第32話 雨と呼ばれる者
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ずっと考えてきた。なぜ自分は生きているのだろうか。
――雨の陰陽師。全部こいつのせいなのか……。家族が死んだことも。僕が生き残ってしまったことも。全てが定めのせいだというのか。
手にした太刀が、何かを訴えかけてきていた。だが、聞きたくも無いと耳を塞いだ。太刀の声を聞いてしまえば、自分の罪がさらに重くなるような気がした。妹が定めを背負わされたことも、家族を死なせてしまったことも。起きた不幸の全てが雨の陰陽師に縁をもってしまった自分の仕業であるように思えてくる。
――そんな定めなんていらない。僕は、雨の陰陽師なんか知らない。
「ハル様、ハル様!」
真子の声を遠いところに聞いていた。
「おい、小僧! どうした!」
黒麻呂の声は音にしか聞こえてこなかった。いや、もう誰の声も聞きたくないと思っていた。
ポツリ、ポツリと涙のような雫が降る。やがてそれは雨となった。
降りしきる雨が涙を隠す。耳はノイズとなった雨音しか捉えていなかった。
白く立ち込める水気の中で、ハルは一人立ち尽くした。
「これは、なんて悲しい……雨……」
呟くと、真子は天を見上げ胸を押さえた。
「この小僧、神の住まう処にこのように雨を降らせるとは……」
「――まったく。
「仙狸よ、あの太刀はいったい何だ? この雨、太刀が、泣いているのか……。あの太刀がこの小僧に呼応しているのか」
「太刀……。ハル様が手にしているあの太刀はいったい……」
「フン! 蒼樹ハル。まったくもって情けないことだ」
「仙狸! あなたは――」
「うるさい! 私は今、かなりガッカリしている。ここは颯爽と太刀を抜いて見せるところだろうに。せっかくこの私が見せ場を作ってやったというのに、実につまらぬことだ」
「太刀を抜く? ハル様が? しかし……」
「惚けていたのだ。あいつはな、前々から聞こえておったのだろうよ。その太刀の声が」
「太刀の、声? 仙狸よ、あなたは何を知っているのですか、教えて下さい。その太刀は何なのですか」
「太刀について、全てを知っているということではない。話せることも耳にしたものでしかない」
「おい、あの太刀のことといい、その訳知り具合といい、そもそも御霊集めというが、お前はいったい何者なのだ」
「その太刀は、雨降らせの太刀。『慈雨の太刀』と呼ばれている」
「雨降らせの太刀……。それはもしや、雨様ゆかりのもでございましょうか」
「そうだ。太刀の真名までは知らぬがな、かつて雨の陰陽師が用いていた太刀のうちの一振りだ」
「一振りでございますか?」
「そう一振りだ。雨に二刀あり。そのうちの一振りがあの『雨降らせ』、そして見せてやろう。これがもう一振りの雨の太刀だ」
仙里が、突き出した右手に力を込めると、その手元から光があふれ出した。華奢な少女の手の中から黒色の鞘に収められた太刀が姿を現す。
「それは! その太刀からは雨様の匂いがする! そうか、あなたが纏っていたのはその太刀から発せられた匂いだったのですね」
「この太刀についても、名などは知らない。しかしこれがその朱色の太刀と対を成す雨の一振りであることに間違いはない。そして私はこの太刀にて黒鬼の魂魄を封じることを委ねられた者」
「その太刀で、呪いの魂魄を封じると」
「そうだ。だが、魂魄の六つ全てを集めてもそれで終わりでは無い。一つに集まった魂魄は、僅かに三日しか留めることができない。その三日のうちに呪いを浄化できなければ、魂魄は再び分かれて飛び去ってしまう……。集めては放す。それを私は繰り返してきた……」
語尾には悲痛が伴っていた。酷く寂しげな目をして、仙里が哀愁を吐き出していた。そんな仙里を、罪を拒み、罰を受け入れない虚ろな心が見ていた。
――僕は、雨の陰陽師などではない。僕は……家族を殺してなんかいない。
