第24話 悪夢の中の少女

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 ――酷く寝苦しい。体が動かなかった。これが俗にいう“金縛り”というやつなのか。

 ハルは微睡まどろみの中で四肢を強張らせていた。しかしそこに恐怖は無かった。幽霊を思う時、失った家族に会いたいと思ってしまうのだが、それは叶わぬことだった。家族に会うことが出来ないという事実は、自分に悲しみしかもたらせない。だから幽霊など信じていなかった。


 狂気を持った日本人形の襲撃。命の危機を脱したのはつい数時間前のことだった。

 この時、円香まどかの事件からも二週間程が過ぎていた。うんざりしていた。

 いい加減に休ませてくれよと溜め息をついたハルは、再び夢寐むびに意識を沈めた。


 ――まったく……。なんだよ。結局は目が覚めちゃったのか……。

 肩を落とし落ち込んでいる自分に気付いた。なんで自分は起き上がっていたのだろうと首を傾げるのだが、そんな自身を見てまた驚く。いつの間にか制服姿になっていた。


 ――なんだ、なんだよ……。まったくもう、どうなってるんだ?


 重苦しい空気が身体を包み込んでいた。見果てぬその空間は仄暗く、灰色に濁った水面みなもが辺り一面に続く。周囲には黒い霧のようなものが立ち込めていた。

 いったい何なのか、ここはどこなのかと、その淀みに腰まで浸かって狼狽する。

 捕らえられているという感覚。とりあえず上半身の自由は利いたが下半身は酷く重い。まるで足の裏が地面に吸い付けられているようだった。


 フン! と息巻いて陸上選手のように腕を大きく振ってみた。

 だが、いくら力んでみてもその場から動くことは出来なかった。

 そこで悔しさを覚えて意地になった。先ほどよりも気合いを入れて腕を振ると顔がカッと熱くなった。


 ――フン! フン! フン!

 最後にありったけの負けん気をぶち込んで叫ぼうとしたその時、ふうっと足の縛りが解ける。途端にバランスを失うと、つんのめった身体が頭から灰色の淀みに飲み込まれた。

 ジタバタしながら慌てて体を引き起こす。危ない所だったと思いながら手で顔を拭った。――驚いた。顔が濡れていない。それどころか身に付けている衣服もまったく濡れてはいなかった。


 ――まったく、なんなんだよ、これは……。

 首を傾げながら、その淀みを掬い上げてみたがやはり手は濡れなかった。

 そこでもう一度辺りを見わたした。下半身には、まだ少し重みを感じていたが動くことは出来るようになっていた。それならばと思う。とにかくこの状況を何とかしなくてはいけない。

 黒い霧の向こう側へと目を凝らし、注意深く状況を探りながら歩いた。そうしながらどれくらい進んだだろうか。そろそろ不味いのではないかと思い始めた時だった。


 ――誰かいるのか……。

 前方に人の気配を感じたハルは、その気配のする方へと向かった。

 無警戒に過ぎるという認識はあったが、こんな素っ頓狂な出来事など、どうせ現実ではないと思っていた。ならば夢だと決め込むほうが話は早い。最悪でも、命までは取られないだろうと安易に結論づけていた。


 ――あれは……。女の人? 若い女? 女の子かな?

 立ち止まったその場で棒のようになって眺める。彼女の着ているものが制服のようなものであることに気付いたハルは少女に声を掛けようとしたのだが。


 ――またか……。

 声が出ない事には覚えがあった。初めて仙里と出会った時がそうだった。


 ――ラブストーリーの主人公が、二度も同じ愚を犯すことなど許されない!

 諦めることなど出来なかった。目の前にいるのは少女である。これはもしかすると出会いではないのか。と、そんなことを考えていた。

 淡い予感を抱かせる少女を目の前にして、金魚のように口をパクパクさせているだけとは情けないこと極まりない。それが二度目らな尚更のことだ。


 いや違う。これは好機。たとえ夢の中であったとしも、このようなドラマティックな出会いなど他にはあるまい。後ろ姿しか見えないことにもどかしさはあったが、ときめく直観が教えてくれていた。彼女はきっと自分好みの美少女に違いない。

 

 チャンス到来。逃す手はない。一頻ひとしきり腹に気合いを溜め、あれやこれやを想像する。気力は既に最高潮まで高まっていた。だが、声が出される間際にハルは後頭部に衝撃を受け、そのまま淀みへと突っ込むことになってしまった。


 ――まったく、なんなんだよ今度は……誰だよ……

 淀みから顔を出し、音にならない言葉を吐く。

 背筋を伸ばして周囲を見回すが、周囲には何者の気配も無かった。


『ごめんなさい。私には……止められない』

 不意に少女の声を耳が拾った。その言葉の意味までは分からなかったのだが、その後ろ姿は酷く悲しんでいるように見えていた。目の前で少女が悲嘆に暮れている。ならば力になるより他はない。再度意気を上げ、なんとか少女の肩へと手が届きそうな距離へと迫ったがしかし。


