下した、決断


 おに


 それは、魔族の中でもとくに有名な種族であった。人間に近い姿形をしており、額に一本、または二本の角を持つ。その力は強大で、刀を持った達人でさえも、うかつに鬼には近づいてはならぬと言われているほどである。


 かの魔神「厭天王えんてんおう」も、鬼の一族の出身であるらしい。さすがにあれほどの力を持つ鬼は、澪丸の師匠いわく、これまでの長い歴史の中でも初めてだったそうだが――魔神と自称できるほどの魔族が鬼の中から現れたのは、ある意味で必然だったといえるだろう。それほどまでに、「鬼」とは強い力を持った魔族なのである。



 だから、澪丸は相手がたとえ年端もいかぬ娘の姿をしていても、油断はしなかった。じり、じりと距離をとりながら、その娘に向かって問いかける。


「おまえは……何者だ。鬼であることは間違いないようだが……どうして、人間の姿をしている? 変化の術は、妖狐ようこ専売特許せんばいとっきょのはずだろう」


 そう。澪丸が知る「鬼」とは、もっと恐ろしい外見をしているもののはずであった。げんに、澪丸がこれまでに戦ってきた鬼は、人間など一飲みにしてしまいそうなほど巨大で、野蛮な風貌を持つ者ばかりであったのだ。


 だが、この薄桃色の着物に身を包んだ「鬼」は、年頃の人間の娘のような外見をしている。放つ気配も弱々しく、澪丸をもってしても近づくまでは鬼だとわからなかった。それこそ、額の角を見なければ、どこかの村娘だと言われても納得できるだろう。


「……わたしは」


 そこで、鬼の娘がはじめて、澪丸の前で声を発した。それは、鈴を転がしたような、綺麗な響きを帯びた音色だった。


「わたしは……もとから、こんな見た目。あなたは、鬼を見たことがない……?」


 刃を向けられて、戸惑いを感じたような目で、彼女は澪丸を見つめる。


 娘の言葉の意味を、澪丸は理解することができなかった。その言い方だと、鬼とは人間に近い見た目をしているもの、ということになる。たしかに、澪丸がこれまで戦ってきた鬼は、彼らの中でも精鋭に入る部類の「つわもの」ばかりであったが……かといって、ふつうの鬼が人に近い姿をしているなんて話は、聞いたことがない。


 じぶんと娘の話の食い違いに違和感を覚えながらも、澪丸は彼女を睨む。


(魔族の言うことに惑わされるな……と思いたいところだが、こいつが嘘をついているようには見えない。問題は、なぜ、人売りの連中が鬼を連れていたのか……そして、なぜあんなにも弱い連中に、この鬼は反撃をしなかったのか、だが……)


 鬼の娘は、澪丸と倒れたふたりの男を交互に見ていた。そして、戸惑いの中に少しだけ悲しみを混ぜたような表情で、その小さな口を開く。


「あなたは……わたしを、助けてくれたんじゃなかったの?」

「最初はそのつもりだったさ。おまえのことを、人間だと思っていたからな。――答えろ。なぜ、鬼のおまえが、人売りに捕まっていた? やろうと思えば、その縄など簡単に千切れたはずだ。なんのたくらみがあって、縛られたままこの男たちに従っていた?」


 まるで尋問のような問いかけに、娘は口を一文字に引き結んで……やがて、ぽつりと、語りはじめる。震える声が、桜の舞う山中に響いた。


「……わたしの住んでいた里が、人間におそわれたの。牛頭郎ごずろうも、阿波忌あわきも、みんな殺された。父さまも、わたしを逃がそうとして、人間にツノを斬られ、死んでしまった。――わたしは森に逃げようとしたけれど、そこに倒れている人間たちにつかまったの」


