第36話 朱色の髪
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自分の立ち位置と周囲の空気に隔絶を感じた。整然と並べられた机や椅子の列がどこか寒々しい。部活動に勤しむ者達の声は遠く、教室の中は閑散としていた。そこで、小さく息を吐き天上を見上げた。
オレンジの西日が差し込む教室。無機質な空間は半分が明るく半分が暗かった。虚実が重なる閉鎖空間。その中でポツリと自席に腰を沈め窓の外にある稜線を眺めた。
時折漏れる独り言。題材は余りに複雑で余りに怪奇。しかしやらねばならない。ハルは吉野欅の名を用いて一連の出来事を繋ごうとしていた。
「ハル様ぁ、そんなに考え込んじゃってぇ、大丈夫ですかぁ」
机に座る幼女が足をぶらつかせた。どこから湧いて出てきたのかと問うのは愚問である。彼女はもうハルの身体の一部になっているのだから。だがしかし、今は一人になりたかった。
「紫陽、ちょっと待って、今は話さないで。集中したいんだ」
「でもハル様、お考えのことについては私の知識も必要となるのではないですか?」
フフと含みのある笑みを見せる幼女は、ハルの気持ちを察するように机の上で居住まいを正した。
「……ううん。まあ、言われてみればそうか、そうだね」
俄に知り得たことを独り善がりで取り繕ってもみても、そこで得た答えなど真実にはほど遠いだろう。吉野欅は確かに鍵となるピースではあるが、全容を思い浮かべようとしたときには一片でしかない。まだ情報が足りなかった。
「お話し下さいな。その上で私の知ることがお役に立つならば話しましょう」
「こういうときは、話し方も変えるんだね。でもその方がいいよ、可愛らしい」
「遊び事ではございませんのでね」
紫陽は、口を尖らせてフンと上を向いた。少し照れるような仕草を見みて微笑む。
ハルは力んでいた肩を降ろして紫陽の真摯を受け入れた。
「じゃあ説明するよ、僕はこの学校で起きている呪いの事件を追っているんだけど」
「はい」
「呪われた女の子は四人。四人は数年前に一人の女の子を追い込んで自殺させている。そして今、そのせいで呪われている。その四人うち二人はもう亡くなっていて、残る二人のうち一人は家の寺で保護されている」
「はいはい、なるほど」
「数年前に自殺したのは吉野欅。加害者の四人を狙ったのは玉置訪花という女生徒と吉野欅の母親で、彼女達は復讐をするために犯行に及んでいる」
「ほうほう」
「玉置訪花は、雨の陰陽師かもしれないとされていて、側には狛神っていう神様がついている」
「雨の陰陽師と、狛神ね、はいはい」
「その玉置訪花を、仙里様が狙っていて、その目的は玉置訪花の中にある魂魄を回収すること」
「御霊集めですね、ふむふむ」
「知ってるんだ」
「勿論でございます」
「ざっと言えば、今はこんな状況かな?」
少しでも分かりやすくなるようにと、事態を整理し掻い摘まんで説明する。しかしそこで紫陽が眉根を寄せ首を傾げた。
「なんだい?」
「そのお話、ハル様のことが抜けていますよ」
「あ、ああ、でも僕のことはまあ――」
「まったくもう、ご自身のことを含めて考えないから、重要な事にも気づけなくなるのですよ。
「驟雨……それが太刀を持ってきた村上驟の本当の名前。そういえば、彼は同級生だって言ってたけど、この学校にそんな人間はいないよね? あれ? でも僕は何で彼のことを忘れて……彼はいったい……」
「今は驟のことは置いておきましょう。本筋には関係がありません。それでハル様」
「はい」
「事は、ハル様を中心に考えなくてはなりません。何故ならあなた様が、仙狸を引き寄せ、この呪いの事件を引き寄せ、真神と狛神、その上に
「しゅき?」
「朱色に鬼と書いて朱鬼と呼びます。あの朱い髪の娘のことです。もっともあの朱い髪色は普通の人間には見えていないのですけどね」
「え? マジ?」
「マジです。でも本人はハル様に見破られているとは思っておりませんが」
紫陽が悪戯っぽく笑った。ハルも合わせるようにして苦く笑う。
茜が何か事情を抱えていることは分かっていたことだった。だが、呪いの事件には関わりがないとして彼女の存在を除外してしまっていた。
