昇段審査のこと

 1994年(平成6年)12月24日(土曜日)。この日の総本部道場はいつもより緊張感があり、いつもより人数も多かった。

 なぜならこの日は昇段昇級審査の日。そして私は初段の審査を受けていた。そう、ついに昇級でなく昇段、黒帯の審査なのだ。

 これまでにない緊張の中、基本動作と型に続いて組手も終了。そのまま最後の最後、ターゲットの直前で拳を止める事ができるか否かのテストに移る。パイプ椅子に座った市原先生が「お前はこっち」と身振りで招く。

 先生はいつも通り、岩に皮を貼り付けたような厳しい顔つきでボールペンを握っている。

 「始め!」の合図でテストが開始された。市原先生はボールペンを動かして止める。右へ、左へ、上へ、下へ。その都度私は突きを直前で極める。直前で止めた突きと届かずに当たらなかった突きの区別もつかなかった白帯の頃を思い出す。いきなりボールペンが想像以上に前後に動く。それに合わせて突きの深度をコントロールする。そう、攻撃のコントロールこそが重要だ。動作だけでなく精神状態もコントロールできないといけない。身体も感情もコントロールできない者は空手をする資格はない。黒帯を締める資格はない。少なくとも、我々国際松濤館は、総本部は、そうありたいと思う。


 無限とも思われる数秒間が過ぎていった。

「ヤメ」の号令がかかった。緊張感を解かず残心に留意し、一礼してその場を離れる。

 壁際に正座して待機。続いて始まった二段の昇段審査組手を見学する。床板を蹴る音、裂帛れっぱくの気合いが道場に響く。次はこれをやる事になるのか。自分はここまで動けるのだろうか。それより、自分は黒帯の列に加わる資格があるのか。

 いや、つい5年前の事を考えてみろ。病院のベッドで枕を濡らしていた時を。20年間虚弱体質だったお前は「自分のペースで無理なくやればいい」と市原先生に言われて、気がついたらここまで来ていたんだろう? 限界を勝手に決めてはいけない。

 そう、確かに、想像もしていなかった光景を見させてもらった。体験をさせてもらった。

 以前には考えられなほど、持久力も瞬発力も格段に上がっていった。

 180センチの黒帯のザックさん相手に上段蹴りを放つのは大変だった。そのザックさんが私の右足を上腕でなく裏拳でブロックした時は、帰宅中に足の甲がれ上がり、翌日は接骨院に行って治療してもらう羽目になった。数日は松葉杖をついたなあ。でもケガをする度に人体の仕組みを理解していったように思う。

 杖術やヌンチャクも練習した。映画みたいに両手でヌンチャクを振り回していたら、大嶋先輩から「正中線がガラ空きだぞ」と笑われた。あれはいい経験だった。以後は急所が集中している正中線に気をつけるようになった。


 道場の床に、壁に、響く気合いに、さまざまな記憶が呼び起こされる。


 全員の審査が終わり、号令がかけられた。自信と貫禄にあふれた有段者も、元気いっぱいな少年部も、共に緊張感をまとって横一列に並ぶ。

 館長が九級の審査を受けた者から1人ずつ名前を読み上げる。九級から初段までの人数は多い。自信と期待と不安とが脳裏いっぱいにふくれ上がってくる。

 ついに館長から名前を呼ばれた。「押忍」と応じる。重たい数瞬の沈黙が過ぎた。

 そして館長独特のあの声で「初段」と告げられた!

「よかった」との思いで頭を下げた。道場の全員から拍手がとぶ。いろいろな事が脳裏に浮かび、しばらく頭が下がったままになる。そんな背中を、右隣に立つリチャード・バーガーさんが「やったな」という感じでポンと叩いてくれた。うれしかった。


 この後、通常通りに忘年会があったはずだが、全く記憶にない。

 記憶にあるのは、帰りがけに公衆電話からテレフォンカードを使って友人知人に「黒帯取ったよ!」と報告しまくった事だ。(携帯電話が格安で普及していくのはこの数年後)


 書いていて思ったが、この頃は確かに私の青春時代だった。いや、私だけじゃなく、国際松濤館総本部の青春時代だったのかもしれない。60代の金澤弘和館長が1年のうち8カ月を海外指導で飛び回り、40代の市原先生が総本部にどっしり構えてにらみをきかせ、20代の村上先生、鈴木先生、田中先生、そして金澤伸明先生が指導員として、そして選手としてしのぎを削る。

 これ以上なく、いい季節だった。

 下手の横好きでしかない私だったが、居心地が良すぎる総本部道場に対して

「ボクここんちの子になる!」

 という気分だった。


 ところがか翌年の1995年(平成7年)から、というか翌月から私は道場に行かなくなる。

 理由は、阪神大震災と地下鉄サリン事件だった。

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