第7話 アメサマの匂い
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この日の昼休みは、いつもの中庭には行かなかった。
通用口から外に出たハルは、昨夜と同じ経路で現場へと向かった。
校舎の中から聞こえてくる賑わしい声も、校内に流れている穏やかな空気も普段と何ら変わりが無い。目にしているのはあの時とは全く違う景色であり、昨夜、あのような奇怪な事件に遭遇していたことなど、夢見の中の出来事のようにしか思えなかった。
少し外れて裏山へと通じる小道を歩き、校舎とグラウンドが一望出来る場所に立つ。ハルの目は昨夜、死線を分けていたバックネットを後ろから見ていた。
――僕は、あの場所で妖怪に殺されそうになった。あの時僕は、死を、覚悟した……。
九死に一生で救われた命だった。だが、実際にここに来てみれば、自分が生きていることに対してどうという感慨も持てなかった。
決して死にたかったというわけではない。確かに生を諦めはしたが、しかしそれは死を受け入れたということに過ぎない。そんな自分が今、生きている。
死線の向こう側とこちら側が、生死の境目が、酷く曖昧なものに思えた。
「やっぱり、人なんて、簡単に死んでしまうものなんだな……」
口をついて出た無意識の言葉に失笑を零す。その様なことは今更考えるまでもないことだったなと思った。 自分の命はあまりに軽い。なれど残されてしまったこの命を簡単に捨てることも出来ない。
それは、ハルが事故のあったあの日からずっと思ってきたことだった。
「何やってるんだ、こんなところで」
背後から声を掛けられた。直ぐその声に反応して振り返り、にっこりと笑った。
声の主が誰であるかは分かっていた。そして、思った通りそこには燃えるような朱色の髪が見えていた。
「どうしたの、
「あ、ああ、うん。もう食べたよ」
「そう、早いね」
「あ、あのさ――」
「何? 僕に何か用事? もしかして、僕のことが好きになっちゃった、とか?」
「ば、馬鹿か! そんなわけないだろ」
「だよね。そんなわけないよね」
「私は、ただ、蒼樹の姿が見えたから、ちょっと様子を見に来ただけだ」
答えながら、茜は両手を後ろで組み視線を宙に投げた。どうやら茜は嘘がつけない性分らしい。
「僕の様子をねえ……。ねえ、茜ちゃん」
「なんだ?」
「昨夜のあの巫女さんは、やっぱり茜ちゃんなの?」
思い切って核心をついてみた。今朝の
仙里と真子と昨夜の巫女、そしてこの朱髪の少女とは何らかの繋がりがあると睨んでいる。事情はそれぞれに違うのだろう。その事も何となくだが感じている。しかし「妖怪」という一字を持って見れば共通項があるのでは無いかと考えていた。ハルは茜の目を覗き込んだ。
「み、巫女? 昨夜? ええっと、何のことかな」
茜の目が泳いだ。やはり茜は何かを知っているのだろう。
「昨日の昼休み、茜ちゃんは、いきなり見ず知らずの僕の所に尋ねてきて、そして忠告してきたよね?」
「あ、ああ、そうだけど」
「よく考えてみてよ。分かっているだろって感じで、深入りするなって言ってたけど、その時僕は、一体何に深入りするなと言われたのかサッパリと分からなかったんだよ」
「ああ、言われてみればまあ、そうだ、な」
「君は、僕が、さも事情を踏まえていると思い込んでいるようだったけど?」
「それは……」
茜はハルの問いかけに迷うような様子を見せ口ごもった。
「責めてるんじゃないんだ」
いってハルは微笑んだ。
「怪異、物の怪、妖怪……」
ハルは、およそ現実とはかけ離れている言葉を茜に向かって投げかけた。
「
茜は、ハルの目を見ながら、ハルの言った言葉とは違う言葉のつぶやきを漏らした。
「僕は、茜ちゃんが何らかの事情を知っているのだと思ってる。そして、その事情は今君が呟いた『妖』に関しての事だと思っている。残念ながら僕には、君に詳しくは言えないこともあるけど、それでも僕は、どうして僕がこんなことに巻き込まれているのか知りたいんだ」
「……」
茜は、顎に手を当て俯いた。
「茜ちゃん」
