第6話 真神の真子

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 酷くうなされていたように思う。

 その時ハルは深い眠りに落ちていることを自覚していた。それでも、目にしているものはリアルと見紛うばかりである。その光景は鮮明であり、肌に感じる感覚は現実そのものであった。

 ……もっとも、それも毎度のことでもあるのだが……。


『お父さん! お母さん! マコちゃん!』


 ハルは手を伸ばし叫んでいた。

 助けようとして助けられなかった妹の真菰まこもが、猛火に包まれその姿を消してしまうまで僅かの時間しか無かった。――命の消失、それは、一瞬と言ってもいいくらいの短い時間だった。

 その光景をハルは……子供のハルは、自分を抱き留める大人の力に抗いながら見ていた。

 激しい光と、激しい熱気と、激しい臭気。鉄も、プラスチックも、ガラスも、そして命も燃えていた。


 あの時、炎の中に飛び込んでいけば死んでいただろう。見ているしかなかったというのも実際のところであった。しかし、あの事故の時、自分だけが生き残ってしまったことも、自分が家族の為に何も出来なかったことも紛れもない事実だった。


 ――何故、自分だけが助かってしまったのだろう。

 ――何故、残されたのだろう。

 ――何故、今も生きているのだろう。

 ――何故、誰も自分の罪をとがめずにいるのだろう。

 世界は何故、こんな無価値な自分を生かしているのだろう。


『いっその事、僕を殺してくれよ。誰でも良いから僕を殺してくれよ。その方が、淋しいよりはずっとマシなんだよ。淋しいのは、もう嫌なんだ……』


 嗚咽を伴った声が震えていた。

 漆黒の闇の中で、立ち上る炎を見つめながら泣いた。膝を落とし、背を丸めて項垂れる。地面を激しく殴りつけていた拳は血と土で汚れていた。その拳に涙が落ちる。だがそこに痛みなど感じなかった。麻痺をしていた。ハルの心はもう、それ以上の痛みを感じられる容量を失っていた。


 炎の前で泣き崩れる自分の周囲から一人、また一人と人が消え、物が消え、景色が消えていく。その後、闇の中に最後に残された炎も消えていき、 ハルは漆黒に飲み込まれていく。


 ――これが、これまでの日々に際限なく繰り返されてきたハルの夢だった。


 だが、この日は違った。いつもならば、ハルの身体は闇に溶かされていくようにして消えてしまうのだが、この時は違っていた。誰かが、そっとハルの手に触れた様な気がした。

 ハッとして左右を見回した。しかし暗闇の中で姿は見えなかった。

 誰かは分からない。それでもその手は確かな温かみをハルの手に伝えていた。

 そして、暗闇の中から声が届く。


『……め、様、お可哀想に……。でも、私が、今は私がお側におりまする。どうかお心を穏やかかになさりませ』

「誰? 誰かいるの……」

『はい、ここに。私は今、あなた様のお側におります』

「側に……」

 側にいるといわれても、何も見えなかった。ただ、傍らにふわりと温もりがあることだけは感じられていた。

「君は……」

『はい。私は、昨夜あなた様にお助け頂いた者にござりまする』


 助けた。と聞いて、昨夜の出来事を思い出した。

 確かに自分は子供を助けようとして妖怪に向かっていった。しかし、実際のところ助けられたのは自分の方だった。あの子供が助かったのも、そして自分が助かったのも、あの時目の前に現れた「巫女」のおかげだった。


「待って、違うよ。それは違う。僕は――」

『いいえ、あなた様は私の声に応え、私を救うために駆けつけて下さいました。そして、彼の場所は約束の地。然らば、あなた様に相違はございますまい。私は、そう信じております』

「あ、いや、違うんだよ。君は何か勘違いをしてる。僕は――」


 それは誤解だ。自分は今度もまた助けられなかった駄目なやつなんだ。そう伝えようとした。だが、ハルはそこで光に包まれた。

 世界に明かりが差す。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、そこに自分の部屋の天井があった。


「ここは……、自分の、部屋だよな……。いったいどうして……どうやってここに……」


 昨夜の出来事を忘れたわけではない。しかし、巫女の少女に救われた後、気を失ってしまったハルにその後の経緯が分かるはずもなかった。とにかく誰かに運ばれたことだけは間違いはないのだろう。こうして自分の部屋に戻っているのだから。それどころか着替えまでしていた。そして手当をされて……。

