第26話 銀色の猫

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 ――遠い昔の話である。


 十五夜のこの日、月は惜しげもなく光を降らせていた。その光は、夜目が利く彼女には眩しすぎるくらいではあったが、それでもここは深い森の中である。月光は茂る樹木によって適度に遮られており、これくらいの照度ならば殊更に瞳孔を細める必要もなかった。


 猫の如き肢体が、胸を躍らせ暗い森の中をひたすらに駆けていた。

 胸に抱くのは、欠片かけらのうちのたった一つでしかなかった。それでも、これを手に入れるためにどれ程の苦労を重ねてきたことか。

 十年か、二十年か……。いや、気づけばもう、時はあのいくさから五十年以上も過ぎてしまっていた。


 ――だが、それがどうしたというのだ。


 確かに、五十数年といえば彼女にとっても短い時間ではないが、それでも彼女の時の流れは人間のそれとは違う。

 彼女は、どうということでもないとひとりごち、歌うようにフンと鼻を鳴らした。


 ――ようやくだ。ようやくあの方に会うことが出来る……。

 

 一直線に進む彼女は、眼前を塞ぐ苔むした大岩を軽やかに飛び越え、そびえ立つ巨木の間を風の如くしなやかにすり抜ける。足の下でカサカサと低木が騒いでいるが気にすることもない。

 彼女の四肢は逸る気持ちを乗せて駆けた。胸の内では一心に慕情が募っていた。


 やがて彼女は、一際明るい場所に飛び出した。

 岩の上で立ち止まり天を仰ぐ。見上げれば頭上に高く昇った真円の月が青白い光を浴びせてきていた。

 ピンと耳をそば立て、瞳孔を細める。直後、耳は激しい水音を捉えた。

 目の前にはことわりのままに落下してくる水流があった。高き場所から落ちる水は轟音を伴って水面を叩く。 舞い上がった飛沫が霧となって宙を揺らいでいた。


 水気を含んだ風が髭をそよがせた。その風の心地よさに思わず目を細める。だが、体は緊張を解いてはいない。ここに来てもまだ警戒心を解かないでいる理由の一つは、彼女の獣としての性よるものでもあるのだが、もう一つ、慎重にならざるを得ない事由を抱えていた。


 四肢を折り曲げて体を低くする。伏せると同時に白銀の体毛がふわりと浮いた。

 後方には何事もないことを承知している。彼女は、首を折れんばかりに曲げて左右を見回した。厳重に、何事をも見落とすことが無いようにと意識を収束して何度も凝視を繰り返し気配を探った。


「うむ。ここまで来ればもう良いだろう……」


 彼女は短く言葉を吐いた。そして、安堵の息をついた。だがその時。


「やれやれ、あまりに速うて危うく見失うところじゃったわい」


 後方から唐突にしわがれ声が湧いて出た。

 一瞬にして背筋が凍った。このようなことは起こりえないと心は否定をする。

 確かに何者の姿も見えなかったはず。いやなんの気配もなかった。なのに何故、何が起こったと頭は混乱するばかりであった。彼女は、突然現れた者に易々と後ろを取られていた。


「この私の後ろを取るか。何やつだ」


 強く言葉で牽制する。

 思考を素早く回転させた。後ろには確かに何もいなかったはずである。

 油断などかかった。跡をつけられたということも無いと言い切れた。それなのに声の主は自分の後ろに悠々としてある。


 彼女を侮ることの出来る者などそうそういない。我が身がそれ程の力を有していることは今更自身に問うまでもない。であれば、今、後方に現れた者は桁外れの者だということになる。ごく僅かも気を抜くことなど出来ない。


「お前、名はなんという?」


 名を訪ねてくる声は、彼女の耳に柔らかく響いてきていた。だからといって気を許してはならない。彼女は不快を面に出しながら、くねらせるようにして体をゆっくりと声の方へ向けた。静かで慎重な動きだった。しかし、極度の緊張からか彼女の二本の尾は自分の意に反して逆立ったままだった。