 警戒を続けながらも、澪丸はその話に耳を傾けていた。


 鬼の娘の目に、透き通った一粒の涙が浮かぶ。その悲しげな、そして悔しげな表情からは、嘘の話で澪丸を騙そうとする気配など、みじんも感じられなかった。


「たしかに、おとなの鬼だったら、この縄だってちぎれるかもしれない。けれど、わたしはまだ子どもだから、そんなことはできなかった」


 自身の腕を縛る縄をうらめしそうに見つめるその姿に、恐ろしい魔族の面影は見えない。そこにいるのは、ただじぶんの無力を嘆く、ひとりの娘であった。


 だが――どれだけしおらしく、悲劇的にふるまっていようとも、この娘が魔族であることに変わりはない。澪丸はひとつ呼吸を整えてから、刀の切っ先を娘へと向けた。


「……おまえの境遇は、理解した。だが、だからといって、おまえを見逃すわけにはいかん。鬼が人間を喰らう魔族である以上、おまえを放っておけば、確実に誰かが死ぬことになる。――恨んでも構わないさ。だから……せめて、ひといきに殺してやる」


 そう告げて、少年は娘へと歩み寄る。上段に構えた刀が、ぎらりと光った。


 鬼の娘は、澪丸に向けて、絞り出すような声を飛ばす。――それは、命乞いなどではなく、むしろ相手に屈することのないように紡がれた、強い言葉であった。


「……わたしたち、鬼は、人間を食べたりなんかしない。わたしたちが食べるのは、猪肉ししにくか、魚だけ。わたしの里のだれも、人間なんか食べたことがない」

「――魔族の言うことに、耳は貸さん」

「あなたは鬼のことをなにも知らないから、勘違いをしているの。……ううん、あなただけじゃない。人間はみんな、よく知りもしないままに、鬼を殺そうとする。わたしの里をおそった人たちも、そう。鬼の角に、人間の病気をなおす力があるって言って、みんなを殺した。――ほんとうは、わたしたちの角に、そんな力なんてないのに」

「耳は、貸さん……!」


 やがて、澪丸は娘を刀の間合いにとらえた。ここで刃を振り下ろせば、それで事は終わる。



 ――――だが。


 見下ろす澪丸の藍色の瞳と、見上げる娘の紅い瞳が、空中の一点で交差した、そのとき。


 澪丸の目が、娘の瞳の奥深くに、言葉にできない「ゆらめき・・・・」をとらえて――――刀を振り下ろそうとした少年の手が、ぴたりと止まった。上段に振りかぶったまま、まるで石にでもなってしまったかのように、少年は微動だにしない。



(…………?)


 なぜ自分が止まってしまったのかを、澪丸は理解できなかった。この娘がなにかをしたわけではないし、澪丸の体が動かなくなったわけでもない。ただ、少年は、無意識のうちに、この娘へと刃を振り下ろすことを躊躇ためらってしまったのだ。


 その原因は、まちがいなく、今しがた自身が娘の目の中に見出した、「ゆらめき」であった。だが、いったいそれが何であるのか、澪丸は理解することができない。ひとつだけ、かすかにわかることは――その「ゆらめき」を、澪丸はどこかで見たことがある……否、感じた・・・ことがあるということくらいである。


 ――次の瞬間、少年の頭の中に、突如として洪水のように記憶の断片が映し出される。それは、もうずっと「昔」、澪丸が魔神の軍勢によって故郷を滅ぼされたときの光景であった。


 魔族が不快な笑い声をあげる中で、澪丸の両親が、友が、その身を八つ裂きにされて死んでいく。澪丸は恐怖に飲み込まれながら、命からがら蔵の床下に逃げ込み――そこで震えて涙を流すしかなかった。ほかの人間を助け出すための力も勇気もなく、少年はただ、己の無力を嘆くことしかできない。


(……そうか)


 そこでようやく、少年はその「ゆらめき」の正体を悟った。


(こいつと、俺は、同じ・・なんだ)


 澪丸と、この鬼の娘は――人間と魔族という違いはあれど、互いに故郷を滅ぼされ、過酷な運命に身を投げ出された者どうしなのだ。だから、瞳の奥に、知っているような感情の揺れ……すなわち、「ゆらめき」とでも呼べるようなものが見えたのである。


