第11話 黄昏時の希望
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宵闇のあぜ道で蛙の合唱を聴く。街から外れ、田畑が広がるここまで来れば人の気配などは薄くなる。
電柱や舗装された道路などの人工物に気を留めなければ、目にしているその風景は、昔日の佇まいから然程の代わりもないようにも思えてくる。
山裾へと向かう一本道の上を、白銀の長い髪をふわりふらりと揺らしながら白の小袖が進んだ。
向かう先に見えている明かりは、黒影の中にポツリと一つだけだった。そんなはぐれ蛍のように侘しい灯火を見て仙里は溜め息を零す。
ずっと考えていた。
ふと立ち止まった仙里は、眉間に緊張が保たれていることに気づくと、額に手を当てて苦笑を零した。そしてその後、吐く息と共にゆっくりと強張りをほどいていった。直ぐ目先には雑木に埋められた黒い山々が見えていた。
「……詮無きことだな」
独り言が薄闇に溶けた。その場で仙里は天を見上げる。そして「変わらないな」と感じたままを漏らす。 驟雨の言い分をそのまま受け取るならば、それは変化の予兆といってもよいことなのだろう。このようなことはこの八百年の間に一度も無かったことだ。
だがしかし、己の気分は、驟雨の言を聞いてなお一向に変化などは見せなかった。そのことに期待すらしていなかった。
大きく息を吸い込んで、貯めて、吐いた。下を向いた視線が、身につける生地に咲く紫色の花の上で留まった。
「
それは、白地に映える紫色の花。
まだ幼かった自分に世の色々を教え、人の情を教えたのも義親であった。
また、親など知らぬ仙里にとって、妖である仙里にとって、それは初めて知った情愛というものでもあった。もっとも、そのような人間くさい感情が物の怪に必要なことであるかどうかなど知る余地もない幼き頃の話ではあるのだが。
湧き上がる思いが失笑に変わる。目的地はもう目前にまで近づいていた。
――あやつは素地にある力だけで、この私を縛った。にもかかわらず主としての自覚もないという。余程の大物なのか、それとも破格の馬鹿であるのか……。
「フン。考えるまでもないことか」
仙里は吐き捨てるように言った。
直後、田畑の上を優しい風が走った。その風が白銀の髪を揺らす。
身体がつむじ風に包み込まれた刹那、仙里は少女の姿を風の中に溶かした。そうして巻き風がやむと同時に二尾の猫の姿を出現させる。
夜目が寺を捉えると、
猫の身体が、表の参道を小走りに抜け、軽く山門を飛び越えた。
境内にふわりと着地すると、本堂の裏手の方に蒼樹ハルの気配を感じ取った。しかし伝わってくるその気は随分と虚脱しているようであった。
年がら年中発情しているような少年の、その腑抜け様に首を傾げる。仙里は取りあえず様子を見に行くことにした。頭の片隅では驟雨から様々と教えられていたことが思い返されていた。
建物の影から顔を覗かせると、思った通り少年がいた。
少年は広い枯山水を望む長い縁側の真ん中あたりに座り、呆けるように空を見上げていた。
「よくも飽きないものだ。あやつはよほど空を見上げることが好きらしいな」
呆れて言う。
この時、仙里は少し驚かせてやろうかと思い立ち、己の気配を殺した。
そうして少年の背後に近づこうと前足を一歩踏み出した時だった。
「やあ、姫、おかえり」
気付かれるなど予想だにしなかった。思わず身体がビクリと震えて止まる。
仙里は、驚かせるつもりだったところを逆に驚かされる羽目にあってしまった。
――なんだこいつ……。 気配を絶っていたこの私を感じ取ったというのか……。
驚きのままに見ると、呼びかけてきたその少年は後ろを振り向いてさえ居なかった。
訳も分からぬと首を傾げる。仙里は少年の背中を見ながら「何かある」といった驟雨の言葉を思い出していた。
もしかすると、驟雨の言ったことも満更でもないのかもしれない。そう思った仙里は眉間の上に力を込めて少年を凝視した。だが……。
――覇気どころか、何の力の片鱗も見えない……。この私の心眼をもってしても見えないのか。……いや、見せないのか? 蒼樹ハル、こいつは何だ……いったいこいつは、何だというのだ……。
「ねぇ姫、君は、やっぱり仙里様なの? 尻尾が二本ある猫は、
少年が、そのまま空を見上げながら後ろへと話しかけてきた。
