金澤弘和「館長」のこと その1

 ここにきて金澤弘和前館長の訃報に接してしまうとは。

 マスコミで訃報が報じられた本日は2019年(令和元年)12月11日。亡くなられたのは12月7日。88歳でした。


 市原先生に絡めて金澤弘和前館長に関する内容をちょうど書き進めていたところです。

 これまで以上に気合入れて書き進めていきます。押忍!


 では、はじめます。


 さて、私が茶帯の当時、勤めていた会社の先輩から言われた言葉で印象に残っているのがあります。

「人脈は誰にでもある。だが人徳はそうではない。人徳がないと人脈は使えない」

 名刺一枚で数億を売ってくるスーパー営業マンの先輩から言われまして、なるほどなあと感じたものです。


 逆に言えば「あいつの為なら損を承知で馬鹿をやってやろう!」と、思ってくれる人が多数いるという事は、その人に人徳があるという事です。


 金澤弘和前館長は1977年(昭和52年)12月1日に日本空手協会を除名され、1978年(昭和53年)に国際松濤館を立ち上げます。その際、少なからぬ人が、除名されたばかりで無位無冠無職の金澤弘和(当然「館長」ではない)の下に駆けつけます。その中に31歳の市原先生もいたわけです。


 当時の状況を、「我が空手人生」から抜粋します。


〈生活は苦しかったが、空手指導の方は少しずつ目処が立ちつつあった。片岡譲先生の計らいで、四谷ムービーセンター近くの酒屋鈴伝ビルの地階を道場に改装することになった。こうして念願の本部道場を持つことができた。指導員として澤田茂、市原重幸、後から入ってきた粕谷均らが指導に当たることになった。

 稽古は二部制としたが会員は少なく、二部の時間帯には生徒がたった一人ということもあった。市原によると、自分たち指導員が会の歴史を創っていくのだという使命感に燃え、生徒の数など問題ではなかったという。〉


「我が空手人生」で市原先生の名前が出てくるのはここしかないのですが、とにかく市原先生は真っ先に駆けつけて、本部道場の指導員になったわけです。旗揚げ時の本部道場の指導員になったという事は、「道場破り上等!」の覚悟で受けたという事です。しかも無償で。

 無償というのは2つの意味があります。旗揚げ時は金が無いからという事と、当時NTTは電電公社の時代で、市原先生は公務員だったわけです。だから、他から収入得るのはご法度だったのです。

 でも市原先生、民営化されてNTTになってからも、ずっと最後まで無償で指導されてたいたようで、それはそれで他の指導員からは煙たい存在だったろうなあと。

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