迷いを見せる茜に答えを促した。それでも茜は迷っている。その時、ハルの傍らから声が湧いた。
『お話しなされればよろしいのでは。何を迷うことがあるのですか』
それは、真子の声だった。
「誰だ!」
茜が咄嗟に身構えた。
『そんなに気張らなくても良いのですよ』
柔らかくいって、子供の狼がハルの影の中から姿を現した。
「ま、真子! き、君がどうしてここに」
驚くハルを見て、真子はニコリと微笑んで見せた。
「お前は……いや、あなたは……。そうか、真神だったのか。昨夜の、あ、いや」
『まずは昨夜のご助力、感謝致します』
「あ、い、いや」
『ん? 今更何を隠す必要があるのです。あなたは昨夜、私とアメサマを助けた。それが事実のこと。それで良いのではないですか?』
「い、いや、知らない。それは、私ではない。そ、それよりも――」
『何か?』
「いま、アメサマとかなんとか」
『ん? それが何か』
「あなたの、今のあなたの話を鵜呑みにすれば、ハルちゃ、い、いや、蒼樹ハルがアメサマということになるのだが……」
『はい、如何にも。そこにおられる蒼樹ハルさまはアメサマにございます』
「ま、まさか。そんなことあるはず……」
「おい! ちょ、ちょっと待った!」
真子と茜の話を聞くだけになっていたハルは、二人の間に割り込んでいった。
真子と茜、この二人の話の中に出てきた「アメサマ」という言葉は、今朝も仙里と真子の間で争われていた言葉だった。
茜の反応を見れば、どうやら茜もその事を知っているらしい。ここまで知ってしまった以上は、もう蚊帳の外はごめんだとハルは思った。
『ん? 如何なされましたか、アメサマ』
「あ、あのさ――」
「待って。真神よ、なんでこの蒼樹ハルがアメサマなんだ。あなたは何故そのようなことを確信を持って言えているんだ?」
ハルの言葉を遮った茜が強い目をして真子に問いかけた。
『何故って、それは……』
「ちょ、ちょっと待て二人とも。勝手に話を進めないでくれよ。僕はそもそもを知らないんだ。今のこの話もまるで訳が分からない。もう少し分かるように話してくれないか」
「あ、ああ、でも……」
ここでもまた、茜は戸惑いを見せた。
『蒼樹ハルさまは、アメサマです。それ以上は何をお話しすればよいのでしょうか?』
一方の真子は当然であるとしてアメサマを語った。
アメサマとはいったい何なのか。その存在に茜は戸惑い、真子は在るを疑わない。そして今朝の仙里は話そのものを否定していた。
「真子……。いいかい、真子」
『はい。アメサマ』
「まず、そのアメサマというのをやめてくれないか。僕はアメサマというものが何なのかを知らない。なんらかの呼称なのだとは思っている。だけど僕は、生まれてこの方、そんな単語を聞いたことも見たこともない。この際だから言っておくけど、僕はそのアメサマという者ではない」
『そんな……アメサマ……』
「真子、今朝も聞いただろ? 僕が昨夜、この学校に来たのはただの偶然でしかないんだ。僕は、うちで飼っている猫の姿を追っていて学校に辿り着いただけなんだ。残酷なことを言うようだけど、真子の呼びかけに応えたのでも、危機を察知していたのでもない。真子、君を助けたのは僕じゃない。あの時、グラウンドに現れた巫女さんが、僕達のことを助けたんだ。君が助かったのは僕の力じゃない」
「……アメサマ」
真子はしゅんとして項垂れてしまった。
「そのことなんだが、ちょっといいか蒼樹」
「なに?」
「お前、あの
「な!」
茜の口から、仙里の名前が出てきた事に驚いた。咄嗟に自分の口からもその名前が飛び出しそうになって慌てて口をつぐむ。
「何らかの縁を結んでいることはもう分かっている。お前、あいつとどこで出会った? なんでお前とあいつがこんなことになっているんだ?」
「し、知らない。そのなんとかってのも知らない」
「そうか、お前、あいつにそのように言われているんだな」
「……」
「お前が気にしているは、あの化け猫との決まり事についてだな」
「ば、化け猫?」
