2018年の父の日のこと その2

 まぶたを閉じ、口も固く結ぶ。だが、涙はこらえきれるものではない。

 私が泣いている事に、最初に娘が気づき、次いで女房が気づいた。

「市原先生が亡くなった。Yさんから連絡あった」

 これだけをなんとか女房に伝えて、洗面台によろけながらたどり着く。

 女房は、市原先生もYのことも知っている。私と一緒に国際松濤館で空手を稽古したからだ。長男がお腹にいることが分かるまでの短い期間ではあったが。

 蛇口をひねり、顔を洗う。しかし涙は止まることなく流れてくる。数々の記憶が呼び起こされ、とうとう声をあげて泣き出してしまう。

 50歳になった男が、女房子供の前で、後悔と無力さにさいなまれながら大泣きしてしまうのだから情けない。

「大丈夫? 今日、(ランチの予約)キャンセルする?」

 女房が優しい声で気遣ってくれる。もうお互い喧嘩どころではない。


 今日のランチは、子供たちが楽しみにしていたものだ。こっちの都合でキャンセルしてはいけない。これでも一応は父親なんだから。

「大丈夫、落ち着いたらすぐ追いかけるから先に行っといてくれ」

 そう言って女房と子供たちだけを先に行かせた。


 独りになって、落ち着くかといえばそんなことは無い。反対にたがが外れたように大声で泣いてしまう。こんな事ではいかんと思うのだが、嗚咽おえつが止まらない。足腰に力が入らず、洗面台に崩れ落ちてしまう。

 これは、ランチは3人だけで私はキャンセルすると連絡するしかないかな。仕方ない、子供たちには後で謝ろう。とてもじゃないが行けそうにないからな。


「バーカ、気合いが足りないんですぅ気合いがあ!」


 出し抜けに、聞き覚えのある怒鳴り声が脳裏に響いた。

 驚いて顔を上げると、眼を大きく見開く自分の顔が鏡に映っている。蛇口から水が流れる音だけが今は聞こえてくる。

 なんだったんだ、今のは? そんな事あるのか?

 間違いなく、市原先生の怒鳴り声だった。いつもの「気合いが足りないんだよ気合いが!」ではなく、たまにしか言わない、少しあざけるように語尾を伸ばす言い方だったが、それだけに間違いなく市原先生の声だとしか思えない。


 そうですね先生、気合いが足りませんでした。

 顔を再度洗いなおし、タオルでゴシゴシ顔を拭く。

 すみませんでした先生。父の日に父親である事を放棄してしまうところでした。ありがとうございます。

 身支度を整えて、神棚に二礼二拍一礼して、更に「押忍!」を追加してから、私は家を出て駆け出した。

 口元には笑みさえ浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る