第28話 青狼と黒獅子

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 初夏を思わせる穏やかな午後であった。天気は良く、車窓を流れる景色までもが清々しい。休日ということで車内には家族連れの姿が多かった。そんな賑わいを見せる電車に揺られながら、訪花の事を考えていた。

 この日ハルは、職員室で盗み見た住所を頼りに訪花の自宅へと向かっていた。

 訪花は四つの駅を経た隣町に住んでいた。自宅は最寄り駅から更に数キロを歩く。


 雪のように白い肌。闇のような黒髪。そして氷の瞳。調べるほど謎は深まるばかりで、まるで人物像がつかめない。出席簿を見ると、毎日出席していることにはなっていた。しかし、実際に彼女に会うことは叶わない。

 同じクラスの生徒に聞いても「あれ? さっきまであそこにいたよ」という具合でその所在が全くつかめなかった。そこに居ることになっているのだが、誰の目にも留まっていない。訪花はまるで空気のようにしてそのクラスに存在していた。


 ハルが通うのは、これといって特徴も無い公立高校である。部活動にしても、学力にしても平凡なものだった。そこに通う生徒の多くは、自宅から近いからという安直な理由でこの学校を選んでいた。

 彼女の成績は、どうやら相当に優秀らしい。運動能力も優れていると聞いた。

 普通に考えれば、彼女が自分達と同じ学校に通っていることに首を傾げるだろう。


 だが、入学してからこの日までの出来事を鑑みれば、おのずとその答えは見えてくる。わざわざ自宅から遠い学校へ通学してくる理由は一つしか考えられなかった。

 呪いの件である。きっと彼女は、入学試験を受ける前からこの殺人を計画していたに違いない。それ程までに彼女を駆り立てるものが何なのか。その理由が知りたかった。それからもう一つ。とにかくもう一度訪花に会って呪いを解くことを了承させなければならないと思っていた。


「たしかこの辺りだと……」

 駅から随分と歩いたような気がする。住宅街を抜けると、そろそろ家の数も疎らになってきた。


 ――あの辺りのあれがそうなのか?

 郊外といっていいほどに開けた場所に出る。少し先の田畑の中に、こんもりと盛り上がるようにして茂る木々の群れがあった。森と言っていいほどの緑。そこに隣接してポツリと一件だけ人家が見えた。

 見えているそれは普通の家ではなかった。敷地はかなり広く、塀に囲まれたその家はどこぞの旧家を思わせた。祖先は豪農あるいは武家といったものだったかも知れない。


 外塀に沿って少し歩くと、屋根付きの門が見えた。ハルは緊張で固まる頬を叩き、その門へと進んだ。

 門に表札などは見えなかったが、メモに示された住所の家は目の前にあるこの屋敷しかない。ならばここが玉置訪花の自宅ということになるのだろう。

 手が震えていた。それでも行かなければならない。事態は今も動いている。

 怖さは確かにある。自分は彼らの忠告を無視して踏み込んできている。いや、彼らの意に従わず逆らってしまった。なので、いつ何が起こってもおかしくはない。


「腹をくくれ。僕はここに、喧嘩をしに来たわけじゃない」

 ハルは奥歯を噛み、拳に力を込めた後にフッと息を吐いた。


「いい度胸だ。小僧」

 予感も何もなしに声を掛けられ、身の毛がよだった。息を飲んで振り向くと、そこに毛足の長い黒の大型犬がいた。その姿は、あの日に出会った獅子よりもかなり小さく、どこにでもいるようなペットのなりをしていた。それでも、間違いないと思った。


「黒麻呂さん」

「おう」

 黒麻呂は短く答えた。


「訪花さんにお願いがあって来ました」

「お願い? 願いとは調子の良いことだな。俺から見れば、わざわざ殺されに来たといった感じなのだがな」

 黒麻呂がニヤリと笑う。


「訪花さんは、いや、雨の陰陽師は今どこに?」

 ハルは、嘲るような視線を真正面から受け止めて黒犬を見返した。


「ほう、お前、俺が恐ろしくはないのか?」

「別に」

「命が惜しくはないのか?」

「べつに惜しんでなんかない。今はまだ、殺されるわけにはいかないけど」

 淡々と話すハルを見て黒犬は目を細める。その後、フンといって口角を上げた。

 黒麻呂に言ったことは、目一杯のはったりであった。

 そこに化け物がいることなど初めから承知してのことだった。怖じ気づいていては話にもならない。それに、切り出しのところから相手に飲まれていていたのでは話を先に進められない。


