第42話 来る恩讐
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夏虫がジージーと機械音のような鳴き声を奏でる。周囲では風に揺れる草木が乾いた音を立てていた。
澄んでいく感覚。だが聴覚に対して視覚はどこか違和を抱かせる。
耳に音は入るが、変化を無くした景色はまるで時を止めたように硬直していた。畏怖しているのは、はたして己なのか、それとも世界の方なのか。
そっと目を瞑り耳を澄ます。無心のまま自然の音を拾った。
――大丈夫だ、心は凪いでいる。このまま待てばいい。
ハルは仙里を傍らに置き、一言も発することなく来るべき時を待った。
――風が止んだ。
遠くに聞こえていた蛙の声が消えると虫の音も草木のざわめきも止まる。音という音が一斉に途絶える。無音の暗闇が一段とその重さを増した。
トクン、トクン。静寂の中で心音が単調に時を刻み始める。大きく息を吸ってゆっくりと抜いた。
緊迫に耐えきれなくなった一羽のサギが羽ばたき一つで空へ舞う。その羽音を戦いの合図として、ハルはカッと目を見開いた。
近づいてくる人影が、闇の中で長い黒髪を揺らした。
「蒼樹ハル。そこを退きなさい」
「嫌だ。といったら?」
「私は人を殺すことを厭わない。あなたはどうなの? あなた、私を殺せるの? 命を絶たなければ私を止めることなど出来ないわよ」
俯きながら訪花が微笑む。伏せた目が物悲しかった。
「君に人殺しはさせない。勿論、吉野欅にも、彼女の母親にも人殺しはさせない」
「……」
応えない訪花は、冷えた瞳を更に凍えさせた。
「一つ、分かったことがあるんだ。僕は知った。君の言ったとおりだった。死んだ女の子達も、宮本さんや桐島さんも自分の罪に襲われていた」
「今更よ。初めから、そう言ってるじゃない」
「君達の呪いは、彼女達の周囲を取り囲んでいる怨嗟を実体化させるものだ。なるほど、因果の帰結とはよく言ったものだと思うよ」
「……」
「だからといって、それを僕は認めない。贖罪のために死を受け入れることも、罪を償わせる為の私刑も認めるわけにはいかない」
「何故? 何故そこまで頑なに邪魔をするの? これはあなたには関係の無いことでしょう」
「そうだね。確かに僕は部外者だ。宮本さんの罪にも、君の復讐にも何の関係も無い。それでも僕は君の前に立つ事を決めた。それが無意味だろうと構わない」
「まるで道化ね」
「そうだね、僕は道化だ。でもそれでいい。僕は僕のやりたいようにやる」
「……そう、ならば話は終わりね。力尽くでもそこを通させてもらうわ」
いって訪花は右手を天に翳した。頭上の空間に姿を現した日本人形が両者の間に舞い降りる。
「僕も、悠長に話し合いをするつもりはないんだよ」
ハルは火を喚んだ。すっと持ち上げた掌の上に紫色の炎が浮かび上がった。
閃く光の線が僅かな光を残して闇の中に走る。人形が放った斬撃がハルへと迫った。だが、凶器を目の前にしても石段に座ったままのハルは口元を緩める。
相手を見ることもせず、左手に持つ太刀を前に翳すと、目の前で風の
「ほう」という感嘆の声を頭上に聞く。仙里がニヤリと笑みを浮かべていた。
その彼女の見る先で、直撃を受けた人形が炎に包まれて消滅した。
「やはり、君とこの人形は繋がっていたんだね、吉野欅」
うめき声を上げる訪花に向かって言う。ハルの視線の先では、訪花が苦しそうに胸を押させて片膝を落としていた。
「……なぜ、欅に話しかける」
「僕は一度、吉野さんに会っているんだ。だから分かる。君の中には吉野さんの魂魄がある。それと……」
「それと?」
「呪われている魂魄もそこにある。君は吉野欅の魂魄ごと黒鬼の魂魄を飲み込んでいるんだろ」
「くっ……」
息を切らす訪花は、恨めしそうにハルを睨み上げた。
「その穢れは、いま正に君を飲み込もうとしている。君が急いだのはそのせいだ。君はもう押さえられなくなってきている」
言われた訪花は、唇を噛み目尻を上げた。
「……欅は、穢れてなどいない」
「そうだね。欅さんも今のところはまだ踏ん張れているようだ。だが」
「う、煩い!」
「欅さんが完全に穢れとなれば、直に君も飲み込まれるんだよ」
「……煩いと言っている」
「玉置さん、君はこの復讐を果たした後のことを考えたことがあるのかい?」
「……」
「そんな穢れを、一生涯抱き続けて生きていくことなど出来ないよ。いくら君が狛神の社を守る一族の末裔だとしてもそんなことは無理だ。その呪いは生半可なものではない。玉置さん、今の自分の身体を見てみるといい」
「身体? ……な、何? これ、何……」
「それが穢れだよ、玉置さん」
「……穢れ」
