第27話 古の記憶

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 仙里は、あの春の雨を思い出す。


 ――その日も、合戦の音さえ消してしまうような酷く重たい雨が降っていた。


 銀杏の巨木の前で黒く垂れ込める雨雲を恨めしく見上げながら遠き昔を思い出していた。それは自身が胸に抱き続けている忌まわしきいにしえの記憶だった。


桔梗ききょう、もういい、ありがとう」

 それが彼の最後の言葉であった。

 そして愛した彼は逝った。

 それはもう遠い遠い昔の事。


 確か文暦ぶんりゃく元年(一二三四年)のことだったと思う。

 あの日から凡そ八百年の時が流れていた。それでもその光景は現在に至っても己の瞼の奥に強く焼き付いていて消えることなどなかった。だが、その時のその季節がいつであったかまでは覚えていない。


 今はもう歴史に埋もれてしまっているが、遠い昔に悪鬼と人間との間に一つのいくさがあった。

 この戦に向けて帝により遣わされた討伐軍は精鋭揃いだった。そしてそこには大峰おおみね兼五郎けんごろう義親よしちかを慕う白拍子しらびょうし桔梗ききょう御前ごぜんの姿もあった。


 桔梗という名は仙里の本当の名ではない。白拍子とは平安から鎌倉にかけて起こった歌舞うたまいや、その舞手のことを指す。

 その出で立ちは、かの九朗判官義経に添っていた愛妾の静御前が、源頼朝の前で恋歌を舞った姿を思い起こせばよい。


 何故に遊女の如き白拍子が悪鬼との合戦に同行を許されているのかと、そのような疑問を持つ者は帝の軍勢の中に一人もいなかった。


 その理由は主に二つある。うちの一つは桔梗が神通力に秀でておるとされ、桔梗が武者十人(勿論それは本気の力の尺度ではない)にも数えられる程の力の持ち主だということを皆が知っていたからだ。

 ざっくりというならば使えるものは何でも使おうということで、立ち位置を人間の視点から見て、それを良いように言えば、桔梗の持つ力は妖に対して有効である。という事らしかった。


 もう一つの理由は、この帝の軍勢には、帝の懐刀であった陰陽師どもも参加していたのだが、その陰陽師の中には破格の力を持つの巫女も在ったので、桔梗のように女装の者が混じっていたとしても特段に驚く事にはならなかったということである。


 それにしてもと思い返せば、あの巫女等の力は決して侮ることが出来ないものであった。そして恐らく彼女らは桔梗の正体に感づいていていたであろう。だが詮索はされなかった。


 そういうことであるから、人間から見れば尋常ならざる力を見せる桔梗ではあるが、その正体を知る者はあの軍勢の中にはいなかったとのだと言える。

 桔梗が少々力を振るったとて、他にも化け物じみた力を使う巫女が在るのだからそれに紛れてしまえば疑う者は誰一人もいない。本気さえ出さなければ目立つことも無く、その上に出自正しい彼女達の陰に上手く隠れてしまえば正体云々などはどうとでもなったのである。


 ただし正確を期して言えば、桔梗の正体を知っている者があの軍勢の中に誰一人もいなかったという訳ではない。

 一人いた。その桔梗の事情を知る唯一の人物こそが、桔梗が慕っていた大峰兼五郎義親という侍であった。

 桔梗というあやかしがあのように人間の側に立ち、あのように戦に赴いていた因果も、実を言えばその大峰兼五郎義親にあった。



 強者つわものに一級の武具と馬を与え、それに加えて帝は懐刀であった陰陽師も遣わした。

 それは破格のことであり、それはこれまでに見た事も聞いたことも無いような秀絶しゅうぜつで極まれる軍勢であった。そうして人間は勝ち、悪鬼は滅ぶ。


 結局のところ、戦は三日三晩を要したが帝の軍勢は悪逆の限りを尽くした悪鬼の徒党を都から追い出すことに成功する。彼らは疲労をものともせず直ぐに追撃を開始した。

 その後、数日のうちに帝の軍勢は悪鬼の徒党を追い詰めた。この時既に帝の軍勢もかなりの損傷を受けていたのだが、それでも軍勢の士気は落ちる事もなく、彼らがその気概を失わせる事は無かった。


 最後に独り残った悪鬼の首領を武者達が囲う。刃を構える猛者達のうちの誰かが「やあい、打ち取れ!」と声を上げると、皆が応じて一斉に首領へと飛びかかった。

 無論、天下の宝刀を授けられていた大峰兼五郎義親は一先に飛び込んでいった。桔梗は血気盛んに刀を振るう義親に続く。


 一心に太刀を振るい、敵方の首領と切り結ぶ義親。桔梗も呪を駆使して援護の攻撃を繰り出した。そうしてとうとう義親の太刀が首領の胸の真ん中を捉えた。


「グフッ……」


 低い呻き声が聞こえた。敵のその声を聞き手応えがあったようだと思った。


「これで終わらせる!」


 次に義親の誇らしげな言葉を聞いた。ついに敵将を討ち取ったのだと。

 そう思った。見ると義親の太刀は鬼の首領の胸を刺し貫いていた。その義親の様子を見て桔梗も少し気を緩めたのだがしかし、次の瞬間に悲劇が起こった。


「嫌ぁーーー! 義親様!」

 