「修験者か。なに用だ」


 精一杯に気勢を放って威圧を仕掛けた。しかし、男はそれをどこ吹く風と涼やかなか顔をして受け止める。


「まあまあ急くな、どうか心を静めてはくれまいかの。いやなに、こちらはお前と争うつもりはないのじゃがの」

「ふん。どうだかな。後ろから不意を突いてくるやつなど信用ならぬ。しかもこの私に名を訪ねてくるとは不敬極まりない所業――」

「それはまあ、言われてみればその通りであるの。名を尋ねたは確認のためであった。相済まぬ事をしてしまった」


 男は両の手をへその辺りで重ねると恭しげに頭を下げた。だが、深々とかぶった菅笠すげがさの下から覗かせる鋭い眼光を、彼女は見逃さなかった。


「この私に何の用だ」


 彼女はもう一度男に聞いた。


「用か……。用のう……それはほれ、言わずもがなといったところであるかの」

「だろうな。人間が、それも老いぼれた男が私を欲するとは思えぬでな」

「ほほほ。まあな、この年になればもう色事などは無縁であるからの。それに、今のお前の姿は獣。いくらなんでもな。かの静御前しずかごぜんをも凌ぐといわれ、天下に並ぶものなしといわれた美貌を見せられたならば、あるいは枯れ木に花が咲くやもしれぬがの。ほほ」


 男は調子よくおどけて白い顎ひげをしごいた。


「知らぬな。静御前など知らぬ。それに、人間が私を見て賛することになどにも興味は無い。見てくれなど、人間を利用するに為に便利であるだけだ」

とがっておるのぉ」

「なに」

「お前は人間が嫌いになったのか」

「フン、戯れ言であるな。人間など便利な道具でしかない」

「にしては、その胸の内に後生大事に抱いておるではないか」

「やはり。やはりこれが狙いか。しかし渡さぬぞ」


 合点がいった。思った通りであった。この男はようやく手に入れることが出来た大事な者を奪いに来た者だった。

 思い至れば行動は速い。彼女は直ぐさま男に飛びかかった。先ほどは思わぬ油断をして後ろを取られてしまったが、今度はそうはいかぬと爪を立て渾身の力を持って男を切り裂こうとした。

 しかし、必殺の一撃の前に風前の灯火であるはずの男は柔和な笑みを浮かべたままで些かも動じなかった。揺るがぬ男。その者の笑みを見て、彼女の脳裏に疑義が生まれる。戸惑いを心に生じさせると、意図せず殺気が緩んでしまった。


「なに!」


 彼女の爪が男を捉えようとした刹那、二人の間に強烈な閃光が発する。気がつけば彼女の爪は男が取り出した太刀の鞘に受け止められていた。青い光を放つ鞘からは清浄な水気が漏れ出していた。


「ほほほ。残念であったの、桔梗ききょう御前ごぜんよ」


 彼女の力を軽々と受け止めて男は破顔した。


「そうか、お前、私を桔梗と呼ぶか……。おのれ人間。やはりはなからたばかっておったか。それにその太刀……」

「ほほほ。急くなといったであろう、桔梗御前よ」


 男の言葉と同時に太刀から覇気が放たれると、桔梗はやむなく後ろに飛びすさった。


「随分と大仰な物を持ってきているではないか」


 桔梗が訪ねると男は太刀を顔の前まで持ち上げてニヤと笑みをこぼす。


「いやなに、これは護身用に持たされた借り物での。であるからして正直を言うとの、わしには扱えぬ代物なのじゃ」


 男は太刀にチラと視線を落としたあと白い歯を見せる。その後、頭を掻きながら恥じ入った。


「太刀の覇気を見せておきながら戯れるのか」

「確かに覇気はこの太刀の力。しかしながらこの太刀のあるじはわしではない。わしにこの太刀には扱えぬ。じゃからこの太刀の破魔の力を持ってお前を討つ事などできぬと言うておるのじゃ」

