第4話 うたびとはしる

 かがり火の連中のところで、ひと騒動あったらしい。

 そんなうわさを短剣の家のアリオンが耳にしたのは、例によって村で最後のことだった。


「逃げた?」

 洗い場で貝と引き換えに手に入れた野菜をざぶざぶと洗いながら聞き返したアリオンに、同じように服のすそを帯に挟んで太腿ふとももを剥き出しにし、芋を洗っていた女衆の一人が「そうなんよぉ」とケラケラと笑う。

 むっちりと肉のついた四肢はアリオンに負けず劣らず日焼けして、背中では赤ん坊が親指をくわえて眠っている。

 確か六番目の子供だ。

「なんで逃げた。大事な祭なんじゃなかったか?」

 ポポナウは海の男神に奉納される祭。海に生き、海で死ぬ彼らにとっては掛け替えのない祭のはずだ。神の側の主役が海の男神であるなら、人の側の主役はかがり火の女神の代役である娘。けして欠けてはならないはずの役目を背負った娘は、しかし、逃げたという。

「それがさ、傑作なのさ」

 手際よく洗った野菜をかごに放り込みながら、アリオンと話していた女衆は不意に何かを懐かしむような、愛しむような目をして笑った。

 その急な変化に、アリオンは一瞬どきりとして、手元の野菜に目を落とす。

 半分緑に変色している大根。

 刻んで潮汁うしおじるに投げ込めば良い具材になる。緑の部分は固いが、噛めば甘い。腹があまり膨れないのが残念な所だ。葉は海水で良く揉み、刻んで麦飯のかさ増しに使おう。すぐに食えない分は干すか、塩漬けにすれば半年は持つ。

 海辺のこの村で緑の野菜は貴重品だ。

「恋だってさ」

 一瞬聞き違えたかと思った。

「は?」

「だからさぁ、好いたお人が居たんだってさ、その娘には」

 何が嬉しいのか、きらきらと目を輝かせる彼女に、他に洗い場に集まっていた女衆たちも意味ありげに目配せを交わし、互いをひじで突き合ってくすくすと笑う。

「だから身代わりになれないって啖呵たんか切ったらしいよ」

「情熱的だねぇ」

「そりゃ、他の男に惚れたまんま海の神様の所さ、行けないわねぇ」

「分かってても惚れちまうのは仕方ないもんさ」

「かがり火じゃ大騒ぎらしいけど、どうなっちまうのかねぇその娘さんは」

「これから大変だろうねぇ」

「相手の男はどうしてるのかね?」

「駆け落ちするなら、ウチに来れば良いさ。人手が増えるのはありがたいしねぇ」

 あははと屈託なく笑う女衆は、誰一人娘のしでかしたことに対して怒っていないようだった。

 そのことに、アリオンは何となく喉に物が詰まったような心地になる。

 きっと、他所よその島のことだから笑い飛ばせるのだろう。

 この村のことならまた反応は違ったはずだ。

 そう分かってはいても、アリオンは顔も知らぬその娘に対して怒りを覚えていた。

(役目を受けといて、逃げるのは違うだろう)

 自分とて好きでアリオンになった訳では無い。

 今だって、すなどり仲間に「アリオン」と呼ばれるたびにそれは俺の名前じゃねぇと叫び返す。

 だが、それとお役目をないがしろにすることは別だ。

(違うだろ、それは)

 何となく自分だけが場違いのような気がして、アリオンはむっつりと黙って野菜を洗うのに集中する。

「一応手打ちはしたらしいけど、かがり火じゃ新しい身代わりを探すのに大騒ぎらしいよ」

「それで、うちの村からも娘衆が何人か行くってことになったんだってさ」

 そうなのか、とアリオンは黙ったまま相槌を打つ。

 交易のある村同士が、人を出して助け合うのは珍しくない。他所の村の網元など、大きな家に娘を嫁がせて友好の証とすることもある。

 実際、アリオンの家名の元となり、今も腰に携えている短剣をもたらした娘――通称「短剣の姫様」も、元を辿れば漁場の縄張り争いの手打ちの一つとして他所の村から嫁いできた人だ。

 大方、今回の人手の提供も、婿探し、嫁探しの一環を担っているのだろう。


「でもさぁ、大丈夫なのかねぇ」


 ぽつりと漏れた言葉は、三又の家の女衆の声だったか。

 しんと静まった洗い場の雰囲気に、アリオンは「何か問題でもあるのか?」と洗う手を止める。

「かがり火の連中は話の通じる奴らだ。時化しけの時期でもない。何が不安なんだ」

「それが……船を出すのに、通すんだってさ。スキュラの海を」

 潜められた声。

 すなどりならば一度は耳にするその不吉な名前に、アリオンは眉をしかめる。


 スキュラの海。

 そこには上半身は美しい男で下半身は魚、腹部からは三列に並んだ歯を持つ巨大な六頭の犬の半身が生えている奇怪な化け物が居ると口伝は歌う。男がそこを通る時はよくよく気を付け、怪物を起こさぬようにしなければならない。しかし、若い女が船に居ればたちまち海は荒れ、女の匂いを嗅ぎつけたスキュラに船は沈められ、女は水底深くに引きずり込まれて貪り食われてしまうだろう。故に賢明な女たちよ、けして船に乗ってスキュラの海を通ることなかれ――。


 古い詩だ。

 本当にスキュラを見た者も居ないし、実際に女が乗っている船でも無事に通り抜けることもある。それでも、時折あの海域で船が行方不明になり、浜に打ち上げられる死体に女の姿が見当たらないこともまた事実だった。

「ああ、アリオン。あんたのうたびととしての腕を信じてない訳じゃないんだよ」

 女衆の一人がハッとした顔で手を振り、早口で弁解する。

「そうさ、あんたが歌ってくれるなら船は沈まない。皆そう信じちゃいるんだよ」

「でも、あそこはねぇ……」

「網元も渋ったみたいだけど、あんまり日に余裕がないらしくてね。確かにあそこをつっきりゃ早いもん」

「まあ、何とかなるさ。海が荒れる話は聞いてないんだろ、アリオン」

「ああ、そういう話は聞いちゃねぇよ」

「なら安心だ」

「そうさね」

 話題を別のことに移して、またぺちゃくちゃと姦しく話し出した女衆に混じって、アリオンは黙々と野菜を洗った。

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