第31話 右方の雨と左方の雨
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狛神の森の中、朽ちた社の正面に向かって先頭には黒麻呂、その後ろでハルは仙里と横並びに立っていた。建物の内部には何一つ物がない。崩れた祭壇は見える。しかしそこには御神体などは見えなかった。
「では、行くぞ」
黒麻呂が短く言葉を吐いた。直後、獅子の頭部から光が発すると、正面の空間が陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
黒麻呂が振り向き、付いてこいと顎で指図をすると自分の影が何かを訴えてきた。
――心配してくれているのかい? でも大丈夫だよ、真子。戦いに行くわけじゃない。それに、向こうでする話は、きっと君にとっても有益なものになる。
ハルは、自身の内側に真子の緊張を感じ取っていた。
黒麻呂の背に続いて、仙里が歩みを進める。
「なにをグズグズとしている」
固まる身体に仙里の叱責を聞く。胸に手を当て真子が落ち着きを取り戻したのを確認してから、ハルは仙里の後ろ姿を追った。
揺らぐ空間に足を踏み入れる。その場には上下の感覚がなかった。左右にも際限など見えなかった。ただただ真っ白な空間の中で足下に足場も見えない。足が地に着く感覚だけはあったのでどうにか歩くことは出来たが、恐る恐るでしか足を運べなかった。
「なんだ?」
いったいどこまで歩くのだろうかと考えていたときだった。不意を突くようにして目に光が差した。戸惑いのままに瞼を開くと目の前に大きな社が現れていた。
正面には反り曲がった曲線状の
「何事もなくここまで来るとはな。流石だな。とまずは言っておいてやろう」
目の前に色黒の偉丈夫が立っていた。背は高く、骨太で筋肉質。黒髪は長く後ろで一つに括っていた。
気安く声を掛けてきた壮年の男。だがハルにはそれが誰だか分からなかった。衣装は和装である。ぼんやりとしたイメージとして、その姿は鎌倉室町の武士を思い起こさせていた。
「あ、あの……。どちら様で?」
「何を言っているのだ。俺だ、黒麻呂だ」
「え、ええ!」
「そういえば、人の形を見せたのは、これが初めてか」
黒麻呂が白い歯を見せながら屈託のない笑顔を見せた。
「ハル様……」
後ろに可憐な声色を聞いた。振り返ると、そこに今ほど聞いた声に違わぬ少女がいた。紫紺の地に、無数の花を咲かせた小袖を身に纏った姿。歳は一七、八歳くらいだろうか。褐色の肌に青く輝く瞳が印象的で、落ち着きを見せる身のこなしは少女の中に大人の匂いも漂わせていた。
「ええっと、君は? 君は……」
「真子でございます」
「はあ? ええ? だって君は小さな女の子じゃ!」
「私は、その、力を失わせておりましたので、
真子がその青く短い髪を揺らしてニコリと微笑んだ。
「ならば、仙里様は……」
仙里はこの神の里で、どのような変化を見せているのだろう。あれ程の美少女ならばさぞかし美しい姿を見せてくれるに違いない。そう思って仙里を見ると……。
「なんだ、その目は」
目を細めた仙里が、顎を突き出すようにして見下げて言った。仙里の姿は、その美しい緑眼こそそのままだったが、着ている物は先ほど変わらず制服姿で、その髪色も黒髪のまま変化を見せていなかった。
「仙里様ぁ……」
「なんだ、うっとうしい。そんな目で見るな。気持ち悪い!」
「う、うっとしいって、それに、気持ち悪いって!」
「フン!」
仙里はツンとしてそっぽを向いた。
「そのくらいにしておけ。それよりも猫よ、いや、
黒麻呂が笑みながら話を切り出した。黒麻呂の言葉に居住まいを正した仙里は話し合いが出来る状況かどうかを確認するように目を向ける。
仙里の意を受けた黒麻呂と真子は、揃って頷き同意を示した。
「何から話すべきか……。まずは、古の戦の事情、ということになるだろう。しかしその因果を紐解くためには、現在起きていることを一つずつ整理していく必要があるのだが……」
仙里が顎に手を当て思案する。一同がそろって息を飲んだ。
「方々、まずは先入観を捨てること、我を通すのも控えて欲しい。そして、この場では嘘偽りを言わぬことを誓ってもらいたい。同意してもらえるだろうか?」