 それゆえに、澪丸はこの娘を殺すことができなかった。それは「同情」以外のなにものでもなく――少年は驚きと共に戸惑いを感じ、必死に首を横に振る。


(俺が……魔族に、同情しているだと? いくら境遇が似ているとはいえ、魔族が俺の敵であることに変わりはないじゃないか。――だいいち、この娘を野放しにしておけば、いつかどこかで、人間が喰われて――いや、この娘は、人を喰わないと言っていたぞ? ……いやいや、それも違う。なぜ、魔族の言うことを、俺が信頼しなければ――――)


 まとまらない思考が少年の頭の中で絡み合い、複雑化していく。目の前の娘が「敵」であると理性では分かっていても、彼女をあわれむ感情が、刀を振り下ろすことを許してくれない。


 それでも、澪丸は、自身が為すべきことのために、理性で感情をまるめ込もうと思考を続ける。


(――そうだ、たしかに、こいつは可哀かわいそうなんだろうよ。昔の俺と同じで、大事なものをぜんぶなくして、取り戻すこともかなわない……たしかに、とんでもなく不憫ふびんで、憐れで、可哀そうだ。……だが、それがどうした? 俺は、魔族から人間を守るために、力をつけたんだろう。それを、ここで振るわなくてどうする?)


 そうして、澪丸は長い思考の蟻地獄ありじごくから這い出すように、顔を上げた。ふたたび、目の前の娘と目が合う。彼女は決然とした表情で、「殺すならば殺せ」とでも言うように、口を堅く引き結んだまま澪丸を睨んでいた。


 ひとつ深呼吸をしてから、澪丸はついに、からまった思考に終止符を打つ。


(……魔族というものを、なんの理由もなく・・・・・・・・生かしておくのは。魔族に殺された父さんや母さん、そして俺に魔族殺しのすべを教えてくれた師匠への、裏切りになるだろうよ。……だから。だから、俺は――――)


 やがて、刀を振り上げた姿勢で止まっていた澪丸の手が、ゆっくりと動き出す。石のように固まっていた指先に、熱い血が流れだした。


「お……おおおおッ!」


 叫びと共に放たれたのは、「鬼界天鞘流きかいてんしょうりゅう」三の型――「群青堕ぐんじょうおとし」。


 それは、人売りの男たちに使ったときのような、手心を加えたものではなかった。峰打ちではない、本気の一撃。魔族の首を斬り落とすために磨き上げられた技が、娘にめがけて牙をむいた。



 そして――陽光を受けてぎらり・・・と光った刃が、たしかに、なにかを断ち切る音がした。



 瑠璃色の刀の切っ先が、勢いあまって地面までも切り裂く。まっぷたつになった雑草が、風をうけてはらりと散った。



 澪丸はしばらく、刀を振り切った姿勢で止まっていたが――やがて静かに目を閉じると、その刃を鞘へと納める。


 それと同時に少年の耳に届いたのは、鬼の娘の、戸惑いを含んだような声。


「……どうして」


 彼女は、「信じられない」とでも言いたげな目で、じしんの手首を見つめていた。否――彼女の視線の先は手首ではなく、鋭い切り口によって分断された縄・・・・・・・・・・・・・・・に向けられている。



どうして・・・・わたしを助けたの・・・・・・・・?」



 少年は、その問いには答えなかった。

 そのかわり、話の流れをさえぎるような問いを、娘へと投げかける。


「――おまえは、『厭天王えんてんおう』という鬼を知っているか?」

「えんてん、おう……?」


 いまだ状況が飲み込めないといった様子で、娘が呟く。そこには、かの魔神の名前に対する、なんらかの反応は見られなかった。少年はそれが想定内だったと言わんばかりに、続けて語る。


「そうだ。俺は、その鬼を探している。……だが、人間である俺が、鬼であるそいつを探すには、いくらか苦労しそうだと思ってな。じゃの道はへび、鬼の道は鬼。――鬼であるおまえを連れて歩けば、早くそいつを見つけ出せそうな気がしたんだ」

