白帯の日々のこと その3

「金澤館長に、礼!」

 稽古開始前のいつもの号令に、初めて耳にする礼が加わって、稽古が始まった。

 いつもと同じ準備運動が、館長を正面に見ながら始まる。

 入院中から繰り返し読んだC・W・ニコルさんの書いた昭和30年代末の「四谷の空手道場でセンセイ・カナザワの指導のもと空手の稽古をする」という情景が目の前で再現されている。というか体験している!

 半ば信じられない感覚でいつもの準備運動を行う。あまりに突然の展開で気持ちがフワフワと浮遊しそうになるが、館長の右手で準備運動をしている市原先生の眼光で、かろうじて精神的に着地する。


 準備運動が終わったら、基本動作に入る。それがある程度終わったところで、帯の色ごとに先生が付いて基本動作の稽古が始まった。そして信じがたいことに、我々白帯には館長が付いてくれた!

 昇級審査用の動きをチェックしてくれる。

「前屈立ち構え。下段払いから中段追突、最後に気合」

 これまで散々やってきた動きではあるが、金澤館長の前で行うのは初めてだ。どんな厳しい指導が入るのか緊張してしまう。

 一通り動作を見た後に、館長が私に質問してきた。

「君は、審査は初めてかな?」

「押忍! 2月末に入門しました! 9級を受けます!」

 その場で再度基本の突きと受けの動作をするように言われ、審査と同じように突きを五本行うと

「うーん、実に素晴らしい。白帯にしておくのが惜しいくらいだ」

 と、とんでもないくらいの賛辞が館長の口から飛び出した。

 思わず館長の顔をのぞき込みそうになる衝動を抑え込んで、館長の指示のもと基本動作を続ける。

 館長は私が突きや受けの動作をする度に、「素晴らしい!」を連発した。内心「ほんとかよ?」と思いながらも、これまで市原先生をはじめ各先生方から厳しく指導受けたから、ひょっとしたら俺って上手くなってるのかも? と思ってしまう。


 一年後、この頃の私と同様にガチガチに硬い動きの入門したての白帯に対して、館長が私にしてくれたのとまったく同じように、動作の一つ一つに称賛の言葉をかけてあげているのを見て、懐かしさと感謝の念が沸き起こるのだが、それはまた別のお話。


 型も含めて審査向けの稽古が終わった。いつもなら掃除が始まる時間に、道場の隅に立てかけてあった長机とパイプ椅子が正面に運び出される。昇級昇段審査が始まるのだ。


 稽古開始と同様に号令と礼があり、そして全員が一旦下げられる。

 これから審査が始まるのだ。見るのもやるのも初体験だ。どのように進むのだろう、そう思いながら壁を背に腰を下ろした途端、大きな声で私の名前を呼ばれた。慌てて「押忍」と叫んで跳ね起きる!

 審査は一番下の級から始まるのかと理解したが、だからといって緊張感が和らぐわけじゃない。まったく心の準備どころじゃなかった。

 目が泳ぎかねない緊張感の中、とりあえずやる事はやったんだと自分に言い聞かせて、自然体で号令を待つ。


「前屈立ち、よーい、構え!」

 号令に従って、「エイ!」と気合を発して前屈立の姿勢を取る。気合に陰と陽があるのは理解していた。攻撃は陽の気合の「ヤー!」、受けは陰の気合の「エイ!」。それを初めて知ったのは館長と松田隆智氏の対談だったか。


 下段払いから、中段追突。同じく下段払いから中段逆突。

 下段払いから上段揚受。同じく下段払いから中段外受。

 前屈立から、前蹴。

 最後に騎馬立ちから、横蹴上。

 これら全て、五本目は気合を発する。攻撃には陽の気合、受けには陰の気合を。


「止め!」の号令で、自然体に戻る。長机に座っている館長と市原先生は、真剣な表情でこちらを見たままだ。

 大丈夫だよな、特にミスとかしてないはずだし。

「はい、ご苦労様でした、下がってください。次!」

 館長の指示で、我々は下がり8級の審査の面々が入れ替わりに道場中央に立つ。

 この後、8級から3段までの動作の審査が続いた。

 それが終わったら型の審査が始まる。

 やはり9級審査から始まり、最初に名前を呼ばれた。

 平安初段。何度も一人で練習した。動線も2カ所の気合も理解している……はずだ。

 震えが来そうな緊張の中、市原先生の「はじめ!」の号令で一挙動目の左下段払を行う。よかった、ちゃんとできた。あとは身体が動いてくれる。急ぎ過ぎないよう、ゆっくりにならないよう、自分の心に手綱をつけながら、最後の動作を自分なりの「残心」で終わらせる。