「まったくお前というやつは……。ここまで馬鹿であるとは、よもや思わなかったぞ……」

 溜め息交じりの声がハルに刺さる。仙里の呆れ声を耳にした。


「ば、馬鹿って! あ、声が出た」

「よく考えてから動けと言ったはずだがな。それはつい先ほどのことだったのだがな。しかしお前は、このようにしてまた呆けたままで関わろうとする。余程命が要らないらしい」

「へ? 命? あ、あの……仙里様? 一体何のことを言っているのでしょうか?」

「忘れたか?」

「何を? でしょう……」

「……」

「仙里様?」

「闇雲にあやかしと関わるな。と言ったことだ。それを忘れたのかと聞いているのだ」

「あ、ああ、そのことかぁ。でもこれって夢ですよね? 夢なら覚めちゃえば終わりなんじゃ……。それを命懸けって、仙里様の方こそ大袈裟なのでは? いやだなぁもう、仙里様もおかしなことを――」

「やれやれ……このようなまがまが々しい気にあててられても臆することがないのは大したものだと思ったのだが、単純に気が付いてないだけだとは。存外に呆れた奴だ」

「禍々しい? 気ですか……。はあ……」


 ハルは首を傾げた。仙里の言う「気」というものがさっぱりと分からない。それでとりあえず、その「気」というものを確かめる為に深呼吸をしてみた。


「おい、何をやっておるのだ?」

「あ、いえいえ。『気』っていうのが何なのかなぁって」

 いってハルは、もう一度、注意深く胸を張って深く息を吸い込む。


「うーん。微かだけど、どこか甘い匂いがするようなしないような……。しかもこの匂い……。以前もどこかで……」

 気付いたことはそれだけで他には何も思いつかない。


「お前は……」

 仙理は、真っすぐに切り揃えられた前髪を搔き上げるようにして上を向いていた。

 口は半分開いていた。どうやら気抜けしているようだった。


「か、可愛い」

 感激する気持ちが言葉となって口から漏れる。


「なんだ、どうした?」

「あ、いえ、いえいえ」

「まったくおかしな奴だ。しかしまぁいい。もう分かっただろう。ならば帰るぞ」

「帰る?」

「ここから出るという事だ。このようなところに長居しても無意味だろう。所詮、お前には何をどうすることも出来ないのだからな。それに、ここの気は『おん』で満ちている。今はどうということもないようだが、お前ひとりでは呪いに絡め捕られるのが落ちだ」

「呪い……」

「さあ、もう良いでだろう。行くぞ」

「でも仙里様、あ、あの……」

 前を行く仙里に声を掛け、もう少しここを調べてみたいと言おうとしたのだが。


『――けて、下さい……。誰か……私を助けて……』

 声がハルを引きとめた。


「仙里様! こ、これは!」

 ハルは振り返った。少女の周囲で炎のように光る何かが揺らいでいるのが見えた。その様子を見て、矢も楯もたまらず走り出す。


「お、おい! お前!」

 呼び止めようとする仙里の声を置き去りにする。

 淀んだ水の中で動きにくさはあったが、構わずに水を蹴り上げ、もう少し、あと少しと近づいて行った。


「それまでだ! それ以上進むな!」

 仙里の強い声がハルを止めた。


「だって、女の子が、女の子が、あんなに苦しんで……」

「捨て置け。これ以上はお前が危ない」

「でも、仙里様……」

「行ってどうする? 近付いて、それでお前はそこで何をするんだ?」

「何をって、助けなきゃ――」

「助ける? お前がか? どうやって?」

「ど、どうって……」

「フン! 考えも無しとは笑止千万だな」

 仙里は鼻で笑って冷えた目を向けてきた。


「そもそも、お前はあれが何なのか知るまい。知りもせぬくせに大きなことだけをほざく」

「でも、でも、あんなに苦しんで……」

「だから大バカ者だといっておる。見目が苦しむ姿をしているからと言って、どうしてその者が苦しんでいると分かるのだ? それが人を喰う為の演技でないと何故言い切れる」

「助けてって……助けてって言ってたじゃないか」

「ほほう。助けてくれと言われれば、お前はどのようなものでも助けにいくと? たとえその者がお前を喰らおうとしていても近寄っていくというのか?」

「……」

「頭を冷やせ。真実を見極めろ。どうやらお前には、彼の者が見えているようだ。ならばもっと凝視をしろ。注視するのだ。本質を見極めろ」

「本質……」


 仙里に言われ、ハルは人影に目を向けた。

 相変わらず、人影はゆらりと揺れる光の中にいる。その姿は……。

 じっと見つめているとその人影の様子が頭の中に浮かんできた。

 それはやはり少女の姿をしていた。地面にへたり込み、両手で顔を隠すようにして塞ぎ込んでいるようだった。肩が震えている。泣いているのだろう。

 だが果たしてこれが人を喰う為の演技なのだろうか……。

 ハルには少女が確かに憂いているように見えていた。仙里は命の危険があると言っているがしかし……。


「仙里様、僕にはどうしても、あれが危険なものには思えないよ……」

 

