第29話 迫る窮地

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 青銀の毛並みが気迫と共に揺れていた。長く伸ばされた首が上を向くと、そこから天空へ向けて雄叫びが放たれた。それは聞いて心地よさを覚えるほど澄んだ音だった。


「あれが、真子の真の姿……」

 ハルは、目を奪われる。真子のその優美な姿に見惚れて呆然としてしまった。


「やれやれ、お転婆娘が、我を失わせよって。あれでは持たぬぞ」

 黒麻呂は、真子が臨戦態勢に入ったというのに、まるで歯牙にもかけぬといった具合で呆れ顔を見せる。その余裕の意味は分からない。ハルには両者の間にそれ程の力の差があるようには見えなかった。


「黒麻呂さん、持たぬとは?」

「あやつは、その力の全てを封じられている。今のあの力は、あやつ自身のものではない。それでは持たん」

「持たない? 持たないって……」

「死ぬ、ということだ」

「な!」

 絶句して真子を見た。言われてみればその有様には鬼気迫るものを感じる。真子はまるで、この場で燃え尽きようとしているかに見えた。


「ハル様、どうかお下がりください。危のうございますゆえ」

「真子、待って! 落ち着いて!」

 制止を訴えながら両者の間に割って入った。


「お退きくださいませ。私にはやらねばならぬことがあるのです」

「駄目だ、真子。ここで無理をするな!」

「ハル様!」

「まだだ! まだ何かがある!」

 ハッとして気付く。考えるより先に口に出した言葉によって脳裏にある靄が晴れようとしていた。ハルは、これまでの黒麻呂と真子の会話を聞きながら、そこに噛み合わせの悪さのようなものを感じていた。心の何処かに何かが引っかかっていた。


 ――なんだ? 僕は何を言っている? まだ、何か、ある、だと……。

 不意に出た言葉と直感によるものであったが、何故か確信していた。

 黒麻呂と真子は距離を持って対峙していた。事態は切迫している。しかしハルの目は朧気にその光景を見ていた。

 考えていた。確かにまだまだ欠けている部分はある。全ての情報は出揃っていない。だが何かが繋がろうとしている。

 雨の陰陽師、その右方と左方、狛犬と真神、それに昔の戦。

 右方と左方は過去に戦った。その時の両者の行き違う事情。

 ハルは、知り得たことを一つずつつなぎ合わせようとした。

 昔のその戦において、一方は本意では無かったという。また一方は敵を悪として戦ったという。それから八百年を経て、今度は真神の里が襲われて、襲ったのが狛犬達だということだった。


 ――真子は、その事を責めた。黒麻呂はそれをきっぱりと否定した。真子はここに来て初めて敵が黒麻呂だと確信したようだった。鏡……。里から奪われた鏡。しかしそれは元々は狛犬方の神器であるという。……なんだ? 両者の間に何があるんだ? 何が起こった? 真子の言葉に嘘はないと思う。黒麻呂さんの言葉にも嘘はないような気もするが、それならば、いったい誰が嘘をついているのか……。


「うわっ!」

 思考に囚われていたハルの横を鋭い風が駆け抜けた。

 振り向いてその風を追う。真子が雷撃を放ちながら突進していく姿が見えた。


「待て! 真子! ――黒麻呂さん!」

 見ている先で、青い線が舞った。目ではその激しい動きを追えていたが、頭は起きている事実を受け入れられない。四方八方から挑んでいく真子の攻撃は凄まじいもので、それは信じがたき光景だった。だがそれでも、黒麻呂は泰然として動かなかった。雷撃を避けるでもなくその身に受け。彼女の牙を躱すこともしない。真子は間髪を入れずに攻撃を繰り出した。不動の黒麻呂の周囲で踊るように攻撃を仕掛けていった。だがそれでも黒麻呂は微動だにしなかった。