「止め!」の号令で元の位置に戻り自然体で立つ。よかった、間違いなく元の位置だ。


 型の審査も終わった。下がって腰を下ろしたが、他の人の審査をじっくり見るような心の余裕はない。五本組手が残っている。教本のコピーを今すぐカバンから出して復習したい欲求に駆られたが、なんとか思い留まる。頭の中で必死に復習を開始する。突きを五本、同じリズムで連続して突く。最後の突きで気合。突いた動作で停止。反対に受けの時は、相手の攻撃をよく見て受けを五回。で、五回目の受けの後に突きで気合……あれ? 右からだっけ? 左からだっけ?

 などと1人脳内でバカな事をやってるうちに、型の審査が全て終了、組手の審査が始まる。当然最初に名前を呼ばれる。

 頭の片隅で、未だにどっちだっけとパニクりながら前に出る。

 長机では審査の用紙を前にして館長がこちらを見ている。当たり前だ。で、隣に座っている市原先生は、腕を組みながらこちらを睨みつけている。


 パニクるな、散々やっただろ。


 号令と共に、五本組手開始。

 まず上段追突おいづきを五本。思いっきり突いた。ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ヤー!

 相手は追突に対して揚受あげうけ。こちらが突いてくる側の腕で相手は受ける。最後にこちらの正中線に中段をめるため、突いたままの拳にクロスしないよう動く。

 そう、散々やったんだ。

 代わって相手の上段突五本を受ける。

 相手の動きに合わせて後退と揚受を繰り返す。受けは相手の攻撃をこちらの急所から軌道きどうを外すくらいに強く受ける。

 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン、ガツン。そして中段の突き。ヤー!

 中段追突五本も同様。

 こちらの突きは相手の受けで軌道を外される。相手の受けが当たる自分の腕が痛い。つい痛くないように突きの軌道をずらしてしまいたくなるのをこらえる。

 今度は外受五本。相手の中段突をはたき落とす勢いで受け続ける。受けだって攻撃だ! 市原先生も「空手なんてのは相手を痛くすりゃいいんだ」と言っている! 五本目の受けが終わった! 最後に中段逆突! エイ!


 終わった。とにかく終わった。

 一礼して下がり、壁際に腰を下ろす。

 もう私の分は全て終わった。

 そのため、やっと落ち着いて他の人の審査を見る余裕が出てきた。

 級や段が上がるごとに、当たり前だけど組手の難易度が上がる。

 あれらをこれからやっていくのかと思うと、期待と不安の波が交互に押し寄せてくる。

 初段以上の審査には、市原先生の厳しい叱咤しったが飛ぶ。やはり帯の色には責任が伴うのだなあと感じた。


 全ての審査が終わった。

 整列の後、審査結果が読み上げられる。

 私の名前が呼ばれ、9級合格が告げられる。正直、ホッとした。よかったー!

 そのまま次々と名前と結果が読み上げられる。優秀な人は2級一度に上がるらしい。また合格に若干足りなかった人は「仮n級」となる。それでも帯の色はその級の色を締めることができ、次回審査は次の級を受けることもできる。

 さて、段の方だが、イギリスから来た上智大学の留学生アンドリューは初段に、鈴木先生は2段に合格した。

 だが、名前は失念してしまったが、3段の審査を受けた人は不合格になった。厳しいと思うのと同時に、段位というのは重いのだと実感した。


 審査は終わり、掃除が始まる。

 今日は道場生が大勢いるので、あっという間に雑巾掛けは終了してしまった。

 とにかく、なんとか無事に審査は終わった。空手着からスーツに着替え、まだ大勢が賑やかにしている道場を一礼して出ようとしたら、市原先生が真っ直ぐにこっちにやってきた。入門してから初めて見る上機嫌な笑顔を私に向けて

「オゥ! 今日はよく頑張ったじゃないか! よかったぞ!」

 と言ってくれた。

 それを聞いた瞬間、かかとが床からふわりと3センチほど浮き上がったような感覚に襲われた!

 あの、いつも怒鳴られてばかりの市原先生から、初めてめられた! 信じられない!

 様々な感情が一度に出てきて、「押忍!」と頭を下げるのが精一杯だった。


 20時近い夜空の下、四ツ谷駅へ一人歩きながら、この日、はっきり思った。

 私は、ここにいてもいいんだと。

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