思えばあのような髪色が校則に違反しないわけがない。彼女も突然目の前に現れた謎多き人物だった。もっと踏み込んでおくべきだった。振り返り、己の愚かさを知る。数多の奇怪に遭遇している為に自分の頭の中から些細なことが抜け落ちてしまっている。
現状に確たるものは一つもない。その上に事態は何もかもが複雑に絡み合った状態である。全てを拾わねばならない。見落としなどあってはならなかった。
気を引き締めた。意識から欠落した情報の中にもきっとキーワードがある。慎重を期して望まねば、怪異を抱える方程式など解けるはずもない。
「では、主役のハル様お話を」
紫陽は誇らしげに胸を張るが、同調出来ないハルは顔をしかめる。
「紫陽、ちょっと待って。主役っていうけど、僕は偶然関わってしまっただけで」
「因果を束ねる者、という方が分かりやすいですか?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「それでもまあ偶然は偶然ですよね。しかしながら申しますと、偶然がこれ程までに重なることなど普通ではあり得ないと言えるのです。このようなことは誰にも出来ません」
「意図して出来ないからこそ偶然っていうんだよね」
「いいえ、それは違います。事の始まりからこれまで、八百年の長きに渡ってこのようなことは一度も起きなかった。それにです、偶然に偶然が重なり、そこにまた偶然が合わさるとなれば、これはもはや必然といっても良いようなものです」
「……」
「ハル様、あなたはきっと因果を紐解く者なのでしょう」
紫陽の強い目がハルを見た。だがハルは、そこにある含意を嫌って突っぱねる。
「紫陽、冗談じゃないよ。まさか、君まで僕のことを雨様だっていうんじゃないだろうね」
紫陽の言葉に倦怠を覚え肩を落とす。重くなった口は、思うまま大きな溜め息を漏らしたのだが。
「言いませんよ」
その声は明るかった。想像していたことと違う返答を受け、構えていた心が肩すかしをくらう。思わずハルは、紫陽の顔を二度見してしまった。
「そうなの?」
「私は、そのようなことは言いません。雨様は雨様。ハル様はハル様ですからね」
「でも君は、雨様の太刀なんだろ?」
「ハル様、それも違いますよ、私は雨様のものではありません。私が雨の太刀としてあったのは、私が雨様を認めていたからということでしかありません。私と雨様は主従の関係ではないのです。ですから私という神器は雨だから使えるというのでもなく、使えたから雨であるということもない」
紫陽は、雨の陰陽師との関係をさらりと言い切った。
聞かされていた伝承が雨の陰陽師たり得る者の条件を伝えるものではなく、過去の偶像を表していたに過ぎない事を知った。思いも寄らない展開に間が抜ける。
「まったく、馬鹿なことだよね。偽りの伝承にこんなにも振り回されて」
「そうですね。しかしハル様、ことは馬鹿らしいとそれだけでは済まされません」
「済まされない? それは」
「呪いの事件、呪いの魂魄、眷属達の争い、鏡の神器これら全ての大本となっている者の再来であるとされてきた人物がおります」
一段と鋭い目を向けてきていたが僅かに口元が緩んでいる。これは紫陽にしてやられた。なるほど上手い言い回しであった。彼女は雨の陰陽師に対して忌避感を持つハルをまんまと話の中心に乗せてきた。ハルは肩を持ち上げて「いいよ」と答えた。
「勘違いされた僕を含めて、全ての事が雨の陰陽師という言葉で繋がっている。と君は言っているんだね」
「如何にも。そして……神器とくれば雨音女」
「真菰の事か……。確かにそうだね。真菰は雨音女とされたことで雲華の水鏡に繋がる。その雲華の水鏡は巫女の神器であり、真神と狛神の依代でもある。もう無関係などとは言っていられないか」
――黒麻呂も真子も共に真菰の死を知っていた。事実と現実が結びつくならば、自分の心を偽ったところで誤魔化しようもない。現にハルはそこに立っている。これはもうハルの戦場である。
――だけど……。心が萎える。あの日にも向き合わねばならないのかと思えば憂鬱な気分になった。あの日の出来事。家族と妹が死んだ日の事、それはハルにとって最も苦い記憶であった。
「そうですね。恐らくそこが発端ということになるのでしょう」
「あの事故が起きた雨の日が始まりということになるのか」
