第43話 諸悪の根

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 訪花は肩で息をするほどに消耗していた。だがその目は揺るがぬ。胸を押さえながら訴えるその懸命な呼びかけに欅の母は動きを止めた。穢れの汚染に歯を食いしばって耐える姿が痛々しかった。苦しそうに胸を押さえる訪花。黒の浸食は、もうその身のほとんどを黒色に染め上げようとしていた。だが、訪花は気概を見せて話を続ける。


「おばさん、おばさんにも分かっているよね? 欅は復讐など望んでいないって」

「……」

「欅の声が聞こえているんでしょう? 聞こえているよね? 欅は、さっきからずっと『止めて』と訴えている」

「……」

「だから、お願い。おばさんは、おばさんは何もしないで。これ以上、欅を悲しませないで」

「……訪花、ちゃん。退いてちょうだい。いいえ、そこを退きなさい」

「おばさん……」

「許すことなんて出来るはずない。許されていいはずがない」

「でも、だからといって、おばさんが手を汚してどうなるの。人殺しになって……それでどうなるの。おばさんもこいつらと同じ人殺しになって、それで誰が――」

「遊びだと言ったのよ」

「え?」

「その子達は、遊びだと、単なる遊びだったと言ったの」

「……遊び?」

「欅は死んだ。追い詰められて、苦しんで、そして死んだ。それをその子達は『遊び事だった。ふざけていただけだ』って言ったの。可笑しいでしょう? なんでそんなことが言えるのかしら? 人が死んでいるのに。自分達が殺しているのに。何でそんなことが言えるの? 分からない。分からないの。いくら考えても、欅が何故死ななければならなかったのかその理由が分からない。――私、気が付いたの。欅を殺した奴は人間じゃないんだって。そいつらは鬼なんだって」

「おばさん……」

「訪花ちゃん、私はね、人は殺さないよ。私がやろうとしていることは鬼殺しなの」

「鬼、ころし?」

「そう。そいつらはもう性根を腐らせて鬼になっているの。禍根なの。それをそのまま放置してはいけない。だから」

「……それでも、それでもダメです!」

「退いて、訪花ちゃん」

「退きません! あなたが手を下すことは私怨を晴らすことでしかない。それではダメです。私は親友の母親が人殺しになることを許容出来ません。こいつらを裁くのは――」

「私怨ね。……でも、それはあなたにも言えるのではないの?」

「私は……」

「変わらないわ。わたしがやっても、あなたがやってもそれは変わらない。それに、あなたの手を薄汚い血で汚してしまったら、それこそ私は欅に顔向け出来なくなる」

「……おばさん」

「ありがとう、訪花ちゃん。あなたは優しい子よ」

 欅の母が訪花の頭を撫でながら微笑む。その後、そっと肩を押した。よろめく訪花が地面に崩れ落ちる。


 ――玉置訪花、君は……。

 その動機は単純なものだろう。訪花は欅の願いに応えたかったのだ。復讐を容認していたのではない。自身も恩讐に囚われていたわけでは無いだろう。ハルは、訪花から発せられた言葉から彼女の行動の原理を悟った。

 

 ――それが、彼女の正義と、覚悟……。

 おそらく彼女は、自らの手で罪を裁こうとしていたのだろう。

 放置された事件。そこに残された多くの悲痛を放っておけなかった。誰かがどこかで決着を付けねばならなかった。

 既に過去のものとして世間からも法からも見放された事件。それに対して彼女は自らことわりになろうとしたのだ。被害者の母の手を血で汚させず、第三者として罪人を裁こうとした。訪花は執行者になろうとした。死罪を言い渡すことも厭わない冷徹な執行者になろうとしたのだ。


 ――しかし、それでも彼女の行いは復讐と変わらない。

 ハルは、守るようにして円香の前に立った。ハルは決意を持って欅の母と対峙をする。


「吉野さん、無念は理解します。だけど、彼女達に手出しはさせません。どうかお帰り下さい」

「人殺しの肩を持つと? あなたもその罪を見逃すと言うの?」

「違います。ここであなたが彼女らを殺しても欅さんは救われない。この悲劇の幕は下りない。むしろその結果は誰も幸せにしない」

「詭弁ね」

「そう、かもしれない。ですが、誰かが死ねば、そこにまた別の悲しみが生まれるだけです。それに、二人が死んだとしても、あなたのその悲しみが癒えるとは思えない。また一つ新たに罪が増えるだけです」

