3章 右方の獅子、左方の狼

第25話 漂う不穏

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「ほう、これが眠れるもりへの門か。このようなところにあったとはな」

 いって仙里は顎を撫でた。


 そこは山間やまあいを分け入った深い緑の中だった。目にしているのは石造りの小さなほこら。それは雑木に囲われた一角で草木に埋もれるようにして三角の屋根だけを覗かせていた。

 その祠の手前で、こちらに背を向け歯がみをしているのはあの幼き狼。風にそよぐ青銀の体毛は、その種の中でも特に誇り高き者のみが纏うものだと聞いている。

 真神まがみ真子まこ。仙里が見ているその獣は眠れる杜の後嗣である。


「よもや、つけられていたとは……」

 真子が言う。口では平静を装ってはいるが、気を押さえ焦りを隠していることが容易に見て取れた。


「別に、難しいことではなかったですよ。だからといって己を責め、その矜持を傷つけることはありません。それは、私が並ではないということ、それだけのことです」

「このような所にまでやって来て、なにかご用でも?」

 真子は振り向き、顔を引きつらせて微笑んだ。


「別に?」

「べ、別にって、また馬鹿にしているのですか!」

「いや、その様なことはない」

 仙里は一直線に切り揃えられた前髪をサッと掻き上げ、視線を空へと投げた。


「ふざけないでください!」

「ふざけてなど――」

「ふざけているではありませんか! その態度は、その口ぶりは、何がそんな――」

「あなたの行いよりは、ふざけてはおりませんがね。はて?」

 真子の言葉を遮る。薄笑みを浮かべた仙里は目を細めて真子を責めた。


「……」

 仙里の視線を受けた真子が眉根を寄せて口ごもる。


「戯れ事にしては、度を超している。と、まずは言っておきましょうか」

「戯れ事? ……」

「昨夜のことですよ。しかし解せない」

「解せない? 解せないとは」

「あなたはどうしたいのだ? あいつを殺したいのか、殺したくないのか。すぐに殺さないのは何か手間が必要なのか?」

「……何を、言っているのですか」

「今更ですよ、姫さま。人身御供にしたいのでしょ? あの蒼樹ハルを」

 仙里は悪戯心を言葉に乗せ、軽い調子で尋ねた。途端に真子はその身を固くした。


「……そういえば、以前にもそのようなことを仄めかしていましたね。仙狸せんりよ、あなたはどこまで知っているのですか」

「どこまでって言われてもね。まあ、何も知らないといった方がいいでしょうね。ただし、あなたが、違うと知っていてなお、あの蒼樹ハルを『雨の陰陽師』だとうそぶいていることは知っている。そしてあいつをにえにしようとしていることもね」

「そう、ですか……。流石は『御霊みたま集め』といったところですね」

「ほほう。私のことを知っているとは」

「今はこれでも、私は『雨の左方』に連なる者。右方にある黒鬼の御霊を鎮めるお役のことなど存じています」

「ふ、ふふふっ」

「な、何が可笑しいのですか!」

「あ、いや失礼。見方が違えばこうにもなるかと思いましてね。黒鬼の御霊か、それを鎮める役ねぇ……」

 仙里は、額に手を当てて下を向き笑いを堪えた。


「あなたは……あなたって……」

「いや、申し訳ない。別に姫様の物言いが可笑しかったのではないのですよ。いやなに、私が何かの役に立つために働いているのだと、そう思われていること自体が滑稽でしてね」

