第80話
翌朝、俺は昨日帰る前から眠りについていて風呂に入れていなかったエルを洗っていた。
いつも着ている黒い服の上に、療養中に愛用した、ミナが作ってくれたパーカーを着ている。ズボンは濡れないように膝下まで折っている。
「まったく、昨日はエライ目に遭ったよ……」
寝ていて何があったか知らないエルに、昨日の愚痴をこぼす。
昨日ヴィレルとの話を切って中に入った後、俺はエミを怒っていたのだが、何故か酔っ払って寝落ちしたレイラを部屋まで運ぶ羽目になったのだ。主犯のエミではなく、その場にいなかった俺がだ。
「しかもレイラを部屋まで運んだら、あいついきなり目覚ましてよ。逃げようとしたら布団に引き込まれるわ、
エルは気持ちよさそうにしているが、俺の話を聞いているかは定かではない。しかし、愚痴を零せるだけまだ有り難いのだ。俺のパーティーはだいぶ親しい間柄ではあると思うのだが、俺以外の人間はみんな女子なのだから。愚痴なんかこぼせない。エミとて例外ではない。
「お前だけだよ、こうやって愚痴を言えるのは……男の仲間がいて、ほんと助かってる」
首の下を搔くようにして洗いながら呟く。エルの実際の性別を俺は知らないが、恐らくオスだろうと思って……いや、信じている。だってエルも女だったら、ハーレムとかいう状況になっちゃうし。紅一点ならぬ黒一点とか、なんの需要もないし。
「……もしお前が女の人間に化けるようなら、俺はもうこのパーティーでは生きていける気がしないよ……」
一度エルの声は聞いたことがある──一昨日のことだが──のだが、かなり高めの声だったのだがそれは生まれて間もないからだと思っている。
その時だった。洗われて気持ちよさそうにしていたエルが、唐突に飛び上がって宙返りをしたのだ。
「ちょ、おま……⁉︎」
そしてこの行動が示す未来は──
俺は巨大化したエルに潰されると思って身構えたのだが、そんなことはなく、エルの宙返りの際に泡だらけになった顔もそのままに見た現実は、
「なれちゃった」
俺の方をつぶらな琥珀色の瞳で見つめてくる、聞き覚えのある舌ったらずな声をした、白金色の髪の少女だった。
♢
泡だらけになった服を着替え、少女にミフィアの服──ミフィアにはまだ専用のポーチを買っていないから、彼女の所持品は俺が管理している──を着させ、俺が寝ている部屋へと戻っていた。そして、迷っていた。
「女の人間になったら、俺はこのパーティーでやっていける自信がなかったんだが……」
「人間の姿、意外と楽」
目の前のエルと思われる少女は、俺の心の機微など露知らず、人間の姿を楽しんでいた。
何故人間の姿になったのか。これはもしかしたら身体のサイズを変えることができる理由と関係があるのかもしれないが、今の俺にはこれからのことを考えるので頭がいっぱいだった。
「……俺、もう生きていけないよ」
黒一点など、まったく需要を感じないと豪語していた俺が、その黒一点に陥っているのだ。そのうち一人は妹、うち一人は奴隷、うち一人はドラゴン、うち一人は最初の仲間。なんとも選り取り見取りではあるが、どう考えても──少なくとも俺としては──あまり好ましくないのだ。
今は他の仲間は買い物に出掛けているが、帰ってきたらどうすればいいか。
「……エル、元に戻れないのか?」
「出来るよ」
そして、なんの助走もなく、その場で宙返りをする。そして、いつものチビドラゴンになる。
「……どういう原理なんだろうな、それ」
一年近くは一緒にいるし、何度も姿変化は見てきた。しかし、魔力の流れも感じないし、魔法でないとすれば、姿を変えることなどほぼ不可能なはずなのだ。魔道具なら可能性はあるが、エルが使っているとも思えない。
そして、再びエルが人間になる。
「人間になれ、って思ったら、なんかなってた」
エルの見解としては、そういうことらしい。あの宙返りに何かあるのか、などとも思うが、やはり何も分からない。