「小僧、やはりお前は面白い」

「雨の陰陽師はどこです。僕は彼女にお願いがあって来た。教えて頂けませんか?」

 

 挑むようにして言葉を吐き出す。すると黒麻呂が射竦いすくめるように眼を向けてきた。その威力を受け流すようにして見返す。必死であった。


「ほう。俺の睨みを受けても、まともに返してくるのか」

「色々あったんでね。すこし慣れたのかも知れない」

「……慣れた、か。そう言うか」

 黒麻呂は目を伏せ笑んだ。ハルは黒犬の身体から立ち上る威勢が少し弱まったことを感じ取っていた。


「彼女は――」

「訪花は留守だ。しかしちょうど良い。少し話をしようではないか。お前に聞きたいことがある」

「……わかりました。僕も知りたいことがある」

「ついてこい」

 いって黒麻呂は、行き先を示すように鼻先を振った。その先を見ると生い茂る森が見えた。

 無言で先導する黒犬の後を追う。おそらく向かう先に安全などないだろう。黒麻呂は話をしようと言ったが、その言葉をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。だが、殺すつもりならば見つけられた時点で命がなかったはずである。まだ殺されていないのならば、そこには生かしている理由も何かあるはずだ。


 ――ここは。

 黒犬が先に森に入った。その入り口を見ると朽ちた鳥居があった。


「神社? ここは神社なのか……」

「どうした? ついてこい。ここまで来て怖じ気づくのか」

 黒麻呂が振り返って笑った。

 森の中は暗い。頬をすり抜けていく草の匂いもひやりとしていた。


「ここは……」

 雑草に覆われた石畳、その先に老朽化した社があった。建物の形こそはどうにか保たれていたが、しめ縄や紙垂しでなどは見当たらず、風化を見せる柱や梁は枯れ木を思わせるように白い。開け放たれた戸の奥には御神体なども見当たらなかった。


「我らが社だ」

「では、あなたがここの神様ということですか」

「あなたが、というのには少々語弊があるな」

「語弊? 違うのですか?」

「まあ急くな。話せば長くなる。それよりもだ」

 黒麻呂は話しながら真の姿である獰猛な黒い獅子の姿を出現させた。


「やはり、怖じぬか」いって黒犬は息を一つつく。そして続けた。「蒼樹ハル、お前は、何者だ?」

「何者だと聞かれても、答えようがないのですが」

「水郷の姫、あ、いや、あの真神のことだが、あやつがお前のことを『雨の陰陽師』だと嘯いていることは知っている。だが――」

「雨殿は、訪花さんだというのでしょ? ならそれで良いではないですか。僕は僕だ。僕は蒼樹ハル。それ以外の何者でもない」

「そうだな。我らは、あの玉置訪花が雨殿であるとの啓示を受けた。だからお前が『雨の陰陽師』ではないと知っている。だが」

「だが?」

「お前が何者であるのかが分からない」

「だから、何度も言ってるでしょう? あの鬼に喰われそうになった時にも、そして今も」

「うむ。それはそうなのだがな。はいそうですか、とはならんのだ」

「何故?」

「何故、か……。その話を詰めるならば、そいつとも話さねばならぬのだがな」

「そいつ?」

「出てこい、真神の姫」

「真神? 姫? 真子のことか」

 黒犬は出てこいと呼んだが、ハルには真子を連れてきた覚えはない。いったいどういうことなのか。そう思って黒犬を見ると、その視線が自分の足下に落ちていた。


「黒麻呂さん、今日は真子と一緒ではありませんよ」といった刹那、ハルの足下につむじ風が起こった。そしてそこに青銀の毛皮が現れる。


「黒の王よ、雨様に何用か」

「ま、真子! どうして君が」

「蒼樹ハルよ、真神は常にお前の影に潜んでいるのだよ」

「僕の影に……」

「そうだ。真神はお前の影に遁甲をしているのだ。そしてその目的はお前の命。そうだよな真神の姫君」

「……真子が、とんこう……。それに、僕を殺そうとしている?」

 いきなり思いも寄らなかった事を聞かされたハルは、戸惑いのままに真子を見た。


「ハル様……」

 ハルと目を合わせた真子がスッと目を逸らす。


「真子……。そうなの? 黒麻呂さんが言っているのは本当のことなの? でもどうして……」

「……」

 真子は口ごもり下を向いた。


「ザマはないな。なんという情けない姿。お前、本当にあの真神の姫なのか? それでも左方を守護する神獣だと言えるのか?」

「さほう? ……」

「雨の陰陽師おんみょうじ、右方には風神を、また左方には雷神を従えたりき」

「そ、それは」

「ほう、聞き及んでいたか、蒼樹ハル。ならば話は早い。右方とは我らを差す。そして左方とは、そこにおる真神どもを差す」

「黙りなさい! 黒の王! 穢れにまみれた者に雨様の右方を名乗る資格はございません!」

「穢れねぇ、確かに犬神どもは穢れを請け負う祟り神であるが、我らをその者らと同列に語るのはどうかと思うぞ。それに我らは犬ではない、獅子だ。我ら『拒魔こま』は歴とした神使である」