「構えも取らぬとは、舐めてくれたものですね」

「虚を持って俺を討つことなど出来ぬ。先ほどもそう言ったのだが?」

 黒麻呂は平らな声で諭すように話した。見ると、その身体には傷の一つも付いてはいない。頑強を思わせる体躯には、牙による裂傷も、雷撃による損傷も何もなかった。


「牙も通じぬ、雷も聞かぬ。やはり初手から全身全霊をもって挑まねばなりませなんだか」

「やめておけ、それ以上は死ぬぞ。左方をこのような形で失うのは本意では無い」

「まだ、戯れますか、我が里を襲っておきながら」

「そのことは、知らぬといっているだろう」

「もう結構です。次で決めます。差し違えてでも、あなたをここで滅します」

 真子の身体が青白い炎のようなもので包まれた。その青い揺らぎの中で雷が暴れる。一段と気勢を上げた真子が前傾になった。それがおそらくは渾身の一撃を繰り出す構えなのだろう。だが。


「やめろ、真子! もうやめるんだ!」

 ハルは背に庇うようにして黒麻呂の正面に立った。


「ハル様! お退きください! そこを、退いてください!」

「駄目だ、真子。僕は君に消えて欲しくない。ここは引いてくれ!」

「ハル様、退いて!」

「駄目だ。黒麻呂さんは、きっと敵ではない。君の里を襲ったのは黒麻呂さんではない」

「それは嘘です。騙されてはなりませぬ。こやつらは、昔々のあの戦で我らを裏切り悪事を働いた者です」

「黒麻呂さんは、その戦も本意では無かったといった」

「ハル様、ハル様は私をお信じにならずに、その痴れ者を信じられるのですか……」

「真子、違うよ僕は――」

「私がハル様を殺そうとした。そうお思いだからですか」

「違う! 真子、それは違う! そんなことじゃない!」


 真子が自分の命を狙ったことなど、とうに忘れてしまっていた。聞いた時には流石に驚いたが、そのようなことは些末事であると思った。現にハルは死んでいない。真子に殺されそうになってもいない。助けに来てくれたこともあったくらいだ。

 ハルは大きく両手を広げて前へと進む。何とか真子を落ち着かせようとしていた。

 真子の目を見つめながら一歩、また一歩と、ゆっくりと歩みを進める。

 そうして、あと僅かと真子の目の前まで迫った時だった。

 目を合わせていた真子の目がサッと横に動く。それと同時に耳が無数の風切音を捉えた。ハルは瞬時に、何かが自分めがけて飛んできていることを悟った。

  

「なんだ!」

 手をかざすように身を庇いながら殺意の出所を見る。飛んできたものが矢であったことに気が付いたのは、全ての矢をその身に受けながら敵を睨み付ける真子を見たときだった。ハルは真子に庇われていた。


「なんで、こんなところに矢が飛んでくるんだ。真子! 大丈夫か! 真子!」

 真子の身体には何本も矢が刺さっていた。その傷口からは血が流れ出ていた。

「ハル様……。良かったご無事で」

 言った直後、真子は前足を折るようにして地に崩れた。


「真子! 真子! 真子! どうして……」

 呼びかけるハルに、真子は微笑みを向ける。そして言った。


「ま、まだ、油断はなりませぬ。まだ敵が……」

「敵?」

 いって黒麻呂を見た。だが、黒麻呂はこちらを見ていなかった。黒麻呂の視線の先を辿る。大きな木々の上の方、その太い枝に立つ異形の者の姿が見えた。


「な、なんだ! あれは、何者なんだ」

野狐やこだ」

 黒麻呂が口にしたその者達を見る。形様は大小様々で一様に白き狐面を被ったような面構えであり、白装束で包み込こまれたその身体には、胸当てのみのを備え、手には弓を持っていた。


