道場から離れてからのこと
道場から離れたのに、道場の師範の話を書き続けられるのか? と普通は思いますよね。
ところが続いてしまうのです。まさに奇縁。
私があまりおおっぴらに言えない活動に力を入れるため勤務先のIT企業を辞めた1999年は、恐怖の大王こそ来なかったけれど、巷にケータイが溢れ出した時期でもあります。1円とか0円でケータイが店頭で販売され始めたからです。
売った台数に応じてメーカーから販売店にキックバックが入る仕組みがあり、「光通信」の系列の販売店がどんどん増えました。
衛星テレビはスカイTVとパーフェクTVが一騎打ちをし、たしかスカイTVがパーフェクTVを飲み込む形でスカパーが誕生したと思います。
「手段を問わずシェアを握れば勝ち」の流れが、ヤフーBBルーター街頭配布(あれは販売じゃないよなあ)を生み出して社会問題化してました。
一般の人には今ひとつ理解できない2000年問題は、見えないところでエンジニアがヒーコラ言いながら対応した結果、何事も無く終了。ちなみに私が当時使っていたFTPツールは2000年になった途端壊れました。
さて、具体的にこの間何をやっていたのか、記述は差し控えたいと思います。
ですが、道場から離れても何故か道場との縁が続きました。
市原先生が金澤弘和館長からメチャクチャ怒られた夜、市原先生と店を4件付き合った大内先輩(私も3件付き合った)からは、パソコン関連で時々呼び出されました。
当時大内先輩は、個人で海外向けに中古車販売を手広くやってました。パソコンとネットとケータイだけで結構な売り上げがあり、特にモンゴルに関しては大きかったらしい。モンゴル大使館主催のパーティーに呼ばれるくらいだったから。
「朝青龍いるかもよ。一緒に行こう」と大内先輩から誘われて向かった会場のステージには、朝青龍ではなく確か白鵬が大使の隣に立っていた。
それより驚いたのは、ステージに金澤弘和館長と伸明先生、村上先生がいたことだった。
パーティー半ばで村上先生から「なんでお前らここにいるの」と言われたが「いやー、なんででしょうねー」としか言えなかった。
また、この辺りの時期、とある用事で海外に行ったことがある。
帰国の便の飛行機が成田に着いた時、荷物がコンベアに乗って出てくる前にトイレに走った。
用をたしてトイレから出ようとしたら、トイレの出口を塞ぐように立つ人影が。
(誰だこんな邪魔な立ち方するのは、あれ? えーと、この人知ってるかな、でもこんなとこにいるわけないよなー)
と、眼から入った情報を脳みそがノロノロと処理している間に、身体が勝手に動いて「押忍!」と挨拶していた。
村上先生だった。
海外指導の帰りだったらしい。
トイレに走っていく私の姿を見かけて、もしかしたらと思ってトイレまできたとのこと。まさか成田空港のトイレで押忍を口にするとは思ってもみなかった。
それから、この話の1話目から度々出てくる、道場の1年先輩の友人「Y」、彼の仕事を手伝いだしたのもこの時期からでした。
彼の会社のホームページを作成したのです。
以来20年も、そのサイトの管理を行うことになるとは。
さて、国士館高校を卒業した市原先生をして「お前がそっちに行くとはなあ」と言わしめた私の活動ですが、2001年を機に手を引きます。国民年金も国民健康保険も支払いが滞る数年間でしたが、一番の収穫は、今の女房と出会った事でしょう。
結婚を考えた私は、この数年間の身過ぎ世過ぎの生活を改め、ネクタイ締めて通勤する毎日に戻るのでした。
この女房が、市原先生から空手を教わるようになるのは、結婚した翌年からになります。
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