『誰? 誰かいるの?』

 見ている先で華奢な肩がピクリと動いた。その後、顔を覆っていた手を下ろし、ゆっくりと振り返る。


「チッ! 気付かれたか」

「舌打ち? それに気付かれたって……」

 何のことだと思いながらハルは仙里の顔を覗き込んだ。その厳しい視線は、目の前のハルを通過させるようにして威嚇をしていた。


「よく見てみろ」

「……な、なんだよあれ! 鬼? まさか鬼なの?」

 そこにいたのは、鬼だった。頭蓋骨に深く沈んだまなこ。爬虫類を思わせるその目はギラリと鈍い光を見せていた。ニタリと笑う口は閉じていたが、裂けるほどに大きい。そして頭には瘤のように突き出したものが二つあった。


「そう言えばあの時、あの鬼からも同じよな匂いが……。そうか、そうだったのか」

「フン、今更動じるか。仕方のない奴だ。よく見るがいいあれが奴の真の姿だ」

「真の……。で、でもあれはいったい」

「あれは、『生成なまなり』というものだ」

「ナマナリ……」

「人の女が、嫉妬や憎しみを抱いた末に鬼へと変化へんげする過程をいう」

「鬼への変化……」

「そうだ、変化だ。そして生成りは、いずれは般若はんにゃとなり、その中でも更に業深いものは真蛇しんじゃと化す。もっとも、真蛇などめったにお目にかかるものでは無いがな。この私とて八百年を生きてきて僅か一、二度見たかどうか」

「は、八百年! せ、せ、せ、仙里様ってそんなに歳を取ってるんですか!」

「おいおい、何をおかしなことを、私は『仙』である。そのようなこと取り立てて騒ぐほどの事でもなかろうに。それにこのことは既に言ったはずで――」

「八百年、八百歳、八百歳、八百歳……。とすれば、僕との歳の差は……」

「おい、何を呆けておる」

「あ、あの……。それで、結局、仙里様は八百何歳なのでしょう?」

「はあ?」

「あ、ああ、いや、その、仙里様と僕の歳の差って何歳なのかなぁって」

「こ、このたわけ者め! まったく何を呆けておるのだ! 今はそれどころではないだろ! お前、奴が恐ろしくはないのか? 既に気付かれておるのだぞ」

「あ、ああ、奴。うーん……。そうですね。そんなに恐ろしいって感じは無いですね」

「駄目だこいつ。駄目だ……」

 言って仙里様は両手で頭を抱えていた。


「う、うわあああ!」

 ハルは不意に体を引っ張られた。その力に抗う事が出来きず生成りの方へと吸い寄せられていく。それは、あっという間の出来事であった。気付けば、地に座り込み、見上げるようにして見てくる鬼の正面に立って見下ろしていた。


『助けて……』

「うん。分かった。僕が助けるよ」

『私には止められない……あの人を人殺しにしたくないの』

「……あの人?」

『うっ、ううう……』

 鬼の少女が突然胸を押さえて苦しみ始める。


「だ、大丈夫か! どうした! おい!」

『くっ、くくっ、くかかかかか!』

 肩を震わせながら含み笑った鬼は、空を掴むように手を上げて天を仰いだ。


「お、おい、君!」

『死ねばいい、皆、死んでしまえばいい。殺す。全部、全部、殺してやる』

 嬉々として笑う鬼が両手が、ハルの両腕を掴んだ。


「痛っ!」掴まれた瞬間に腕から全身に激痛が走る。だがそこでハルは光に包まれた。


 ――ふんぎゃっ!

 

 情けない声を出していた。布団の上から鳩尾を押さえる。身に受けた衝撃がハルを現実に引き戻していた。なんだよと思いながら、ハルは瞼を開いた。するとすぐ目の前に猫の顔があった。


「おはよう、仙里様、今朝のご機嫌は如何でございますか?」

 いうと仙里はフンと横を向いてから、そそくさと胸から降りて部屋を出ていった。

 腕には痛みが残っていた。その場所を見るとくっきりと鬼の手形が残っていた。

 その痕跡を見ながら夢の中で会った少女のことを思う。


「止められない。って言ってたよな……。でもあれは何だ? 仙里様は確か、ナマナリとかなんとかって……」

 鬼へと変化していた者の正体が誰なのか。彼女はいったい何を止めたいと願っていたのか。そして、何故あのような夢を見たのか。


「僕は……。そうか、僕は呼ばれたのか……」


 宮本円香を救う。桐山華蓮を救う。玉置訪花も救わねばならない。そしてきっと、夢の中で出会ったあの少女のことも救わなければならないのだろう。

 ハルは、生成と呼ばれた鬼の少女のことを記憶として心に刻んだ。






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