬらと、得体のしれない化物が獲物を求めて手を伸ばすかのように白い身をくねらせてナニカがやってくる。この船を目指して。
「ねえ、来るよ!」
耐えきれずに上げた声は悲鳴に似て、その以上に気づいた船漕ぎの男衆が海面を覗き込み「
「何でこんな浅い場所に?!」
「騒ぐな。俺たちを襲うような魚じゃあない!」
「待て、そういえばここはもう――」
スキュラの海だ。
船べりを打って、深海から昇ってきた御使い――リュウグウノツカイが波を蹴散らし、男の腕ほどもある太く長い身を中空に躍らせた。
一匹、続いて一匹、さらにさらにさらに。
飛び上がった魚体は重力に引かれて空中を泳ぐようにかきうねり、そのまま乙女たちの頭上に雨あられと降り注いだ。柔い体は弾け、頭部が
あまりの光景に、飛び散る鱗に、でろり零れた内臓の生臭さに、娘たちの口から悲鳴がほとばしる。
「落ち着け! 騒ぐんじゃない! 暴れるな! 船から落ちるぞ!」
急激な変化に青ざめながらも男衆が事態を打開しようと怒鳴る。
しかし。
「ヒッ」
海を見ていた船漕ぎの一人が急に息を呑んだかと思うと、櫂を投げ出してけたたましく笑いだした。
「何してやがる! テメェ、笑ってる場合か!」
「ははは、おしまいだ! おしまいだ、あっははははぁ!」
「おい、しっかりしろ」
顔を手で覆い
手が横に吹き飛び、覆っていた顔が露わになった。
ヒュッ。
降り注ぐ魚臭い雨の中、鋭く息を呑む音が響いた。
男の両目が無くなっていた。
ぽっかりと開いた
否、目だけではない。
鼻の孔かから。耳から。口から。でろでろと、ぐぷぐぷと、
噴き出し、服を、体を、船底を侵食するソレはぐちゅぐちゅと泡立ち、腐臭を上げた。
「オジまイだ……ごぶほぉ……オ、しバイ、ボゴツ、ゴ、グブブブブブ」
「ひ、ひぃ……」
ボタリと、胸ぐらを掴んだ男の腕に黒い泥が落ち、ジュウと肉の焼ける音がした。
「ぎゃああああ! 腕が! 腕がぁあ!」
「いやああああ!」「うわあああ!」「助けてくれぇっ!」「神様!」
阿鼻叫喚。
そうしている間にもまた別の者がクケケと怪鳥のような声を上げ、どす黒い泥のようなものを全身の孔から吐き出し、
「も、もう嫌ぁ!」
次々と起こる異様な出来事にパニックになったのか、逃げ場のない狭い船から逃れようとしたのか、娘の一人が悲鳴を上げてその身を海に躍らせた。それに遅れまいと別の娘が他の娘を押しのけ、船べりを超えて海に飛び込む。
こうなってしまってはもう止めようがなかった。
我も我もと後に続く者。押しのけられる者。踏み潰される者。引きずられた拍子に衣が首に絡まって絶命する者。そのまま海に共に引きずり込まれる者。
花紺青の海には次々と娘たちのまとっていた色鮮やかな衣が広がり、その上に御使いの千切れた銀鱗が散らされ、まるで
呆然とその狂乱を背後に聞いていたタレイアは、気づいた。
気づいてしまった。
水を隔てた深い暗い海の奥からこちらを見上げる寒気のするほど美しい男の姿。
揺らめく銀の髪。冷たい金の瞳。長く尾を引く白い薄絹をまとった褐色の裸身。
おいで 愛する君
力強くしなやかな腕が延ばされたその先に同じように腕を差し伸ばすクレッサを見ながら、タレイアの視界は端から黒く暗く濁ってゆく。
タレイアは知る。
皆、アレを見たから目が溶けてしまったのだ。
あんな美しすぎる人、海の神様はお認めにならないから。
見てはいけないモノを見てしまったから。
嗚呼でも最後に見るのがあんな美しいもので良かった――
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