「ち、違うのですか?」

「まあ良いではないですか。それも一興。私は私の思うままにそれを行っているだけなのですよ。ただそれだけです」

「仙狸よ、あなた……」

「私のことはいいでしょう。それよりも、あなたのことです」

「私のこと?」

「聞かせてもらいたい。あなたが何故この一件に関わっているのか、どうして蒼樹ハルを直ぐに殺してしまわないのかを」

 顔を上げた仙里は、そのまま一直線に真子を見た。仙里の身体から僅かに漏れ出た気の発散をうけ周囲の木々や野草が揺れる。視線を受けた真子は僅かにたじろぎ後退った。


「ハル様のことは……あの方は……」

「フン、何を迷うことがあるのです? 己が真名を偽ってでも贄にしよとしているのでしょう」

「な、あなた!」

「余程の事情があるのだと聞いています。もっとも、それが何なのかは知らない。そして興味も無いのですがね」

「……私は、一刻も早く見つけ出さねばならないのです」

「『雨の陰陽師』を、ですか」

 仙里が尋ねると、真子は悲しげに小さく頷いた。


「それは、無理というものでしょう。何故なら、この世にはもう、雨を探し出せる者がいないからです」

「……そのことも、知っていたのですか」

 真子が呟くように言った。まるで捨てられた子犬のように弱々しい。その姿に、もはや真神を治める一族の威厳などは見えなかった。


「それでも……雨様はいる。きっとこの世の何処かに存在しているのです。たとえ雨喚びの巫女が死んでいたとしても、その巫女が存在した事実があるならば、雨様は未だ喚ばれていないだけで、その資質を持つ者がきっと存在している。そして」

「そして?」

「私は教えられた……私は教えられたのです。約束したのです。あの者と」

「あの者? 約束?」

「誰かは分かりません。でもあの者は慈雨のように優しかった。聞き知っていた雨様そのもののように思えた。……あの者は違うと否定されていたけれど、それでもあの者は微かに雨様の匂いを纏っていた」

「ほう、これは面白い話だ。だがそれならば、何故にあの蒼樹ハルを雨様などと呼ぶのです? あなたは雨に通じる手がかりを得ている。にもかかわらず偽物と知っていてあいつを雨と呼んだ」

「私は出会った。そしてあの者に教えられた時を計って教えられた場所へと向かった。あの場所は、あの学校はあの者との約束の地。私に名を付けたあの者との、それは約束だった」


 真子の言葉を受け、仙里はあの夜のことを思い出した。犬神と真神の争い。そこに無謀にも蒼樹ハルが首を突っ込み、そして赤鬼の女が現れた。それはそれぞれ事情を抱える者の因果が結びついた夜だった。


「……あそこに、『雨』に連なる者がいたというのか……だが……」

 仙里は首を傾げる。


「あの者は言ったのです。『そこで君は出会う。僕は確かに雨様ではないが、きっと雨様に会わせてあげるから』と」

「だが、待ち人は来ず、現れたのがあの蒼樹ハルだった。そういうことか」

「……はい」

「やれやれ、とんだペテンに騙されたものだな」

「……」

「しかし、だからといって何故にあいつを殺そうとしているんだ?」

「もう時間が無いのです」

「時間が無い?」

「このままでは雨様が、消える」

「雨が消える?」

「そして里が消えてしまう。私達の存在が消えてしまう。父も、母も、里の皆も……」

「はて? 神が消えるとは可笑しな事を言いますね」

 

 神の命に限りなどない。そこに確たる存在があるだけである。仮に一時的に受肉した有様が失われたとしても消滅などしない。だから神に死などはあり得ない。


「私達は、雨様の左方に属しています。真神であって真神ではない。その実は既に雨の眷属としてのみ存在している。従ってその属性故に、主たるものとの縁が切れればその存在は失われる。雨様の存在が消えれば私達も消える。これは道理なのです」

「おかしなことだ。そのようなことが起こるはずなど――」


「数年前に、私達の里は犬神の襲撃を受けた」

「……」

「その襲撃の際に、神器じんぎである雲華うんか水鏡すいきょうを奪われてしまった。幸いにしてその核となる青の御玉みたまは奪われずに済んだのですが、鏡は未だ取り戻すことが叶っていない」

「その神器が失われたとて、存在が消えるまでにはならないでしょう。あなた方は神なのですから」

「たしかに雲華の水鏡が失せたとて、雨様との縁が切れるわけではない。現に、神器の核である御玉があれば、雨様を探す事が出来る。でも、その御玉も今はもうその全ての力を失わせてしまった……」