「……」

「はじめから申しておるではないかお前と争うつもりはないと。急くなと。……やれやれ、仕方の無いやつじゃ」

「……」

「さてと話を進めるか。もう察しておるようじゃの。そうじゃ、お前の思うようにわしはお前が抱えておる魂魄こんぱくの欠片に用がある」

「これは渡さぬ」

「じゃろうな。お前がそれを大事にしておることは承知をしておる。しかしの桔梗御前よ。それは六つに分けられたものの一つでしかない。しかもけがれにまみれておるときた。そのようなものを一生抱えて生きてゆくことは出来ぬぞ。早々に手放す方が賢明じゃと、わしは思うのだがの。その魂魄に掛けられたじゅは強力じゃ。いかにあやかしからせんに昇華した希少種のお前でも耐えきることなど出来ぬぞ。悪いことは言わぬ。それはお前という存在を蝕み破滅へと誘う。じゃから――」

「黙れ人間! 大きなお世話だ」

「聞き分けてはくれぬか、桔梗御前」

「出来ぬ」

「どうしてもか」

「くどい!」


 大声で拒絶を伝え、桔梗は再び臨戦態勢に入った。男を前面に捉え、うなり声で威嚇しながら前傾姿勢になる。後ろ足には次こそはと必中の為の力を込めた。

 しかし、彼女の本気を目の当たりにしても男は苦笑を浮かべたままで動かなかった。


「構えぬとて容赦はせぬぞ」


 桔梗は気勢に殺気を込めて最後を知らせた。


「やれやれ、困った娘さんじゃの。落ち着け。人の話は最後まで聞くものじゃ」

「能書きなどくだらぬ。さっさと忌んでもらおう。なに、この私の一撃だ。苦しませるような下手はないゆえ安心するがいい。いくぞ」


 言い放って桔梗は前へと飛んだ。それでも男は目を細めて呆れ顔をしたままだった。


「今宵ここで、大峰おおみね兼五郎けんごろう義親よしちかに会わせてやるというてもわしを討つというか」


 男は仕方がないといった具合に眉を一度上げてから呟いた。その呟きが思いのほか小さき声故に、桔梗の耳は尚更に男の言葉を捉えてしまった。

 そして桔梗の爪は再び男の目前で止められてしまった。


「桔梗御前よ。わしは今、ここに大峰兼五郎義親の魂魄のうち残りの五つを持ち合わせておる」

「……」

「少しばかり話をしようではないか」

「……」


 桔梗は沈黙した。その様子を了承であると見たのだろう。男は小さく頷いた。


「ではよいかの。桔梗よ、まず己の今の姿を見てみよ」


 男に言われて、また戯れ言かと思いながら桔梗は自身を見回した。


「な、なんだこれは!」


 驚きとともに桔梗が見たものは、白銀の体毛の所々に浮き出たいた黒いシミのようなものであった。


「それが穢れじゃよ」

「穢れ……」

「そうじゃ。お前は、お前が胸に抱いておる穢れに犯され始めておるのだよ」

「まだ世迷い言を言うのか! この私を、仙たるこの私を穢せる物など――」

「あるのじゃよ。それに施されている呪は、残念じゃがお前にはどうすることも出来ぬ」

「見くびるなよおきな黒鬼くろおにごときの呪など然程のこともないわ」


 いって桔梗は己が身に纏わり付く邪気を払おうとした。

 己の内に抱く魂魄と向き合いそれを降伏せんとした。しかし桔梗には出来なかった。汚れを帯びた魂魄、その魂魄が見せる姿を目にすれば、どうしても意気をあげられなかった。

 そして桔梗は為す術もなく脱力をする。


「わしは何もかもを知っておるのじゃよ、桔梗御前。それは元はお前が慕う男の魂魄。出来るか桔梗、お前に」


 男の言葉は心の片隅の方で聞こえていたが、桔梗は問いかけには答えなかった。そんな桔梗に構わず男は言葉を続ける。


「もっとも、今はもうそやつは大峰兼五郎義親ではない。姿形はそう見えていても全く別物といってよい。そのようなことはお前にも分かっておるだろう。それでも出来ぬであろう。お前に、その男は斬れぬであろう」

「……」

「桔梗御前よ、お前が内に抱く魂魄、直ぐにでも吐き出さねば手遅れになる。手遅れになってお前が穢れにまみれ悪に転じれば、世にも凶悪な化け物を解き放つことになる。わしはそれを止めに来た」

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