「やこ……」

「狐だ、野に狐と書いて野狐。狐の妖だ。しかし分からぬ。何故にやつら……」

「ハ、ハル様、お、お逃げください。ま、まだ来ます」

「まだ? まだって?」

「来たようだぞ」

「来ました」

 伏せる真子と、いつの間にか傍らに来ていた黒麻呂が揃って辺りを睨み付けていた。その視線の先で、ガサリと草むらが動く。木々の影から無数の黒い犬が姿を現した。


「く、黒の王よ、よもやここまで卑怯な真似を……」

「勘違いするな。俺ではないぞ、俺は奴らを呼んではいない」

「この期に及んで、まだ言いますか……。ハル様、どうか今すぐお逃げください。殿はこの私が一命をなげうってでも!」

 真子が目を怒らせながら立ち上がる。しかし、その四肢は震えていて、とても戦えるようには見えなかった。


「チッ! この真神のなんと頑迷な……」

「黒麻呂さん、黒麻呂さん!」

「俺は呼んでねえ、蒼樹ハル、お前が信じるかどうかは知ったことではないが、とにかく俺は呼んでねえ……」

「あ、いえ、そういうことではなくて」

「あん? 何だよ」

「僕たち、いや、僕はこのまま真子と逃げようと思うのですが、助けてもらえませんか?」

「はあ? ……」

「あ、いや、固まっている場合じゃないと思うのですが……。とにかく、ここは一旦逃げよう――」

「阿呆か! お前。ちっとは考えろ! ビビってねえところは大したもんだがな、ちゃんと周りを見て見ろ! ったく!」

「はぁ……」

「はぁって、お前なぁ、上に野狐の弓、使っている矢にはおそらく呪が施されている。そこのお姫様がただの矢で動けなくなるなんてことはねえ、お前如きでは、かすっても死ぬぞ。それに下に犬どもだ。あれだけの数に周囲を囲まれているんだぞ」

「ええと、この前みたいに、咆哮でズバーンってわけには……」

「そんな便利なもんじゃねえ! 大体なぁ、敵のその数も五十を下らねえ、いや、もっといるな。俺だけならどうとでもなるが、数で押されたら隙が出来る。手に余した敵はお前達へと向かうんだぞ!」

「あ、なるほど……。でも、じゃあ、どうすれば?」

「戦えよ」

「へ?」

「死にたくねえんだろ? だったら戦え! 出来るだろう、お前も雨の陰陽師に間違われた程の者だ」

「え、ええええ! 無理、無理、無理。無理です! 犬神ですよ。それに黒麻呂さんもあの夜、見ていたんでしょう? 僕が棒を振ったって、すり抜けるんですよ」

「んなもん、気合いでなんとかしろ! 覇気を込めれば棒でも当たる。当たらなければやりながら覚えろ!」

「そんな無茶苦茶な……。あ! そうだ!」

「なんだ?」

「なんか武器を、使える武器を出して下さい。黒麻呂さんも神獣なのでしょう?」

「おめえな、おれはどこぞの猫型ロボットじゃねえ! それに猫でもねえ!」

「……黒麻呂さん」

「なんだ?」

「その言い回しはもう、使い古されてます。もっと捻ってもらわないと」

「……」

「黒麻呂、さん?」

「おい、戯れ事はここまでだ。来るぞ、覚悟を決めろよ。しょうがねえから加勢してやるがな、自分の身は自分で守れ」

 

 言われて周囲を見回すと、犬神達が包囲を狭めてきている様子が見えた。上の方では野狐が散らばるように位置取りをしてこちらの様子を覗っていた。


「ハル様、ハル様のことは何としてでもお守りしてみせます」

「いいや、真子にこれ以上は無理をさせられないからね。僕もなんとか頑張るよ。とにかくこいつらを退けて生き延びるんだ。だから真子ももう少し頑張って」

「し、しかしハル様」

「大丈夫! 覇気とやらを込めれば棒も当たるって、その言葉を真に受ければ、きっと拳も当たる。やってみるさ」

「む、無茶です!」

「無茶でもなんでもやるしかない」

 いつしか三者が互いに背中を合わせて敵を見ていた。その周囲を敵が囲む。

 ハルは、拳を握りしめボクサーのように構えを取った。


「まったく……。お前のその楽天的な思考ときたら、それはもう呆れるという言葉も過ぎるくらいだな」

 敵味方、皆が一斉に声のする方を向いた。次の瞬間、声が発せられたその場所で、黒い集団が一気に爆ぜた。


「何者だ?」

仙狸せんり!」

「な、仙里様!」

 受ける爆風。舞い上がる土埃。ハルは目を凝らす。風が舞って視界が晴れるとそこに煌めく緑の双眸が現れた。


「ほれ、忘れ物を届けに来てやったぞ」

 仙里がニヤリと笑った。そして手に持つ太刀をこちらへと放り投げた。

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