 喉が掻き切れる程の叫びだった。そして桔梗は見ていた。

 義親の腹にめり込み、胴を突き抜け背から飛び出していた悪鬼の血濡れた赤い腕を。

 義親は苦痛に顔を歪めていた。食いしばる口元からとうとうと血が流れ出ていた。


「ガハッ!」

 

 しかし義親の眼光は曇らない。彼は口に溜まった鮮血を吐き捨て、更に強い意志をその瞳に現した。


「くっ……だが! それでも首級は挙げさせてもらうぞ!」


 止めどなく溢れ出す血に構うことなく義親は叫んだ。その顔を見れば、どこか満足げであり笑みさえ浮かべていた。


「義親様! 義親様!」

「桔梗! 俺に構うな! もういい、ありがとうよ!」


 義親は背の方にいた桔梗に向けて投げるように言葉を吐くと、気合いと共に己の体から鬼の腕を引き抜き、鬼の胴から太刀を引き抜いた。義親は残った力を振り絞って太刀を鬼の頸根に当てて頭と胴を断った。


 崩れ落ちる鬼の首領。しかし、その髪を掴んで鬼の首を掲げた大峰兼五郎義親もまた、宝刀を握りしめ立ったままで往生していた。

 だがこの時、義親の手にぶら下がった鬼の首が今際の際で言葉を残す。鬼は義親の魂を捉えて呪いを掛けていた。


「ハハハハハ! してやったぞ!」


 鬼が笑った直後、義親の体から抜け出た魂は光を放ち高く空に登る。魂魄はそこで六つに分かれて方々へと飛び去ってしまった。


 こうして悪鬼討伐は終わるのだが、桔梗はその後、鬼の呪いにより散り散りになって飛び去ってしまった義親の魂を探し求め彷徨う事となった。

 義親の温もりを求めた桔梗は後に、魂魄の一片を手に入れる。

 だが、そのことが義親の魂を救うことにはならなかった。

 桔梗は、魂魄を全て集めたところで呪いを解くには至らない事を知る。

 集める事で終わりでは無かったのだ。集めた後の方が余程始末が悪かったのだ。

 義親の魂を集めること自体は容易であった。雑作も無かった。現にこの八百年間に幾度も、それこそ数えきれない程、義親の魂を集めることが出来ていた。

 しかし、そのいずれかの時にも呪いの解法は成らず望みは叶わなかった。


 愛する者の魂を集めても、それはわずか三日しかその形を保つことが出来なかった。三日が過ぎれば、義親の魂は桔梗の手の中からすり抜けるようにして消え再び飛んでいってしまう。


 義親に掛けられた呪い解法を知ったのは、今からもう何百年前の事になるのだろうか。

 労苦を重ね全てを賭してそこに辿り着いたはずであったのだが忘れてしまった。でもまあ良い。時期などは無意味であるから覚えていても仕方がない。

 ただその解法の手段を知った時に、酷く嘆いてしまったことだけをなんとなく覚えている。

 無理だと諦めようとしたことを覚えている。だがそれでも義親の魂を集める事を止められなかった。

 それは何故か。桔梗は妖という存在にはあるまじき稀有な感情を抱いていたからである。

 義親の魂を集めた後、桔梗は三日以内にそれをしなければならなかった。しかしそれは難しい事だった。

 出来るはずのない事であった。だからいつの頃からか義親の魂を集める事だけが目的となっていた。

 わずか三日間だけ寄り添うことの出来る愛しき者。

 愛しき者は三日が過ぎればまた居なくなる。

 集めては消え、消えては集める。

 桔梗は時を彷徨うようにしてその業を繰り返した。

 ――義親様……。

 仙里は細く呟いた。何十回、何百回、飽きもせずこれまでと同じように。

 慕情を募らせてそれを繰り返してきたが、もはやその数は覚えてはいない。


「妖が人を愛する事など稀な事。妖が人から愛される事なども、また、稀な事。もちろん、私があなた様以外の人間を慕う事など……それこそありえないのでございます……」


 名も知らぬ社の中で目の前に巨木を見据えて立ち、「嗚呼」と小さく息を吐いた。その言葉がけむのようにふわりと漂い、身を打つ雨の中へと溶けて消え去る。仙里は手を伸ばし巨木の幹にそっと触れた。己が見つめる先に感じているのは慕う者の魂の残り香だった。

 時は移ろい、人の世の営みも変わった。重たい雨は変わらず天から大地に落ちてくる。自然のことわりは時を経ても何ら変わりがなく……。


 ――仙里は、ゆっくりと瞼を開いた。

 

「そうか、あの時の、あれが……」

 何も変わらなかった数百年の時の流れ。二度と変わることなどはないと諦めにも似た感情を抱いていた。だがしかし、潮目は変わった。確かにあの時に変わったのだ。

 その者は、突如として目の前に現れた。そして因果の中心に据え置かれた。

 何の力も無いただの人間。それなのにいつでも荒事の中心として姿を見せる。


「蒼樹ハル。……あやつはいったい何者であるのか」

 キッと眉根を寄せた。この分岐点へと向かってくる因子がきっと過去のどこかにあるはずだ。仙里は遠く記憶を手繰った。

 

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