「いいだろう」
「分かりました」
二人から同時に声が返る。了承を得た仙里は次にハルの方へと目を向けてきた。
「お前もだ」
「え、だって僕には隠すことなんてないし、それに知っていることなんて何も……」
「フン! 惚けたふりはもういい。もう分かっている。それに、お前にも知りたいことがあるのだろう? ならば観念しろ。この話はお前が追いかけている呪いの話の根幹にも関わっているのだからな」
ハルが手に持つ太刀を見てから、仙里はハルの目を覗き込んできた。その見透かしているような仙里の目を見てハルは一つ息を吐く。自分の目的は、連続殺人を止めることで、妖のいざこざに巻き込まれるのは本意では無い。これ以上、化け物の話には関わりたくなかったので、知らぬ存ぜぬを決め込んでやり過ごそうと考えていたのだが、そうもいかなくなった。
「仙狸よ、ハル様がいったい何を惚けていると……」
「姫様、こやつは、あなたが今一番望んでいることを惚けているのですよ」
「私が一番……。そ、それでは!」
「そうです。こやつが惚けているのは『雨の陰陽師』にまつわる事象」
「それでは、やはりハル様が!」
真子がその顔に喜色を浮かべた。
「といっても、まだ確定とまでは言えないのでしょうけどね」
「お、おい! 待て仙狸。こいつが雨の陰陽師だというのか!」
「まだ分かりませんがね。ただ可能性が高くなっているのではないか、と私は思っている」
「ば、馬鹿なことをいうな! こいつが雨殿などとは、虚言も程々にせよ! こいつは何の啓示もうけておらんではないか。その様な者が雨殿であるはずがない!」
「……その啓示とやらが怪しいと言っている。実のところは、あなたも半信半疑なのではないのか? 狛神」
「ば、馬鹿なことを。まったく話にならん! このようなところまで案内させておきながらこのような方便を聞かされるだけとはな。もう止めだ! こんな話には付き合ってら――」
「私は知っているのだ。あなたの慕う玉置訪花とやらがその内に抱えているものを。さて、狛神よ雨たる者とあのようなものの共存など果たしてありえるのかな」
「な、世迷い言を! 何を根拠に!」
「『
「御霊集めだと……そ、それが――」
「私がその『御霊集め』だといったら? どうだ? 玉置訪花について思い当たる節があるだろう? 狛神よ」
仙里は薄い笑みを浮かべながら鼻を鳴らす。
「みたまあつめ?」
ハルは青髪の少女の顔を見た。
「その昔、都で戦がありました。いまから八百有余年前のことです。その戦で敵方の総大将だったのが右方の黒鬼でした。結果として、帝の命を受けた左方の者は悪鬼の徒党を討ち滅ぼすことを成すのですが。それで万事良しとはいかなかったのです。黒鬼が今際の際で呪いを残したのです」
「黒鬼の呪い……」
「そうです。呪いです。黒鬼は怨念を纏わせた魂を六つに分けて天へと解き放ったのです」
「呪われた魂……」
「その呪われた魂魄を集める役を担っているのが『御霊集め』と呼ばれる者です。私の知るところでは、雨様に縁する者がその役割を担っているということでしたが、今は、聞いたとおりです。どうやらハル様が従える仙狸がその役を引き受けているようです。その理由は私には分かりません」
「仙里様が、怨念を抱く魂を集める者……」
それが目的だったのかと、あの日、あの雨に濡れるながら一点を見つめて動くことをしなかった銀の猫の姿を思い出した。
――仙里様が狙っていたのは呪われた魂ということになるのか……。
「真子? その呪われた魂魄とやらはどういうものなの?」
「呪いの魂魄は人に宿り、その者を穢れで染めていきます。やがて、穢れた者は邪に墜ち、世に災いを招く者となります」
「災いをもたらせる者になるか……。仙里様、その魂は集めて終わりなのですか?」
「いいや、終わりではないな」
「集めて呪いを解くとか、浄化するってことは?」
「私には、出来ないな」
「集める方法は?」
「穢れた者はやがて化け物へと変化する。そいつを引き裂けばいい。裂いたところで飛び出してきた魂魄を捉える。それは容易いことだ」