 ――なるほど、あれがただの石ころにしか見えなかったのにはそういう訳が……だがしかし……それならば、あれは……

 仙里は、以前に雨の御玉が僅かに輝きを見せていたことを思い出した。


「御玉にはもう力が残されていない。だから御玉を頼りに雨の陰陽師を探すことなど出来ない」

雨恋あまごい』その儀式は、もとより雨喚びの巫女の技で行われる。その儀式で雨喚びの巫女は雲華の水鏡を使って雨を探す。そう聞き及んでいる。あの雨喚びの巫女でさえ神器を頼りにそれを行うというのに、神器だけを頼りに、巫女以外の者が雨探しをするなど正気の者のすることでは無い。それは億の砂から一の粒を見つけるのに等しいだろう。いや、それ以上か。


「……いまも何処かにあるはずの雨様のうつわが消えれば、誕生するはずだった存在が消えれば、雨の号自体が消滅する。雨様が消滅すれば私達もまた、消える」

「雨の器?」

「雨とは、実は『諡号しごう』なのです」

「諡号?」

「そうです。雨とは、天啓によってその資格を与えられた者が、死した後に、それを讃えられて送られる諡号」

「諡号か……なるほど。雨の出現が、再誕とか再来というものでないということは確かなことのようだ」

「時間が、無いのです……」

 真子は、項垂れたまま、その小さな肩を落とし細い息を吐いた。


「そこまで落胆するならば、なぜ蒼樹ハルを殺さないのですか。必要なのでしょう、雨を探すためにあいつの命が。それなのに何故、昨夜のようにまどろっこしい真似を? あなたは何故、あのような形であいつの命を欲しがったのです?」

「昨夜?」

 真子は首を傾げる。その様子に仙里は溜め息をついた。


「もうよしましょう。端的に聞きます。あなたは何故にあいつを狙ったのですか」

「あの方は……。ハル様は、あの真菰まこも様の血縁の者と聞きました」

 いって真子は、ぼんやりとした眼で覗うように見てきた。


「あ、ああ」

「やはり、知っておいででしたか」

「まあね。しかし、あいつが雨喚びの血縁者であるからといって、それがどうして」

「ハル様の血と魂を、青の御霊に吸わせれば、一時的にでも力を戻すことが出来ると聞きました」

「ほほう」

「でも、私には出来なかった。その事の理由を問われても、それは答えることが出来ません。私にも、それが何故なのか分からないのです……」

「だがそれで、諦めた、と。そうは見えないのですけどね」

「……はい」

 真子が何故このような戸惑いを見せるのか。本人が分からないというのだから、仙里に分かるべくもない。ただ、蒼樹ハルの何かが、この小さな真神に何らかの期待を抱かせているのだろうということは分かった。その心情には僅かであるが共感できた。自分の中にも、万が一にもという淡い思いはある。だがそれは僅かな望みといい換えても良いほどのものだった。


「まぁいいでしょう。それはそれとして、私には他にも聞かねばならないことがある。それは、あなたが今回のこの一件にどう関わっているのかということです」

「……この一件?」

「そうです。これは私の事情だが、わたしが追っているこの件に、あなたはことごとく介入している。私には、あなたが蒼樹ハルをけしかけているように思えている」

「嗾ける?」

「あなたは、化け物を夢見に誘った。そしてそこで、あの女に蒼樹ハルの存在を知らせ殺させようとした」

「ちょ、ちょっと待ってください。私は――」

「しらを切りますか」

「私には、何のことだか」

「ほう。しかし無駄ですよ。嘘は直ぐにバレます。今この辺りに、あのようなことが出来る者などいないのですからね。それでも否というのならば、私は力ずくでもあなたの口を割らねばならない」