その言葉の意をくみ取った仙里はなるほどなと思った。どうやらこいつは何かしらの話を聞かされたのだろう。 そして、話を聞かせたのはあの朱髪か睡郷の姫であろう。
「君は、いや、君も何か知っているのかい?」
君も、と問われてまた首を傾げる。仙里にはハルが何を問うてきているのかが分からなかった。その事を知ってか知らずか、少年はそのまま話を続ける。
「ねえ仙里様、仙里様も『雨様』のことを知っているのかい?」
――雨様か……、それもあの子供に吹き込まれたか。
「茜ちゃんはさ、雨様なんて現れないって。でも、真子はさ、僕のことを雨様だって、仙里様は? 仙里様はさ、作り話だって言ってたよね」
――茜ちゃん? ああ、朱髪のことだったな……。しかし、あやつも『雨』に関わる者だったとはな……。
仙里自身は『雨』の存在を否定している。しかし、あの朱髪の鬼巫女までもが『雨』に縁を持つ者であるとなれば、これはもしかするのではないかと思えてくる。睡郷の姫も、鬼巫女も、自分までもが一時に引き寄せられていたことに、武者震いのようなものをさえ感じていた。
――フン。まるで宿命のようではないか。
面白いことだ。と思って仙里は笑んだ。
「まったくさあ、僕の知らないところで『雨』だのなんだのって言われてもね……」
少年のその言葉を聞いて同情を覚えてしまった。
その事に、これは珍妙なこともあったものだと仙里は己を笑ったが、何の益体もない凡なる者に、
「僕はね、『雨様』なんかじゃないよ。僕はね、僕をそんな英雄みたいな人に祭り上げてほしくないんだ。僕はそんなものはいらない。僕はね……」
――うんうん。分かるぞ。そうであるな。お前はただの人間だ。
「そうだよね。僕はごく普通の人間なんだよね……」
――! な、なに!
仙里は、何気ない少年の一言に驚いた。現状の仙里と少年は猫と人間であった。言葉を使って会話をしていたわけではない。仙里は、独り言のように話している少年の言葉を無言のまま聞いていただけだった。それなのに少年は、仙里の心の呟きをそのまま聞いたの如く言葉を返してきた。
いくら縁を結んでいるとはいえ、そのことをもって直ちに、互いの心から心に意を伝え合うということにはならないものだ。警戒心を抱いた仙里は少し慎重に構えることにした。
「僕はただの人間なんだ。雨の陰陽師か何か知らないけど、伝説みたいに言うけど、僕は僕だ。僕はそんな者になることを望んでなんかいない。慈悲を与えるってなんだよ……僕はどんな偉い人間なんだ。誰かを救えといわれてもそんなこと出来るはず無いじゃないか……僕は誰も救えない人間なんだ……」
ぼそぼそと話す少年を見て、仙里は溜め息を零す。
手違いの成り行きとはいえ、このように気骨もない主を頂いてしまったことにどこか落胆していた。
「大体なんだよ。高校に入ってから碌なことがないじゃないか。なんだよ、妖怪って。僕はただ、普通に生きて、普通に恋して、普通に笑って……。なのに何なんだよ、全然思った通りにならないじゃないか……」
言ってハルがポケットの中から石の玉を取り出した。
――あれが、雨玉、いや、『青の御霊』か、確かに何かの気配はするが、だからといってどうということもないな。ただの石ころにしか見えぬ。
「真子……」
その力を見極めるべく青の御霊を見つめていた仙里の耳に少年の声が届く。それは気概のない細い声だった。
「まったく。ウジウジとしよって、もはや情けないとの言葉も通り越してしまうほどだな」
仙里は苛つく心のままに少年の正面へと飛び出した。
「猫が喋った! あ、いや違った。姫! いつから」
「はあ? いつからだと? ずっと後ろにおったわ。お前、気づいていたのではないのか!」
「え? あ、いやあ……」
惚けた顔をして少年が笑った。
「おい、お前には気概というものがないのか!」
「気概……」
「そうだ気概だ! いいかよく聞け。お前はもう逃れられない。事態はお前が望もうと望まぬとその様なこととは関係なしに動き出しているのだ」
「逃れられない……僕が望んでなくても……」
「そうだ。そしてこれはお前が起こしたことだと言っても良いことなのだぞ」
「僕が? ちょ、ちょっと待ってよ! なんで! 僕は何もしてないじゃないか!」
「馬鹿かお前、お前はこの私を縛り、あの真神の一件に自ら首を突っ込んだんじゃないか」
「縛る……。縛るって、やっぱり僕は仙里様のある――」
「待て! その言葉を口に出すな。汚らわしい!」