穢れが訪花の白肌を侵し始めていた。白地に落ちた黒の点が水墨画のように滲みを見せながらジワリと広がっていく。彼女は変わりゆく自分を呆然として眺めた。
「黒鬼の血筋である欅さんと、もう一人の血筋の者である玉置さん。呪いは二人の巫女の力によって何とか押さえ込まれていた。だけど、それももう限界に来ている。これ以上は耐えきれない。悪鬼と化す前に吉野欅の魂魄を放すんだ」
「――嫌、嫌よ。……欅は、欅は何も悪くない。……欅は穢れてなどいない。こんなもの! こんなものなによ!」
訪花は手で拭うようにして必死に腕の穢れを払おうとした。
「残念だけど、欅さんの魂魄はもう黒鬼の魂魄と癒着してしまっている。そこにはもう欅さんはいない。と、言っていいかもしれない」
「嘘よ。こんなの嘘。欅は、欅は」
ハルは、片膝を突いたまま胸を押さえる訪花の前に立ち手を差し伸べた。
「手遅れになる前に、それを吐き出すんだ。化け物になってしまえば取り返しがつかない。君が人で無くなることを欅さんは望んでいない。それに、もしかしたらまだ欅さんのことも救えるかも知れない。欅さんが化け物になることなど、君も望んでいないだろう」
「欅。……欅……」
苦しみの余り地に伏せた訪花が苦悶を見せ始めた。
「後は任せて欲しい。いいね」
いって雲華の水鏡を出現させた。ハルは訪花に鏡を向け「雲華」と、鏡の名を呼んだ。呼びかけに応えた鏡が青い光を放つと次の瞬間その鏡面に訪花の姿に被さるような黒い靄が映し出された。
「これが、呪いの魂魄……」
鏡によって正体を示された呪いは絡みつくようにして訪花を覆っていた。鏡の声に耳を傾けるハルは、その言葉に従って気力を鏡に注ごうとした。と、その時だった。
背筋に戦慄が走る。反射的に驚異の方へと身体を向けてしまったのは防衛本能からくる動作であった。
――なんだこれ……。
膝が笑う。ハルは犬神にも鬼にも抱かなかった感情を湧き上がらせていた。
夜の中に、ぬうっと浮かび上がった白面。それが地を滑るようにしてそろりと進み来る。相手は確かに人であるのだがその動きは怪しい。到底、人の足の運びには見えなかった。白い顔が上下左右のブレも無く一直線にこちらへと向かってくる。それも、ゆっくり、ゆっくりと。
近づいてくるのは四十半ばの女。薄らと笑みさえ浮かべているが、その顔には一片の幸も見えない。ハルは空恐ろしい気持ちになった。
「夜分に申し訳ございません。こちらに、桐島華蓮さんと宮本円香さんがご在宅だと伺ったのですが、お二人は、今、こちらにおられますでしょうか?」
声に威圧感など無い。だがひどく恐怖を誘う声だった。ハルは、深々と降る雪を思い起こした。音を吸い込みながら世界を無にしていく真白の恐怖。それは、冷たく重い雪景色。
「アノ、夜分遅ク申シ訳ゴザイマセンコチラニ桐島華蓮サント宮本円香サンガゴ在宅ダト伺ッタノデスガオ二人ハ今コチラニオラレマスデショウカ?」
女が早口になる。傾げた顔に浮かぶ仄暗い笑みがハルを飲み込もうとする。
「やれやれ、これ程までになっているとは。人との怨念はやはり侮れぬな」
「せ、仙里様」
仙里の声にハッとする。銀の妖の声が心の縛りを溶かした。
「まったく、これくらいで萎縮してどうする」
「ゆ、油断しただけだよ」
「フフッ」
「なんだよ」
「何でも無い。それよりも、どうするのだ? お前、この招かざる客をどうする」
「どうもこうもないよ。やることは変わらないさ」
「出来るのか? なんなら私がやってもいいのだぞ。人間などひと裂きで終いだ」
いって仙里が前足を踏み出す。
「いや、待って」
ハルは片腕を伸ばし、仙里を制して前に出た。
「吉野さん」
呼びかけ、欅の母の行く手を遮る。ハルの前で立ち止まった欅の母が、そろりと首をもたげた。
「なに、かしら?」
土色の痩けた頬が笑う。彼女と目を合わせたハルの全身に悪寒が走った。
――なんだ……こんなの……。
周囲を埋め尽くす悲しみが痛い。対峙する相手の笑顔は慈愛を感じさせるものだった。だが、その笑顔の有様には息が詰まりそうになる。そこにあったものは狂気に変じた愛情であった。ハルの心は萎える。彼女のその真愛を前にして抵抗などできるはずもない。
ハルはガクリと膝を落とし、両手を地に着いて項垂れた。呼吸を荒らげる。心拍もあり得ないほどに走っていた。恐怖を覚えさせる程の悲しみなど受け止めきれるはずも無い。鳴らす歯の振動で玉の汗が地面に落ちた。
――負けるのか……。いや、ダメだ。負けるな。負けるな。
何とか歯を食いしばって意識を保とうとする。ここで挫けていては意味が無い。これまでのことも全て無駄になる。この後の顛末も無残極まりないものになるだろう。
――救うんだろう! 止めるんだろ!