「やっぱ、変身魔法かその辺だろうな……」
頭を抱えて悩むが、もうこの状況を受け入れるしかなさそうだった。エルはドラゴンなんだから、メスだろうとあまり気にすることはないと思うが、これからは誰に愚痴を聞いてもらおうか……
「愚痴なら聞くよ?」
「……女に愚痴を聞いてもらうのは、なんか尊厳とかそういうのが傷付けられそうで嫌なんだよ」
「気にするな」
「気にするよ……」
気楽な話し方をするエル。そういえば、なんで喋れるんだろうか。エルが言葉と接する機会なんか、俺らの会話や独り言、愚痴くらいしかなさそうなのに。それだけにしては流暢だし、意味もちゃんと合っている。つまり、たった一年の数少ない接点で使えるようになった、というのだろうか。
「エル、どこで言葉覚えたんだ?」
「気付いたら覚えてた」
天才か。いや、人間も子供の頃は気付いたら言葉は覚えるものか。
「……兎にも角にも、レイラ達にどう伝えるべきかな……そのままでもいいけど、俺に変な疑いとかかけられるのもられるのも嫌だしな……」
誘拐してきたとか思われては、俺の人生終わりまっしぐらだ。
「どうした、騒がしくしおって……ふむ、あのドラゴンか。何故人間の姿をしておるのやら……なるほど」
唐突に入ってきたヴィレルは、一人で何か呟き、一人で何かを納得したようだった。
「このドラゴン、なかなかの優れものじゃのう。魔力を使わずにどんな生物にでもなれるんじゃと。まあ、生物内での制限はあるようじゃが」
「つまり、魔力の消費がゼロで、変身魔法が使える……てことか?」
「端的に言えばそうじゃな。実際は少し違うようじゃが……まあ、大差ない」
生物内での制限というのは、恐らく人間ならこの姿だけにしかなれない、といったものだろう。
「にしても、妾に負けず劣らずのモチモチ肌じゃな……ここまでのモチ肌はなかなかおらんぞ。レイラやエミにも勝っておる」
肌がどうこうとかは、俺にはよく分からないが、ヴィレルが実際にエルのほっぺをぷにぷにしながら言っているのだから、そこまで触り心地がいいのだろう。というか、そこまで絶賛するんだったら、俺も触ってみたい。
ベッドから立ち上がり、エルに近付く。察したヴィレルがエルから離れたので、俺はそっと右手をエルの頰に近付かせて──
「……やらけぇ」
スベスベの肌に、押さえた指を弾くような弾力。凹凸など一切なく、潤っていることがこういうことに一切知識のない俺でも分かる。
左手も使い、エルの頰を左右から挟む。押したり引いたり、色々と無意識にしていると、
「くすぐったい……」
くぐもったエルの声で、俺は現実へと引き戻された。
「ご、ごめん、つい……」
赤ちゃんの肌など、エミが生まれたての頃に嫌という程触ったのだが、エルの肌はそれを凌駕していた。
「なかなかのものじゃろう?」
何故か自慢げにヴィレルが聞いてくるが、そんな些細なことは気にならなかった。
「あぁ……まさか、俺の意識が完全に持っていかれるとはな……」
「うむうむ。どうじゃ、妾のと触り心地を比べてみるか?」
「結構です」
ヴィレルが「何故じゃ⁉︎」と声を荒げるが、それこそ些細なことだ。未だに俺の指先には、エルの頰の感覚が残っている。これを上書きなどしたくなかった。
でも、今冷静になって考えると、エルがどんな生物にでも化けれるのであれば、だいぶこれからの戦闘で手数が増えることになる。
クリスタルドラゴンという希少種なのに、俺らの下に生まれたエル。身体のサイズだけでなく、全ての生物になれるということが今日判明した。
「お前は、最高のドラゴンで、俺らの仲間だ。これからもよろしくな」
艶やかな白金の髪を優しく撫でると、エルは嬉しそうに顔を綻ばせて、にかっと笑った。
エルとの出会い──俺はこの奇跡を、人生で一番大きな出来事だと思い続けるだろう。
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