「そう思われます。真菰様がお亡くなりになったことと今回のことは繋がっておいるのだと。……そしてこれは、大変言いにくいことなのですが……」
いって紫陽は意を問うようにハルを見つめた。ハルは無言で頷きを返した。
「あれが偶然の事故ではなくて事件だったとすれば……。つまり初めから真菰様の命を狙ってのことだとしたら、ここまでの話は随分と分かりやすいものになるのではないかと」
「……狙われた。そして、殺されたと? まさか」
呆れ果てるとともに脱力する。事態を受け止めきれない心がハルの口から乾いた笑い声を吐き出させた。
「はい。かなり強い線であると私は思っておりますが――」
「はは、ははは。そもそも雨の陰陽師なんていないのに。伝承なんてまやかしなのに。それなのに。……笑えないな。冗談じゃない!」
「……ハル様」
「呆れて物も言えない。こんなくだらないことを理由に殺されたって言うのか。何だよ、いい加減にしてくれよ。何なんだよこんな――ううっ……頭が痛い」
雨の日の出来事を思い出して、ハルの視界が歪んだ。
――あの悪夢が現れる。
『お父さん! お母さん! マコちゃん!』
ハルは手を伸ばし叫んでいた。車外に放り出されたハルの目の前で車が炎に包まれていた。視界が赤く染まる。痛む箇所など分からないくらい全身に激痛を感じていた。それでもハルは車へ向かおうとした。這いつくばったまま、虫のように手足を動かし歯を食いしばって家族の元へ近づこうとした。だがそこで。
「ダメ! 行ったら死んじゃう!」
少女がしがみつくようにしてハルを止めた。抱き留められるハル。その目の前にふわりと髪が……。焔の明かりに照らされた髪。少女の朱色が熱気を受けて揺れていた。
「なんだ……誰だ? この記憶は、なんだ……」
背筋を何かが這った。与えられた悪寒によってガチガチと歯が鳴った。いつもの夢が、反芻してきた記憶が、僅かにズレをみせていた。
「――ハル様! ハル様!」
名を呼ばれて我に返る。目の前には心配そうにハルの顔を覗き込む幼い顔があった。
「……紫陽」
「大丈夫、でございますか?」
「あ、ああ、大丈夫だ。でもなんだろう。今、心がズレたというか、記憶が惚けたというか、何かが内側から這い出てきたような……」
「そうですね。今のその光景は私にも見えました」
「これは、なんなのかな?」
「たぶん、それが真実なのではないかと」
「真実?」
「それが、ハル様の本当の記憶なのだと思います。そしてハル様、その記憶のズレの正体も、真菰様のことも、そして昨今の出来事も、出所は同じところなのではないかと思われます」
「……同じところ」
「多分、いえ、そうです。恐らく……その鍵を握っているのは、あの朱い髪の娘」
「茜ちゃん? 鬼怒川茜が何かを知っているというの?」
ハルの言葉を受けた紫陽は強く頷いて見せた。
犬神に襲われたハルの、あの夜の窮地を救ったのが鬼怒川茜だった。だがその事を茜自身は何故だか否定していた。不自然がそこにはあった。茜は、突然目の前に現れ「危ないぞ」と忠告してきた。颯爽と修羅場に姿を現したのもおかしい。その行動はハルのことをよく知ってのことではあるまいか。ハルのことを追っていたからこそ出来たことではないのか。
茜の正体は朱鬼。紫陽は茜のことを鬼だといった。そういえば、仙里もそのようなことを言っていたような気がする。確か……酒呑童子の血を引く者だとか。
酒呑童子は、昔話に出てくる有名な鬼。大江山にあって……。
「大江山? 酒呑童子? 童子切安綱……」
ハルは紫陽に目を向けた。その問いかけに紫陽は「てへっ」といって笑みを返す。
「大江山の赤鬼……」
夜の運動場に姿を見せた朱い鬼。鬼面の被っていたためにその素顔は見えなかった。たがあの出で立ちは、あの連獅子を思わせる朱い髪は。
呪術に精通し、犬神を瞬殺する。ハルの危機を察すれば円香の家にも付いてきた。
鬼怒川茜は、雨の陰陽師のことも知っていた。真子が真神であることも、仙里のことも知っていた。
「なんてことだ。どうやら僕は、随分と遠回りをしていたらしい」
稜線の谷間に、僅かに姿を残した夕日を眺めてハルは溜め息をついた。
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