総本部放浪時代のこと その2
大崎駅から徒歩3分。
とある公共施設で、流浪の身の国際松濤館本部道場は稽古をすることになります。
これ、ちょっと考えられない事ですが、日本空手協会の教室に間借りしてたんですよ。「行く場所ないからしばらく居候させてくれ」と、除名させられた団体の支部にお願いしたわけですよね。で、共同稽古が半年ほど続いたわけです。普通あり得ないでしょ。
そりゃ同じ流派ですから、道場生からしたらやってる内容は同じなわけで、稽古は楽ですよ。でも組織としてみたらどうなんだろ? 我々を受け入れた事で何か問題起きたとは聞いてないけど。
と、後から考えるといろいろ疑問は出てくるのですが、とりあえず当時は「仮住まいだが稽古場所を探して右往左往しなくて済む」状態に安堵したのが実情。
この時期の事は金澤弘和館長の自伝にも書いてないので、やはり差し障りあるのかなあと思うので軽く流します。(でも書いちゃう)
とにかく、四谷からあちこち流浪を繰り返し、大崎駅前に仮住まいとなったからには、飲み屋も新規開拓することになります。
大崎の駅ビルの居酒屋にはお世話になりました。
この時期から稽古の後に道場の面々と頻繁に飲みに行くようになります。市原先生と年齢的に近い大内先輩から誘われて参加、という流れが多かったなあ。こちらも社会人になり、ある程度のお金を使えるようになったし、それに都内の自分の部屋に最終電車で戻りさえすれば誰からも文句言われないわけで、社会人一年生の一人暮らしを満喫してました。
で、飲み会だと、市原先生の口から稽古の時には絶対聞く事のない話が出てくるわけです。
しかし「空手が嫌で嫌でしょうがない時があった」という言葉が出たのには驚いた。
大内先輩は「道場に行くのが嫌になる時はありますよね」と相づちをうったのだが、市原先生は
「いや、空手そのものが嫌で仕方なかった時があった。その時はストレスで円形脱毛症になった」
と、しみじみと述懐していた。
市原先生の左後頭部に、丸く白髪の
しかしそんな話よりも強烈なのはいくつもありました。
思いつくままにあげますと、
「まあ、あれだ。五反田警察署はサービス悪いな。渋谷だと煙草が出たもんだ」
「相撲取りとケンカした時は、とにかく回り込んで回り込んでケツの穴に蹴りぶち込んだ」
「俺は会社の上司が警察に引き取りにきたからな」
市原先生の本業がNTT職員だと知ったのもこの時期。NTTも大変だなと思ったもんです。
ちなみに、国際松濤館の道場訓は日本空手協会時代と同じ、というか元々の松濤館の道場訓をそのまま受け継いでおります。
一、人格完成に努めること
一、誠の道を守ること
一、努力の精神を養うこと
一、礼儀を重んじること
一、血気の勇を戒むること
全然守ってないじゃん道場訓。
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