「――それがどうしたの? そんなことは、分かりきったことなのよ。今更あなたのような子供に諭されるまでもないのよ」

「……吉野さん」

「邪魔をするというなら、あなたにも消えてもらうしかないわね」

 彼女は言葉と間を置かず動いた。その手元でナイフが光る。動きに迷いなど見えなかった。本気を感じたハルは、円香を背に庇いながら正面から伸びてくる手を半身になって避けた。動きを見切るのは易い。ハルは、凶器を払おうとして動く流れの先で鞘のまま太刀を構えた。


「ごめんなさい。少し、痛い思いをさせます」

 言ってハルは足を前に運ぼうとした。だが、唐突に吹いた横風がその動きを止める。吉野欅がその姿を見せたのは、ハルが太刀を構え直したその時であった。


「欅さん!」

「欅!」

 驚くハルは構えを解き切っ先を下げた。欅の母親は叫ぶようにして我が子の名を呼んだ。訪花の身体を借りた欅が、すかさずハルと母親の間に割って入った。


『おかあさん、こんなことは止めて。もう良いの』

「……欅」

『ごめんなさい。私が死を選んだせいで、こんなにもお母さんを苦しめた』

 娘がそっと母親に歩み寄ると母親の手からナイフが落ちる。色を失わせていた母の目から一筋の涙が流れた。


「……欅……欅、あなた、ああ……」

 頬に両手を添えてその顔を見た後、母親は欅の身体を強く抱きしめた。その場いる誰もが息を呑んだ。親に抱きしめられたままの欅がハルの方を見る。


『これでもう大丈夫。後は、お願いします。訪花ちゃんを助けてあげて』

 思いを遂げた娘の柔和な笑みがあった。欅の思いを受け取ったハルは胸を詰まらせながら頷きを返した。


「ああ、承知した。でも僕は君のことも――」

『私のことはいいの。きっともう間に合わないから。それよりも、そこの猫ちゃんに』

「猫ちゃん? ああ、仙里様のこと?」

『仙里さまっていうんだ。……仙里様、もうこれで、終わりにします。私に時間をくれてありがとう。そして力を貸してくれてありがとう』

 欅に笑顔を向けられた仙里は、バツの悪い顔をした後にフンといって顔を背けた。 様子をみて納得する。ハルは視線を落とし口元を緩めた。

 とりあえず今夜の復讐劇はこれで終いになりそうだと息をつく。後は、黒鬼の呪いの解除と、自分を殺す為にここに来る敵をどうするかということになる。

 ハルは、仙里と目を合わせて次の戦場へ向けて心を構え直した。だが――。


 不意に仙里の目に厳しさが浮かぶのを見る。それと同時に背中が女のうめき声を捉えた。なんだ? と思って振り向くと、欅を抱きしめていた母親が地に崩れ落ちる様が見えた。何が起こったというのか……。