「け、汚らわしいって」
「お前にはその自覚がない。気付くことも出来なかった。そうだろう?」
「それは……」
「もう悔いたところで始まらんぞ。もっとも、私は大いに悔いているがな。しかし、事実は事実で仕方なしだとも言える」
「仕方が無い……」
「まあそれでも、私は認めてはいないがな」
「仙里様のこと、真子のこと、それが事実で、それが僕のやったこと……」
少年は思案するようにして俯いた。
「理解出来たか。ならウジウジとするな」
「……」
「それにだ。誰かを守れなかっただの、自分には力が無いだの、その様なことをほざいていること自体が片腹痛い。お前はいったい何様のつもりだ?」
「何様って、僕は僕で……」
「そうだ。お前はお前でしかない。けっして『雨』などではない。『雨』とは大昔におった超絶の力を示した陰陽師のことをいうが、お前がその『雨』であることなどない。魂は輪廻するが、けっして同じ形で転生することなどないとも聞いている。その者の言を用いて言うならば、同一人物の再誕などあり得ぬのだ。分かったか」
「な、なら何で、何で茜ちゃんや、真子が、雨様が再来するとかしないとか言ってるんだよ」
「そんなことは知らん!」
「え?」
「とにかくだ、どうやらこの先、何事かが起こることだけは間違いの無いことのようだ」
「何かが起こるって?」
「それも、知らん」
「し、知らないって、そんないい加減な……」
「諦めろ、どうやらお前はことの中心に据えられたようだからな。せいぜい死なぬように抗うしかないだろう。気力果てればそれがすなわちお前が死ぬときだ」
「僕が……死ぬ、とき……」
呟くようにして話す少年は、手に持つ石の玉を見つめた。
「覚悟を決めることだ。無力だの言ってられぬ。後悔などしておられぬ」
「……分かったよ仙里様。なんとなくだけど現状は理解出来た気がする」
くぐもったその声から、少年の不満のような感情が伝わってくるようだった。
「そうか、ならば良い」
仙里はキッパリと言った。
「それはそうと仙里様? ものはついでに聞いてもいい? どうしても知りたいことがあるんだ」
「ん? なんだ」
「あの日、あの夜。僕が真子と出会った夜のことなんだけど……」
「それがどうした」
「あの夜、仙里様は僕を殺そうとしたの? 僕が、その、仙里様の主、なんだよね? その僕を仙里様は殺そうとして嵌めたの?」」
「嵌めた? 死地へ向かったのはお前だろう。そこでお前が死ぬや死なぬやなど知ったことではない。それでもまあ、お前が死んでくれても良かったと、あの時私は思っていたがな」
「え?」
「くだらない。何を聞いてくるのかと思えばそんなことか」
「そんなこと? そんなことって」
「一つ忠告してやろう。言ったが、私はお前を認めていない。よって私はお前のことを大事とは思っていない。お前が死のうと死ぬまいと、そんなことはどうでもいいのだ。人間の生き死になど私には興味の無いことだ」
「興味が無い? ということは殺すつもりでもなかったと……」
「フン。二度も言わせるな。お前に興味など無い」
従とされた悔し紛れに突き放した。それに、今後いちいち助けを求められても迷惑だとも思っていた。 しかし、言い終えて少年を見れば、先ほどとは打って変わるようにその表情に明るさが差していた。仙里は首を傾げた。これで三度目であった。
「ねえ、仙里様。ええと、猫の仙里様」
「……」
「仙里様は、うちで暮らしているってことでいいんだよね?」
「……」
「いつでも、会えるんだよね?」
「……」
「あのさ、ほら、猫の姿の君のことなんだけど。あのさ、なんて呼んだらいいのかな? 僕はね、やっぱり姫のままでいいのじゃないかって思うんだよ。どうかな?」
「知らん!」
頭が痛くなった。こいつの考えていることが、さっぱりと分からない。それが素直な感想だった。 それと、少しでも『雨』などに期待してしまった我が身が哀れにも思えた。
――期待? 私は期待しているのか……こんな間抜け面したやつに期待しているのか……。
自分の気持ちに驚いてしまう。そしてそんな時に仙里は目撃をする。少年の掌に包まれている玉が僅かに青い光を見せたことを。
それは、たった一瞬のことであったが見間違いではないだろう。
仙里は一つ鼻を鳴らして少年に背を向けた。
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