「私の目的は一つだ。それは、魂魄に掛けられた呪いを解くこと。その為に私は『雨』を探した。だが、八百年という月日をかけても雨が見るつかるどころか、雨の影すら踏めなかった」
「仙狸よ、あなたはそれほどに長い間……」
「私の話はいい。それよりも話を続ける。本題に入ろうか」
「お待ちください。雨様が、雨様の様子が、それをこのように捨て置くなど――」
「姫よ、呆けている奴など放っておけ、それと、あいつのことを雨と呼んでやるな。その言葉は、今は酷くあいつの心を傷つける」
「傷つける?」
「今はそっとしておいてやれと言っている。こればかりは他人がどうこうしてやれる事ではない。自分で消化するしかないあいつの事情だ」
「仙狸よ、あなた、ハル様の中に、何かを感じているのですか? ハル様はいったいどうしてしまわれたのですか」
「心配するな。少し混乱しているだけだ。こちらの話もちゃんと聞いているだろう。このまま放ってはおけまい。あいつにはまだやるべき事があるのだからな」
「ハル様の事情、ハル様のやるべき事……」
仙里の顔とハルの様子を交互に見て、真子は口をつぐんだ。
――そう、仙里様は、八百年も雨様を探していたんだね。その呪いを浄化する為だけに、そんなに長い間……。仙里様も雨様を必要としていたんだ。でもごめんなさい。僕は雨様ではありません。それに、僕にはやるべきことなんてありません。僕には、やれることなど無いのだから。
「仙狸よ、小僧のことは分かった。その本題とやらを聞こう」
含みを見せる黒麻呂の声に、真子も賛同するように頷いた。
「まずは雲華の水鏡についてだ。元々は水鏡が右方に、核である御霊が左方に神器としてあった」
「そうだ。だが、我らの神器はあの古き
「待て、右方の者、最後まで聞け。そしてこれは左方も同じだ。一先ずは私の問いかけに答えるだけにしてもらいたい」
黒麻呂の言葉を仙里は手を出して遮った。黒麻呂は渋々頷きで応えた。
「続けるぞ。狛神よ、あの古き戦より真神に渡っていた水鏡。お前達はどうやって手に入れたのか?」
「それは聞くまでも無いでしょう! 右方が我が里を襲ったまでのこと!」
「そうなのか? 狛神」
「知らぬことだ」
「この期に及んでまだ、そのような――」
「いい加減にしろ。勝手に口を挟むなといっただろ。それにな、両名に言うぞ、先ほど先入観と我を捨てろと約束したはずだ」
仙里の怒気が、真子を押さえ込んだ。
「それで? 実際はどうなのだ?」
「ある日、犬神が神器を携えて訪ねてきた。言っておくがな、俺達が犬神を使って真神の里を襲ったということは断じてない。そもそも、我らは古き戦で敗れて以来ずっと眠っていたのだからな」
「そ、そのような方便が――」
「今のお前になら理解出来ると思うのだがな。我らは共に雨殿の眷属、雨殿より授けられた御神体を封じられては力を奮えぬ」
「それは……」
真子は力なく首を垂れた。
「神器とはなんだ? 雲華の水鏡は、雨呼びの巫女が使う神器と聞く。彼の者は神器で雨を探すのだというが」
「そう聞いております」
「俺も、そうだと聞いている」
「その神器が鏡と玉に分けられている理由は?」
「雨様は、ご自身が亡き後にも我らが眷属としての力を奮えるように、写し身である鏡を二つに分け、右方と左方のそれぞれに与えたのです」
「つまりは、お前達が
「そうだ」
きっぱりと応える黒麻呂を見て、仙里がウムと頷きを返した。
「なるほど、神器については理解した。では次だ。あの古き戦のことを語ろう」
「古き戦……」
「姫、あなたはまだ生まれていなかったということだが、聞き及んでいることもあるだろう。さて、古き戦とは右方の黒鬼が討たれた八百年前の戦のことだが、実はあの時、私はあの
「な、なんと」
「私の知っている限りでは、あの場には、狛神も、真神も無かった。そこにいたのは左方の者と人間と私、敵は右方の者達だけであった。お前達はどこで何をしていたのだ?」
「俺たちは、別のところで戦っていた。嵌められたのだ」