「それは御託というものでしょう。八百有余年前、邪に落ち、世に恐怖と荒廃をもたらせた者が言って良い言葉ではありません!」

「ほう、ならば、無益にそこの小僧を殺そうとしたお前はどうなるのだ? 真名を偽ってでも人を騙し、殺めようとしたお前はどうなるのだ? それこそ、神の名をか語る資格を問われることだぞ」


 真子を見下すようにして黒犬は言い含めた。

 悪に墜ちたと言われた黒犬と、今まさに墜ちる寸前の真子。二者共に雨の陰陽師の側に控える者だという。その二つの勢力がこのように対峙する理由は何なのであろうか。八百年も前のことだとういうが、その遠い昔にいったい何があったというのか。

 因縁と一言で表すのでは軽すぎる。そこにはもっと大きな何かがあるような気がした。


「言っておくがな、あの戦、我らは本意ではなかったのだぞ」

「な、何を今更!」

「お前はまだ生まれていなかったから知らぬのだ」

「その事は、ちゃんと学んでおります!」

「学ぶか……。学ぶとは、聞かされたということだろう? だがそれが真実とは限らない」

狛神こまがみふぜいが世迷いごとを! 悪鬼とともに邪に落ちた者の言葉などに迷う私ではありません!」

 光る毛並みを逆立てて、真子は黒麻呂を睨んだ。


「やめておけ。封じられていることなど一目瞭然。今のお前では遊びにもならん」

「私とて雨様の眷属。ここにおられる雨様の加護により一矢くらいは報いて見せます」

「……なるほどな。その小僧を殺さぬは、そういうわけであるか。しかしな真神よ、そいつは、蒼樹ハルは雨殿ではない」

「いいえ! ハル様は雨の陰陽師です」

「困ったやつだな。おい、小僧、こいつに教えてやれ」

 呆れかえる黒麻呂を見てから、真子は戸惑う眼で覗き込んでくる。その問いかけに、ハルは首を振って答えた。


「そ、そんな……」

「真子、残念だけど、僕は雨様じゃない。僕の影にいたのならば、さっきの会話も聞いていただろ?」

「玉置某が雨様と……」

「そうだよ、彼女が雨の陰陽師――」

「し、しかし、それはそこの者が勝手に申しておるだけのこと」

「……真子、雨様は他にいるんだ。今はここにいないけど、雨様はもうちゃんと存在している。そして黒麻呂さんはその雨様の側に仕えている」

「ハル様……」

「ごめんよ真子。もう少し早く君に伝えるべきだったね」

「……でも、それでもどうして……雨音女あまおとめを失い、雲華の水鏡も失われたというのに、なぜ……」

 真子は歯がみをして俯いた。その後、涙を溜めた目で黒麻呂を睨んだ。


「その雲華が教えたのだ。諦めろ」

「なん、だと……。黒の王よ、今何を、何と言いましたか!」

 真子の身体から怒気が迸る。


「はて、俺は今、何かおかしな事を言ったか?」

「雲華と」

「それがどうしたとういうのか? ようやく手元に戻ったあれは、元々我らが神器である。それが――」

「やはり、お前達だったのか……」

「お前達? 何のことだ?」

「我らの里を襲い、里から神器を奪い、そして里を封じた」

「……はて、知らぬがな」

「惚けるな……。そうか、そうだったのか。あのような真似が出来る者など、そうはおらぬ。お前になら出来るだろう、黒の王。犬神を使い、仲間を率いて我らを襲った。なるほどこれはあの戦の続きというわけか。ならば……」

 

 小さな狼が天を仰いで吠えた。その瞬間、真神の周囲を霞が覆う。

 その霞の中で真子の双眸が青の煌めきを放った。無数のいかづちがその体躯の周囲を駆け巡るように乱れ飛んでいた。


「今ここで、討たせて頂きましょう」

 大型の獣の姿になった真子が、黒麻呂を睨み付けていた。

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