必死で鼓舞する。心の中で叫んだ。そうしてハルは、風のようにふわりと動き始めた欅の母の腕を掴んだ。
まるで氷の彫像のようではないか。掌の感触が全身を凍えさせた。だがハルは、掴んだ手を放さない。右手で欅の母を捕らえながら、左手に持つ太刀を杖のようにして立ち上がる。四肢にはまだ震えがあった。
「吉野さん、ここから先には行かせませんよ」
欅の母に強い意志を向けた。そのハルに対して、欅の母は眼球だけを真横に流してチラリと見てきた。そこで再び欅の母がフフフと笑う。その顔に浮かべた喜色の意味を測りかねて困惑するが次の瞬間、欅の母の口が裂けるほどに喜びを表すのを見て身体を強ばらせる。
「なんで!」
欅の母の視線を辿ったハルは叫んだ。
「いたわ。ほらね、やっぱり」
欅の母の目が獲物を捕らえて喜んでいた。
「来るな! 止まれ! 宮本さん、これはもう人の手には負えないことだ」
ハルは山門の下に立つ少女達に訴えた。円香は毅然としてこちらを見ていた。華蓮は腰が引けていた。どうやら、円香に無理に引き連れられてきたようだ。
円香は聞く耳を持たなかった。強い意志を見せた彼女は、嫌がる華蓮を引っ張りながら欅の母の元へと進んだ。
「欅ちゃんのお母さん、本当に、申し訳ありませんでした」
円香は、欅の母の前で地に伏し謝罪の言葉を述べた。華蓮は、そんな円香の後ろに立ってわなわなと震えていた。
「それで?」
顔から表情を消した女が、単調に言葉を発して首を傾げる。これから先に何が起ころうとしているのか。円香と華蓮の登場によって追い詰められたハルは、歯がみをしながら柄に手を被せた。欅の母と円香の間に割って入ろうとしたが初手から機を逸していた。欅の母と玉置訪花、誰が誰を狙うのか。どちらが先に動くのか。次の一手、その次の二手と先を読む。一つの動きも見過ごしてはならない。
「お母さんの思うようにして下さい。私はどんな罰も受けます。命を差し出す思いです」
欅の母を真っ直ぐに見て円香が言った。その言葉を受けた欅の母は、「そう」と言った後、何事かを呟きながらナイフを取り出した。欅の母は瞳の奥に鈍い光を宿していた。
立ち上がって刃の前に立つ円香。顔色一つ変えずに目標を見据える欅の母。二人の距離を測ったハルは前に飛び出した。だが、その動きよりも一足早く訪花が動く。
訪花と母親のどちらの動きにも対応しなければならない。円香を守らねばならない。ハルは、素早く目を動かし二人の行動を予測した。――くそっ、間に合うのか!
ハルの動きは速い。しかし二人を意識した分だけ後れを取ってしまった。訪花に競り負けてしまった。
――まずい! ……い、いや、でも、なんだ!
しくじったと思ったハルの目の前に予想しなかった光景が現れる。
両手を広げた訪花が、円香を守るようにして両者の間に割って入っていた。
「おばさん、ダメよ。おばさんがそんなことをしてはいけない。欅はそんなことを望んでいない」
眼光を鋭くして母親に言い放つ。だがそれは見るも無惨な訪花の姿。既にその肌の半分が黒に染め上げられていた。
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