1994年の世界大会のこと その1

 1994年(平成6年)は、当時の本職のIT企業(当時IT企業という言葉は無かったかな)でヒーコラ言いながらも、時間をなんとか作って練習し、道場にも遅刻しながら通ってました。五反田の東急池上線改札前のハンバーガーショップ「森永ラブ」で、どうせ遅刻だからとハンバーガー食べてるところを鈴木先生に見つかったりもしましたが、とにかく黒帯の審査目指して頑張っておりました。いや、頑張るというより、楽しくて仕方なかったというべきですな。


 8月は富士吉田支部との合同合宿があり、浅間神社の「吉田の火祭り」も体験しました。

 浅間神社せんげんじんじゃの御神体は富士山そのもの。坂道の参道に等間隔に置かれた巨大な松明の列を一目見て、富士の溶岩流の再現だと気づきました。祭りは基本的に過去の出来事の再現です。星野之宣の「ヤマタイカ」を読んだ身には感激の体験です。

 ちなみに古代の日本では火山を「アサマ」と称し、その名残りとして日本各地には「アサマ」「アソ」「イセ」「ウス」「オソレ」といった「母音とs」の組み合わせの山が多数存在するのです、押忍!


 さてこの年は、私生活ではMacのカラークラシック2を購入し、夜な夜なクンロクモデムでニフティーサーブにログインしてました。テレホーダイのサービスが始まる以前のお話です。毎月の通話料が数万超えてましたね。

 世間でもいろいろありまして、世界的には7月8日の金日成死去が大きかったのですが、空手界では4月の大山倍達死去の方が大きかったです。

 あと、なぜか急激に円高が進行して、6月には1ドル100円を突破したりと大騒ぎ。でもこんなニュース自分には関係ないな、と思ってたら、これが国際松濤館には直撃だった。

 10月に横浜で開催が予定されている世界大会、これに参加する選手たちから悲鳴が上がっていたのです。

 航空チケットはもとより、日本国内での宿泊費が円高のためにどんどん高騰していき、選手団を送る側の負担がシャレにならないレベルになっていたのです。とてもじゃないが連泊させる余裕が無いというわけです。

 総本部は急遽きゅうきょウイークリーマンションなどをあたって部屋を予約したりと対応に追われてました。スポンサーのセザールの協力もあったと思います。最終的には総本部道場での宿泊も認められました。稽古中の道場の壁際に、畳まれた布団が高く積み上がっていたのを覚えています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る