阪神大震災と地下鉄サリン事件のこと
阪神大震災と地下鉄サリン事件、どちらも直接被害に遭ったわけではない。
阪神大震災の時は、当時の勤務先の所属部署が故障対応業務だったため、多忙となり道場に通うのが難しくなったのだ。
少し当時の状況を書く。
あの頃は今みたいに誰もがケータイを持っているわけではなかった。またインターネットも一般には普及していなかった。
現地の通信が完全に回復していない期間、奇跡的にサーバと回線が生きていた神戸大学がインターネット経由でアップした現地の情報を、有志がニフティーサーブやPC-VANなどのパソコン通信で受け取って拡散していた。
なんせ待ち合わせのため新宿駅の伝言板に「XYZ」と書いていた時代である。
震災被害に遭った地区の学校や役所の壁には、自分の無事と所在地を書いた貼紙が大量に貼られていた。まるで戦後の焼け跡のように。
阪神大震災は、被害に遭ったわけでも現場を見てきたわけでもなかった。
だが、地下鉄サリン事件は現場を見てしまう。
あの日、1995年3月20日(月曜日)、知り合いが所用で朝から霞ヶ関に向かっていた。
丸ノ内線と霞ヶ関の異変を私が知ったのは出社後。社内で外部ネットに繋がっている社員達からの話で知った。
詳細は省くが知り合いは聖路加病院にいるらしいとの情報が入り、「早退します!」と大声で叫び会社を飛び出して聖路加病院に向かった。
築地の聖路加病院、1994年4月に大山倍達が亡くなった場所は、病室に入りきらない大量の患者たちが廊下にあふれていた。さながら野戦病院だった。
点滴を吊るす器具も出払っているらしく、ある者は自分で、ある者は見舞いに来た人が点滴の容器を手に持っていた。まだ動ける人が、他の人の看護をしていた。非番なのに駆けつけてきたスタッフらしき人も廊下を走り回っている。そして、カメラを構えているマスコミ。
礼拝堂の木製ベンチには、身動きとれない被害者が横たわり、駆けつけてきた親族が傍についていた。
話はずれるが、数年後に1953年公開の映画「宇宙戦争」(2005年にトム・クルーズ主演でリメイク)を観たら、ラストに全く同じ場面があった。重傷者が多数礼拝堂に避難し、負傷者同士が治療しあい励ましあっていた。観ていて聖路加病院の現場を思い出して涙が出てきてしまった。
病室の階の被害者達を駆け足で確認して、また1階ロビーに戻る。ロビーには、運び込まれた人の名前が何枚もの大きな紙に書いて壁に貼りだされていた。紙はどんどん増えていく。
私は紙に書かれた名前を端から端まで確認した。どこにも知り合いの名前はない。
公衆電話で知り合いの家に電話すると、知り合いは別の場所で無事が確認されたとのことだった。
緊張の糸が切れて、身体がクタクタと崩れたのを覚えている。
翌日の21日は休日だったが、ほぼ1日眠っていた。
強制捜査が始まるのは、さらにその翌日、22日からであった。
地下鉄サリン事件は、当時の私にとって衝撃だった。
自分自身の思考と行動を大きく変えることとなった。
いろいろ差し障りがあるので詳細を書くことはできないが、私は道場から離れ、そして勤めていたIT企業も辞め、ある方面で活動を開始した。1999年のことである。
総本部道場に出向き、「思うところがあって道場から離れます」と、金澤弘和館長に伝えた。
「道場から離れるのは残念ですが、やりたいことがあるなら仕方ないですね」と館長は言って、そしてこう続けた。
「落ち着いたらいつでも戻ってきてくださいね。ここはあなたの家なんですから」
この館長の言葉は忘れられない。自作品にも使わせてもらった。
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