「待ちなさい! 私達を裏切って仕掛けてきたのはあなた達の方だと聞いています」
「ほう。両者ともに嵌められただの、裏切られただのと、いったいどちらが本当のことを言っているのか……」
「無論、そのようなことは測るべきも無いことだ」
「私どもに、嘘はありませぬ!」
「どちらも自分達が真であるという。ならば、誰が偽っているのだ? お前達が共に真であるというのならば、誰かが偽りを見せているということになるのだがな」
「うぬ……」
「そ、それは」
両者がともにしかめ面を見せた。その様子を面白そうに仙里は眺めた。
「少し整理をするぞ。古き戦において、お前達はそれぞれに曖昧な理由で戦った。その結果、敗れた狛神は、真神に鏡を奪われ眠りについた。それから八百年あまりが過ぎ、今再び両者の間で争いになった。しかしこの争いも、両者ともに真偽が分からぬままであるという。そして、今度は真神から神器が奪われた。現在、狛神の方に鏡があり。姫が取り戻した玉は、蒼樹ハルが所持している。神器についてはこれでいいか」
「ざっくりではあるが、異存はない」
「私も、今は承知いたしましょう」
仙里がジッとと黒麻呂と真子の目を覗く。二人はその目を真っ直ぐに見返して誓いを立てた。
「ではこれで一時的にでも休戦とさせてもう。そこでだ。方々よ、ここで尋ねるが、お前達にとって今一番の大事は何だ?」
「私は、雨様を見つけること、その上で御霊に力を取り戻させることです」
「狛神の方はなんだ?」
「俺達は既に雨殿を奉じている。今はその雨殿の満願を成就させることを旨としているが」
「あの娘の満願か……小さいな。長い間眠っていたといっていたが、どうやらまだ目が覚めておらぬらしい」
「な、なにを!」
「残念だがな、狛神よ、その満願とやらは叶わぬぞ。何故なら玉置訪花のちっぽけな企みはこの私と、そこの呆けているガキによって阻止されるからだ。あいつは玉置訪花を止めようとしている。そして私は、玉置訪花に纏わっている黒鬼の魂魄を狙っている」
「黒鬼の魂魄とは?」
「惚けるな、狛神。お前に気がつけぬ道理は無い」
「……何が言いたいのか」
「ならば尋ねよう。狛神よ、おまえが奉じているあの娘はいったい何者なのだ?」
「先ほどから何度も言っているのだがな。何者も何もない。訪花は雨の陰陽師だ」
「だが、完全なる神器が示したわけでは無い。ましてや、雨音女が示したわけでも無い。そして何より、お前自身が、あの蒼樹ハルの正体を知りたがっている。迷いがあるのではないのか?」
仙里に問われ、黒麻呂が口をつぐんで身を固める。
「しかしながら、『雨の陰陽師』とはいったい如何なる者なのだろうな。八百年を経て、同時期に、このようにめぼしい奴が現れた。だが雨とは如何なる者か。果たして狛神が奉ずる玉置訪花なのか、真神が信じる蒼樹ハルなのか。いずれにしても、決着はつけねばならないだろうな」
決着という言葉を聞いて黒麻呂と真子が睨み合った。
「そういきり立つな。お前達が争っても解決などしない」
「そうは言ってもな」
黒麻呂が真子を見据えていった。
「狛神よ、神器の裏打ちを信じるお前の気持ちは分かるがな」
「仙狸よ、どのように決着を? あなたには何か腹案があるのでしょう?」
真子も真っ直ぐに黒麻呂を見返していた。
「そうだな。まだまだ分からぬ事が多い故、確実とは言えぬかも知れないが、鏡を使わなくても雨を見分ける為の方法はある」
「それは、どんな方法か」
「まあ急くな。まだ全てを話し終えた訳ではない。そのことは最後に話すとして、まずは、あやつを何とかしなくてはな」
「ハル様……」
「蒼樹ハル」
黒麻呂と真子が仙里の視線を追うようにしてハルを見た。
「おい、いつまでそこで呆けているつもりだ!」
歩み寄る仙里の顔を見る。雨に濡れた髪が、少しだけ銀色を覗かせていた。
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