「…………ほんとうに。ほんとうに、わたしを助けた理由は、それだけなの?」


 娘は、澪丸の真意を確かめるように、少年へとそう問いかけた。

 対する澪丸は、娘から視線を外したあと、あえて作ったかのように低い声で、言い訳をするように告げる。


「ああ、そうだ。……勘違いをするなよ。俺はおまえに同情したからじゃなく、おまえを『厭天王えんてんおう』探しに利用しようと思ったから、その縄を斬ったんだ。これからの道中、俺はおまえが人間に害を及ぼさないかを監視する。少しでも妙な真似をすれば……そのときは、分かっているな?」


 それは物騒にも聞こえる台詞せりふだったが、語る少年からは威圧的な態度は見られなかった。そう、それは娘に釘をさすためではなく、少年が娘を助ける言い訳のために考えた言葉であるかのようで。


 鬼の娘は、少年のそんな様子を見て、しばらく呆けたように彼を見つめたあと――少しだけ笑って、ぽつりと呟いた。


「……あなたは、とても優しいのね」


 その言葉に、今度は澪丸のほうが目を丸くした。驚いたような表情で固まる少年に向けて、娘はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと彼のほうへと歩み寄る。


 その足取りには、もはや澪丸への警戒心は見られなかった。彼女はまるで兄のもとに近寄る妹のように、無遠慮に少年との距離を詰める。


 吹き抜ける春風が、娘の艶やかな髪を揺らした。しばらくの沈黙のあと、娘がまた、静かに口を開く。


「あらためて……助けてくれて、ありがとう。わたしの名前は、あかね。この赤いツノにちなんで、母さんがつけてくれたの。――あなたの名前は?」

「……澪丸みおまるだ」


 少年は、茜と名乗った娘から目を逸らしながら、告げる。その声色には、戸惑いと、ほんの少しの照れが含まれていた。


「そう。……みおまる、みおまる。なんだか言いにくいわ。――『おまる』って呼んでもいい?」

「おまえ……やっぱり斬ってやろうか」


 苦い表情を浮かべながら、澪丸は刀の柄に手をかけるふりをする。しかし、茜はまるで少年がじぶんを傷つけないことを知っているかのように、ほころんだ笑みを見せていた。


(…………)


 その笑顔が、自身が知るような「鬼」のものだとは思えなくて――ほんの一瞬だけ、澪丸はその輝きに息をのんだ。しかし、すぐに首を横に振ると、自分に言い聞かせるように心の中だけで呟く。


(俺がこいつを助けたのは、あくまで魔神を見つける手段として利用するためだ。それ以上でも、それ以下でもない……。いくら可愛かわいらしい外見をしているからといって、惑わされるな……俺よ)


 頭の中に浮かぶ雑念を振りはらうように首を振る澪丸を、茜はどこか嬉しそうに見ていた。まるで、少年の本心など見え透いているとでも言いたげな笑みを浮かべて。


 やがて、彼女はなにか名案を思いついたように「ぽん」と手を叩くと、嬉しそうに口を開いた。


「そうだ。あなたのこと、これからは『お師匠』って呼ぶわ。――強いから、お師匠。とても単純」

虚仮こけにしているのか本気なのか、どっちなんだ……?」


 先ほどまでとは一転、自分をしたうように話す彼女に調子を狂わされながらも、澪丸は心のどこかで安堵あんどしていた。――ただの使命感でこの娘を切り伏せていれば自分はきっと後悔していただろう、という、ある種の予感が浮かんだからである。


(……この娘を生かすという選択が、「間違いでなかった」と言えるように。俺はこれから、気張らなければいけないのかもしれないな……)


 春の陽気の中で、少年はそう思う。


 魔族に対する敵意が消えたわけでは、もちろんない。だが――いや、だからこそ、自分が選んだこの道に、少年は責任を負わなければならないのだ。


 「魔族の娘を助けた」というこの選択が、吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。ただ、きっと、その結末は、少年の力で変えられるはずであった。



 うららかな陽がさす山中に、桜が舞う。


 澪丸は、これから先の、一筋縄ではいかぬであろう旅路を思って、遠く青空を見上げるのだった。


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