 仙里は、厳しく真子を問いただした。それに対して真子は、真っ直ぐに仙里の目を見返してくる。その目には強い意思が浮かんでいた。


「私は、昨夜ハル様に起こった出来事を知りませんし、関与しておりません」

「それはおかしい。あたなたは常、蒼樹ハルの影に遁甲をしている。知らないはずが無い」

「確かに、私はハル様の影におります。ただそれは……」

「それは?」

「私は、私にはもう力がない……。水郷の里が封じられたのと同時に、その力のほとんどを封じられてしまっているのです。私には、もはや獣ほどの力しかない……」

 真子は、ガクリと首を下げて嘆いた。

 それにしてもこれはどういうことなのか。あの水郷の里を里ごと封じることなど出来るものなのか。雨の陰陽師ゆかりの神器が失われたとて、あそこは真神が集う神の里である。それは並大抵のことではない。同列の狛神こまがみとてそのようなことは出来ないだろう。ならばそこに、いったいどんなカラクリがあるのか。

 

「昨夜のことは、本当にあなたの仕業では無いと?」

「はい。それは真神の名に誓ってそう申し上げましょう」

 どうやら、嘘は言っていないようだと思う。


 ――ならばあれは? 誰が? よもやあいつ自身が求めた。ということなのか? ……いやまさか……。


「仙狸よ、私はハル様の影の中にて眠りについております。そしてその庇護を受けています」

「庇護?」

「あの夜、犬神の追っ手に襲われた私は、力を使い果たした私は……いつ消滅してもおかしくないところまで追い詰められていた……。しかし、その時にハル様が駆けつけてくれた。私はあの時、ハル様の中に温かく大きな力があることを感じていた。だから戦いの後、その中に避難をしたのです」

「つまりは、常は眠っておられるので、易々とは動けないと?」

「口惜しいことではありますが……」

「それを私に信じろと?」

「そうして頂くより他はありません。これは証明のしようも無いこと。確かに、少しずつ動けるようにはなってきました。でもそれは、本来の力を取り戻しているということであはりません。今もこうして動けているのは、ハル様から受ける恩恵のおかげなのです。だから、今の私にそのようなことを施せる呪力など無い」

「恩恵……」

「あなたにも感じられているのではありませんか。ハル様の力の片鱗を」

「……」

 仙里は口を結んで目を閉じた。蒼樹ハルの力について、思うところはある。確かに、稀に驚かされるようなことはあった。だがそれでも、それを大きな力と言ってしまうには不詳もある。


「わかりました。取りあえずはそういうことで了承いたしましょう」

「ありがとうございます」

 真子は、コクリと頭を下げた。雨の左方、真神の姫にして後嗣である者がこうも頭を下げる。その礼節を矜持とみて仙里は真子の言葉を飲んだ。


「姫よ、最後に一つだけよろしいか?」

「なにか?」

「何故に、犬神と争っておられたのか? いや、水郷の里の一件は聞いた。鏡のことも承知している。私が聞きたいのはその件ではなく。あの夜に何故にあの場所で犬神と争っていたのかということです」


 どうやら、真神と犬神の一件は、自分の事情とは無関係のようである。しかし解せないことがある。仙里は疑念を抱いていた。

 以前、蒼樹ハルが「僕を殺すために嵌めたのか?」と尋ねてきたことがあった。

 あの夜、ハルが後を追って来ていることには気付いていた。だが、誘ったつもりなど毛頭なかった。むしろ雨の匂いに引き寄せられていたのは仙里の方だった。

 この一連のこと全てを宿命だったのだ。と言ってしまえばそれは簡単なことである。


 ――だが、このような偶然などあるものなのか。果たしてこのようなことが起こりえるのか……。

 これまで、雨の存在などまやかしであると思ってきた。八百有余年を費やしてきたその年月を思えば、ここで事態が大きく変化し始めたことが、あまりに簡単過ぎるように思えてくる。


 ――何故だ? 何故動く……ありえない。神の悪戯とでもいうのか……。

 神を思い浮かべて仙里は失笑を零した。だがその時、不意に昔のことを思い出した。

 それは、遠い遠い昔に起こった戦の記憶。大峰兼五郎義親が命を落としたあの戦のことだった。


「右方の黒鬼、左方の赤鬼か……。馬鹿な、何故今になって……あの時から何百年経ったと。あり得ない。だがあの戦……」

 言いながら、仙里はきな臭い気配を肌に感じていた。




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