見学をした日のこと その3

 平成3年(1991年)当時、四谷にあった国際松濤館の本部道場は、一言で言えばとても狭かった。テニスコート片側以下の面積かもしれない。おまけに地下室だから窓もない。

 そんな場所で多数の道場生が、ぶつからないよう互いの距離を調整しながら稽古開始前の時間で身体を動かしている。

 ストレッチをする者、鏡を見ながら型の動きをする者。突き蹴り受けの動きをする者。みな自由に、和気藹々わきあいあいと、しかしふざける事なく動作を続ける。

 それを眺めていたら、若い鈴木先生が「礼をする時だけ、みんなと同じように礼をして下さい」と伝えてきた。この辺り礼法に厳しいんだなと感心した。ワクワクしてその時を待つ。

 やがて稽古開始の時間となり、鈴木先生の号令で、皆が一斉に整列する。緩んでいた空気が一瞬で引き締まる。見るとどうやら右手から段位の順に並んでいるようだ。私も慌てて椅子から立ち上がる。

 また号令が飛び、一斉に正座の姿勢をとる。私も同様に正座する。そして正面の壁に貼ってある大きな日の丸の旗を見つめる。

 続いて号令と共に黙想をはじめ、号令と共に黙想を止めた。

「正面に、礼!」鈴木先生の号令と共に日の丸の国旗に向かい深々と礼をする。次いで「市原先生に、礼!」で、身体の向きを少しずらして市原先生に向かい礼をする。

 それから稽古開始。私はまた壁際の椅子に座って見学する。

 道場生たちは互いにぶつからないよう前後に移動して、一斉に準備運動。たっぷり20分近くストレッチなどしてから、次に基本の動きを反復練習。そして二人向かい合っての攻撃と防御の動き。どうやら決まった手順があるらしく、最後には大声で気合を発している。この動作に難度があり、白帯だけ、色帯だけ、茶帯と黒帯、黒帯だけ、といったように、ランク別に呼び出された者たちが号令と共に動作を行う。

 これは道場が狭いせいもあるかもしれない。

 ここまでで60分近く過ぎた。一旦休憩となり、皆壁際に座って呼吸を整える。

 それほど時間を置かず、すぐまた号令がかかった。

 型の稽古が始まる。白帯と色帯で平安型を、次いで色帯と黒帯で鉄騎てっき初段と抜塞大ばっさいだい観空大かんくうだいを行う。

 ああ、これがそうなのか……。力強い動きの抜塞大、美しい動きの観空大。号令に合わせて一糸乱れず動く道場生たち……。「ライオンもおびえそうな、ものすごい声」での呼号。本の描写の通りだ。入院中のベッドの上からこの場に来るまで、何度も何度も繰り返し読んだC・W・ニコルさんの「私のニッポン武者修行」に書かれている通りの事が、目の前に展開していた。

 道場の場所も同じ四谷(本では日本空手協会本部だったが)。私はこの道場に入ることで、あの本の世界の住人になれるのだ。

「空手バカ一代」を読んだ人が極真に行けば、同様な感情を持つのだと思う。憧れの人たちの名前が連なる舞台の端っこに自分も立てるような、あのくすぐったくも晴れがましい感覚。

 マンガや本の影響で空手を始める人は多いだろう。平成3年当時「拳児」と「私のニッポン武者修行」を繰り返し読んでいた私には、国際松濤館以外の選択肢は無かった。そして私の場合、「強くなりたい」ではなく、「このままではもう後がない」という危機感の方が強かった。

 先日(2019年6月)私の部屋から発掘された当時の日記を読むと、夢と希望にあふれた青春を謳歌おうかする20代前半ではない、何が正解か皆目分からず、出口の見えない隘路あいろにはまり込んでもがいているだけの若造だったあの頃の感覚がよみがえって辛かった。


 閑話休題。


 始まりと同様、正座して礼をして、稽古の時間が終わった。

 皆、一斉に雑巾がけをして、あっという間に清掃完了。これも本の通りだ。


 どうやらここに入門してもボコボコにされる事は無さそうだし、中学生くらいの道場生もいるし、自分でもやっていけるだろう……という、実に安易な考えで入門の意思をパンチパーマの市原先生に伝えた。


 そして、一つ質問をした。

 これを書くべきかどうか悩んだが、当時の自分の状況を考えれば、絶対書くべき事だと思うので正確に記載する。


「自分はB型肝炎キャリアなのですが、ここで稽古する事に問題はありますか?」


 それを聞いた市原先生は、ニヤリと肉食獣の笑みを浮かべてこう言った。


「組手は止めておくか?」


 ひょっとして組手を怖がっていると思われた? この時しどろもどろになりながら、自分の血が流れて皆に迷惑かかるからと言ったのだが

「無理せず自分のペースでやればいい。疲れたら一礼して隅で休め」

 こちらが何年も気に病んでいた事を全く気にしてないのに驚いた。


 今考えるとよく分かる。

 伝統派の組手は基本的に寸止めであり、そして先輩達の突き蹴りはコントロールされている。

 組手で流血を恐れるような事態になるには、こちらの実力が先輩達に追いついてきてからの話だ。入門したばかりの人間が心配するような事ではない。

 市原先生はそう考えていたのだろう。


 まあ、こちらが言った意味を全く理解していなかった可能性もあるのだが。


 で、「この話は終わり」というように、市原先生は若い鈴木先生を呼びつけて、入会の手続きをするよう指示を出した。

 コピーにコピーを重ねて文字がかすれている入会申し込み書にサインをしてから、道着を注文するため鈴木先生が私の身長などを採寸する。

「少し大きいのを注文します。洗うと縮むので」

 注文して届くのは1週間後とのことなので、来週に来よう。

 他にも稽古時間とか入会費、月謝などについて、ご丁寧に説明してくれてから

「他に、何か聞きたい事はありますか?」

と、鈴木先生が私に問いかけた。

 この時の、私がした情け無い質問は、今でもはっきり覚えてる。

「来週は月末なので、今月は1回だけしか来ない事になりますが、今月分の月謝はいくらになるんでしょう?」

 鈴木先生はちょっと考えて

「じゃあ千円だけ払ってください」


 入門して私が最初に行ったのは、月謝を値切る事でした。

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