総本部道場完成のこと

 1992年(平成4年)10月、国際松濤館総本部道場がオープンしました。

 場所は現在と同じ大田区久が原。東急池上線久が原駅の前です。

 マンション地下1階の広いスペース、ガラス張りで外部から自由に見学可能、空調完備、男女別の更衣室にはトイレにシャワー室まである!

 それまで他所様の道場に居候していた立場からしたら、新築の我が家が完成したようなものでしたから、もう単純にうれしかったですね。

 で、四谷の古い道場から、シャワー付きの新しい道場に本部道場が移ったことが、入門前に暗記するほど読み込んだC・W・ニコルさんの「私のニッポン武者修行」の一節を思い起こさせるわけです。


《日本空手協会の本部は中央線の駅三つ先の水道橋へ移転した。そこは釣堀のある市ヶ谷の先であり、私がドン・ドレージャー、ビル・フラーなどと同居した、自衛隊本部の丘の上のあの古い家の先であった。協会の新道場は元講道館ビルの階上にできた。それは、今までの道場よりもずっと大きく、設備も整っていた。何しろシャワーまであるのだから!》


 まるでニコルさんの体験を、自分が追体験しているような、そんな奇妙な感覚にもなりました。


 と、書いてみて、ふと思った。

 当時の日本空手協会本部の四谷からの移転を、知っている人は金澤弘和館長以外にいるのだろうか? 市原先生はどうなんだ?


 というわけで、計算してみました。


 C・W・ニコルさんの「私のニッポン武者修行」と、金澤弘和館長の「我が空手人生」から、ニコルさんの初段昇格が1964年(昭和39年)11月で、その翌年の1965年(昭和40年)に日本空手協会本部道場が四谷から水道橋に移ったことがわかります。

 その時の市原先生の年齢はといえば、1947年(昭和22年)生まれですから、水道橋移転の1965年に18歳のはずです。

 都内の高校で空手をやっていた市原先生が、ニコルさんの著書にある時間と空間に存在していた可能性は非常に高いわけです。つまり、高校時代の市原先生は、当時の金澤弘和指導員から四谷で指導を受けていた可能性が高い。


 ちなみに、日本空手協会が水道橋に移ってからの道場生に、三島由紀夫がいます。三島由紀夫は1970年(昭和45年)に市ヶ谷で割腹自殺を遂げます。


「私のニッポン武者修行」と「我が空手人生」だけでなく、高木正朝先生の「嗚呼風雪空手道」にも三島由紀夫の話は出てきます。そりゃ強烈な記憶だもんね。

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