「チッ」仙里が舌打ちをする。円香は呆然としてその身を固まらせていた。

 ハルは悔しさを噛みつぶすように顔を歪めた。地に倒れ込む欅の母、その身体の下にじわりと赤色が滲み出てきた。


「何やってんだ!」

 感情は安楽から急転して突き落とされた地獄を受け入れきれない。だが身体は一瞬にして熱を帯びていた。叫ぶ声と怒髪。

 睨み付ける先には、血で染まったナイフを握りしめて悦に入る華蓮の姿があった。


「何って、化け物なんでしょ? その黒い女も、このババアも化け物なんでしょ」

 虚ろを見る華蓮が薄気味の悪い笑みを浮かべる。


「お、お前は!」

「こいつらは私を殺しに来た化け物。それを私が退治したのよ。悪い? それって悪いこと?」

「化け物なものか! よく見ろ! 桐島、お前のやろうとしたことは人殺しだ!」

「――ひと、ごろし?」

 呟く華蓮が下を向く。そこに倒れて苦しむ者を見てハッとする華蓮は、みるみる顔を青ざめさせた。


「どうしよう蒼樹君、止まらない、血が止まらないよ」

 欅の母を抱き留め、傷口にハンカチを当てながら円香がおののいていた。


「助けを呼ばなきゃ! 宮本さん、尚仁さんと茜ちゃんはどこに、宮本さん!」

「蒼樹君……。嫌よ、何で……こんなの嫌! こんなことって」

 錯乱する円香が慌てふためきながら首を振る。


「宮本さん、落ち着いて」

「どうしよう。蒼樹君、血が、こんなにも血が――」

「 宮本さん、大丈夫だ。しっかりして」

「蒼樹君、蒼樹君、蒼樹君、私、私……」

 目に涙を溜めた円香が唇を震わせた。


「落ち着いて、泣いても状況は変わらない。まず、動くことを考えるんだ」

「……動く、こと?」

「そうだ、君が頼りなんだ。直ぐにその人に手当てをしなくてはいけない。欅さんのお母さんを君が助けるんだ」

「私が……」

「宮本さん、尚仁さんと茜ちゃんは? 彼らは今どこに?」

「……茜さん達は、私達に動くなと言い残して、慌てて――」

「慌てて……。くっ! もう来たのか」

 やはりそうか、と思った。仮に円香が謝罪に行かせろと懇願したとしても、尚仁らは二人をここへ向かわせはしないだろう。それに、理由も無く二人揃って円香達の側を離れるはずも無い。二人が慌ててその場を離れたとすれば理由は一つしかない。それは、余程の事態が起こったということだ。円香の言葉を聞きながらハルは山門の奥を睨み付けた。


 ――山門の提灯がふわりと揺れると、その直後、爆音と共に建物が吹き飛んだ。


「どうやら、あの二人でも止めきれなかったようだな。ここまで押し込まれるとは」

 仙里が燃える山門の炎を瞳に映す。


「早いよ、早すぎる」

「フン! 御都合で動くことなどありはしない。そもそもここは戦場なのだからな」

「くそっ!」

「油断するなよ、蒼樹ハル。来るぞ! 五匹か、いやもう少しいるかな?」

 仙里に言われて目を凝らす。甍の上に浮かぶ人影をハルも数えた。


「急くなよ。まだ動きがある」

「ということは」

「二人が戦っているということだ。ならば」

「まだ無事」

「だな」

 戦闘はまだ継続しているようだった。ならば尚仁も茜もまだ無事であろう。


「仙里様、ここに来ている奴、あれが何か分かる?」

「あれは、鬼だな。直に出張ってきているようだ。どうやら遊ぶつもりも無いらしい。」

「……鬼。本腰を入れたと?」

「そんなところだ。おい、相手は少数とはいえその力は桁違いだ。今度は犬や狐のようにはいかぬぞ。気合いを入れろよ」

「あ、ああ」

 短く答え、柄を握りしめた。


 ――どうするか……。

 敵の標的は自分である。ならば、ここから離れることが円香達の身を守ることに繋がる。それに手当てが出来る者をこちらに向かわせる必要もある。欅の母の容態は一刻を争う。


「尚仁さんを呼んでくる。そして、その代わりに僕は向こうで鬼を迎え撃つ」

 まず敵を倒さねば埒があかないだろう。ハルは先に行うべき事を鬼を片付けることと定めた。

 だが、そんなハルを更なる窮地へ追い込む事態が起こる。ハルの背で、凄まじい殺気が立ち上った。


「しまった!」

「チッ! 母親が傷つくのを見てたがが外れたか」

 突如、後方に姿を現した大蛇。蛇の足下には玉置訪花が横たえていた。

 その化け物の正体が何であるかは直ぐに分かった。額に生やした二本の角は女の鬼を現すというが、今の姿はあの夜に見たナマナリという化け物よりも一層悍ましい面をしていた。

 上半身は裸の女。闇の中でも鈍く発光する黒鱗が女の腹から下でとぐろを巻く。口は耳まで裂け、そこに覗かせる舌は得物を探るようにチロチロと動いていた。


「仙里様、あれ、吉野欅なんだよね」

「そうだな」

「この前よりも、凄いんだけど、もしかしてこれがあの時に仙里様が言っていた」

「そうだ。あれがナマナリという化け物の最終形態だ」

「最終……。あれが、真蛇しんじゃ

 予測出来たはずである。欅も訪花も平静を保っていたが闇に落ちる手前で踏ん張っていたに過ぎないと知っていたのだから。


「油断もなにもあったものではないな」

「ああ、完全に手落ちだね」

 息を呑むハルの頬に汗が流れた。


 ――後ろに鬼、それと目の前に蛇か、くそっ、いったいどうすれば。



 

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