「なんだ、そんなことも分かってなかったのか。呆れたやつだな。そうだ、あいつは仙狸という化け猫。仙人の仙に狸と書いて仙狸。狸と書くが仙狸は、猫の妖なんだよ。
「猫又……仙狸。――じゃあ、あれは僕の勘違いだったのか……てっきり名前だとばかり……」
「この国では、古来、年経た猫が妖力を得て妖になったものを猫又とか化け猫って言うんだ」
「なるほど、仙里様はその猫又様だったのか……ふむ」
「だが、あれはちょっと違う」
「違う?」
「そうだ違う。あれは、もっと格が上だ。いや、それよりももっともっと上かもしれない。どうやらあれは大陸の方から渡ってきた者らしい。どういう由来があるのかは、あたしも知らないけど、あれはただの化け猫じゃない」
「仙里様が、化け猫……」
「元は猫だ。ただし、あれは歳経て化け物になったのではなく、生まれた時からすでに二本の尾を持ち妖力を備えていた。その後まもなく神通力を得て妖になったといわれている」
「仙里様が、化け猫……」
「お前、仙狸から自分のことを他者に話せば殺すと言われているだろう」
「さ、さあ、何のことでしょう?」
既に遅きに失した感はあったのだが、それでもハルは惚けた。そんなハルの様子を見て茜は肩を落とし溜め息を漏らす。
「安心していい。お前が仙狸の事を話したとしても、こちらが知っていればその掟には抵触しない。話しても大丈夫だ。それに、例え話してしまったとしても、仙狸どもが口にする掟は、あくまであいつらの種族の中での決まり事でしかない」
「え?」
「話せば殺す。と、あいつらが手前勝手に言っているだけで、必ずそうなるわけではないということだ。だから仙狸の事を誰かに話したとて、やつらにやられないようにすれば良いだけだ。問題ない」
「殺されなければ良いって言っても、それってちょっと……」
茜の話を聞いて、なるほどなと思った。しかしよくよく考えてみればそれは無茶な話であった。ただの人である自分が、妖怪である仙里から身を守ることなど出来はしないのだから。
「しかし、分からないことがあるな……」
「分からないこと?」
「そうだな。分からない。何故、あいつは縁を結んだお前を誰かに殺させようとしたんだ?」
「仙里様が、僕を殺そうとしただって?」
「そうだ。昨夜あいつはお前を亡き者にしようとした」
「そんな。昨日のあれは、仙里様の仕業だっていうのか!」
「そうだ。その通りだ。犬神どもと、真神殿の一件があいつとどう関わっているのかも分からない。だけどあいつが何故、あんなにも回りくどいやり方をしたのかが分からない。本気でお前を殺すつもりならば、自分の手で殺してしまえば良い。なのにあいつは昨夜、この場所にお前を誘導して、あの犬神どもに始末をさせようとした。それは何故だ……」
『自ら手を下せない。それは、あれがアメサマに仕える者だからですよ』
しばらく聞き手に回っていた真子が語気を強めて口を挟んできた。
「仕える? それにまた、アメサマか……。真神殿、アメサマなどはおらぬのです。仮に何処かにおられたとしても、今はもう顕現されることなどないのです」
『いいえ、アメサマはここにおられます。私には分かるのです。証拠はあの者です。あの仙狸からはアメサマの匂いがします」
「はぁ、アメサマの匂いですか……」
『そして何より、あの者は、この蒼樹ハル様の従僕なのですから』
「従僕? 蒼樹ハルがあの仙狸の主だというのですか! そう言えば先ほど、アメサマに仕えているとかなんとか……」
『そうです。アメサマの匂いを発するあの者は、ハル様に従う契約を結んでおります。私にはその縁が見えております。妖が、私たち神獣もそうですが、二人の主と契約を結ぶことは決してありません。それに、あのようにアメサマの強い匂いをさせる者がアメサマと無関係とは思えません。しからば、あれはアメサマであるハル様に仕えていると言うことになります。従僕に主は殺せない。これは、歴とした契約が示す理です。ですからあの者にハル様は殺せない』
真子は、さも当然と言わぬばかりに言い切った。
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