化け物への変化と聞いて、ハルは夢の中の少女を思い出した。だがそこで違和感を抱く。仙里と真子の話を繋ごうとしても、どうしてもそこに齟齬があるように思えてならない。第一の事件の時に、仙里がいった「始まった」という言葉、それはおそらくは、呪われた魂魄による玉置訪花の変化を指し示しているのだろう。だからといって、今の訪花が穢れに染められているとは思えなかった。
それに……。ハルはあの夢の中で掴まれた腕を摩った。
――あれは玉置さんでは無かった。あれは別人だ。何かあるはずだ。玉置訪花と夢の中の少女、その両者の間に呪いの魂魄に関することがきっと。
「黒麻呂さん」
「なんだ」
「僕には、玉置さんが恐ろしい者には見えないんだけど」
「当たり前だ!」
「黒麻呂さんも邪悪な者には見えていないんだよね?」
「クドいぞ! 小僧」
「ハル様! その者の言葉を信じてはなりませぬ」
「お前がそういうか真神! 自身の都合でこの小僧を殺そうとしていたおまえが! 教えてやろうか、小僧。こいつが何故お前を狙ったのかを。こいつはな
「僕の血? 命?」
「そうだ、お前の命と血があれば、青の御霊が一時的にでも力を取り戻すのだと聞いているのだ」
「……あの玉が力を取り戻す。でもなんで?」
「なんだ、知らぬのか? 死んだお前の妹は、『
「あまおとめ? 定め?」
「雨の音の女と書く。それはこの世で唯一人、雨の陰陽師を見分け、探し出すことが出来る者、古より雨喚びの巫女と呼ばれる者のことをいうのだ」
「――なん、だって……。まさか、真菰が……。なんで、そんな定めを……」
「ハル様……」
「真菰……」
これまで、雨の陰陽師に間違われることで散々に迷惑を被ってきた。いくら否定しても、ことあるごとに雨様絡みの事件に遭遇してしまう始末に、いい加減にうんざりとしていた。それなのに、生い立ちという、そもそもというところで自分は雨の陰陽師ゆかりの者と関わっていたという。
妹は死んだ。幼くして閉ざされたその生涯とはいったい何だったのか。ここに来て知らされた事実が彼女の短い生涯を穢していくように思えた。彼女の存在が、観測器具のように語られることには我慢がならない。雨音女の定めなど認めることなど出来なかった。
握った拳の中に爪が食い込む。妹の死が、自分の不遇が、その全てが、雨の陰陽師にという言葉に弄ばれているような気さえしていた。聞かされた話は、悪い冗談としても最悪の話だった。
「黒の王よ、無体なことを! 今更、雨様のお心の傷を抉ってなんとしますか!」
「雨様か……。だが、いい気になるなよ真神! まだだ、まだお前が選んだ者が雨殿であると決まったわけでは無いのだ。御霊集めがどうした。訪花にはそのような穢れは無い! それに我らが神器、雲華が示したのだ。そのことを覆せるとでも言うのか? どうだ、訪花が雨殿でないことも証明できまい」
「いいえ、黒の王よ。雨様に近しき御霊集めが言うのです。それ相応の確証があってこそでありましょう」
「そこまで言うのならば、俺が証明して見せようか。今ここで小僧を贄とすればいい。お前の宝珠はきっと訪花を雨殿であると教えるぞ」
「そのようなことが成せるとお思いか? この雨様の地で真神を前にしてそのようなことが出来ると思うか? 今の私には加護がある。先ほどと、同じというわけにはいかぬぞ」
狛神と真神。向かい合う雷神と風神。両者の怒気が曇天を呼ぶ。辺りに荒れ狂うように暴風が吹くと、雷鳴が今にも撃たんと轟き渡った。
触れれば斬ると言わぬばかりの両者が睨み合う。目で目を牽制し、腕は攻撃の号令を待つ。そんな互いが互いの隙を狙う緊迫する場面で、両者が同時に動き出そうとしたときだった。冷ややかな嘲笑を口元に湛えた仙里が、怒り狂う二人の間に歩みでた。
「だから、お前達は馬鹿なのだ。つい先ほど誓いを立てたばかりだというのに、こうも安易に違えるとはな。それでも神か? これはもう唖然という言葉も通り越すほどだな」
「うぬ……仙狸」
「仙里、あなた……」
「やれやれ、言っても分からぬならば、お目に掛けるしかないな。お二方とも、頭を冷やしてよく見るがいい」
言って仙里は、悪戯な微笑みを浮かべてハルへと視線を流した。
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