 ハッとした。そしてハルは自分の身体の所々を確かめるように触った。


「な、なんで……」


 自分は妖怪に痛めつけられて大怪我をしたはずである。けれど、現状、身体はほぼ無事と言っても良いほどに回復していた。あちこちに痛みはあった。傷もそこかしこにあるようだったが、それもかすり傷程度にしか思えなかった。


「これはどういうことだ……」


 数カ所に包帯を巻かれ、怪我人の体をなしていたのだが、然程の痛みも感じなかった。

 自分の布団に寝かされていたハルは、半身を起こしもう一度体中を触った。と、その動きの中で手が妙な感触を捉えた。

 それは、ふわりとしていて柔らかかった。直ぐは羽毛を思い浮かべたが感触がどうも違う。

 ならば何だと考えると、毛皮という表現が一番適しているように思えた。しかし、毛皮などが自分の布団の中にあるはずもない。

 その毛皮をそっと撫でた。そこには温もりがあった。ハルの手は平面を滑るではなく立体を撫でていた。


 ――ぬいぐるみ。ってわけでもないよな……。しかしこれ、温かくて気持ちいいな。

 ハルは、ぼんやりと天井を見上げながら、その毛皮を弄った。


『……ん、あ、ああ』

 吐息を、聞いた……。


「あ、え? ええええええ!」

 聞き慣れない声に、慌ててそれを見る。


「はあ! って、ええええ! って」

 驚いた! 自分が寝ていた布団の中に、子犬が横たえていた。


「い、い、い……」

 言葉にならなかった。すると、そこでハルの様子に気が付いたのか、子犬がゆっくりと瞳を開ける。そして。


『良かった。お目覚めでございますか』

「しゃ、しゃ、しゃ」

 今度もまた、思うように喋ることが出来なかった。


『すっかりと回復されましたようで、ようございました』

 いって、子犬が微笑んだ。


「い、い、犬が喋った!」

 ようやく言葉を口に出来たのだが、子犬はそんなハルを無視して話を続ける。


『ふふ。犬ではございません。私は狼でございます』

「お、狼……」

『はい、狼にございます』

 人語を語る子犬は微笑んでいた。

 何がなんだか分からない。これはいったいどういうことだ。

 ハルは頭の中を整理した。

 昨夜、自分が通う学校で子供を助けようとした。助けようとしたが自分は手も足も出せずに瀕死に陥った。そこを助けられ、そうして無事に家に帰り、休んで……夢を見て――。


 ハッとして子犬を見た。犬が喋ることなどあり得ないのだがしかし、この子犬と話したことを昨夜のことと繋げて考えると……。

 もう一度子犬を見る。子犬は、全て承知というような様子であった。思えば、夢の中で聞いた声とこの子犬の声が同じような気もする。――いや、同じだ。

 子犬は、「昨夜助けて頂いた」といっていた。そうだとすれば、あの時の子供は、人ではなくこの子犬であったということになる。


「犬、だったのか……。あの子供は、この子犬だったのか……」


 あの時対峙した相手も、普通の犬ではなかった。金属バットを空気のようにすり抜ける犬などいない。あれは確かに化け物だった。ならば、そんな化け物に襲われていた者が人でなくても何ら不思議はない。


『アメサマ、私は犬ではございません。狼でございます』


 いって子供の狼は拗ねる様子を見せた。ハルは、「狼だ」と主張する語尾だけを聞き取りながら、可愛いらしい子供の狼を不思議な思いで見ていた。

 ハルは思う。仙里との出会いといい、昨夜の出来事といい、今日のこの子供の狼といい、自分はつくづく妖怪と縁があるのだなと。


「分かったよ。君は狼なんだね」

『左様でございます』

「それと。昨夜の、あの化け物に襲われていた子供のことなんだけど、あの子供が君ってことで良いのかな?」

『はい。左様でございます。昨夜は危ういところをお助け頂きありがとうございました』

 子供の狼が恭しく頭を垂れた。


「あ、いや、それは……」

 夢の中と同じことを口にしようとした。だが、言いかけて口が淀んだ。誰かの手柄を横からかすめたようで居心地が悪かったのだが、自分を見つめる輝く瞳に押し込められてしまった。

 

 ――いや、違うか……。僕は……。

 自分のずるさを容認してでも、ハルはその事実から逃げたかったのだ。

 昨夜、自分は何も出来なかった。しかしそのことは恥じることではないだろう。相手は化け物だった。そのような相手に対して危険を顧みずに挑み、自身も瀕死の重傷を負うほどに頑張った。ハルは肯定する。救おうとして、救えなかった。その事実を受け止めることが出来ずに流れに身を委ねてしまう。


『アメサマ?』

 声がハルの意識を引き戻す。

「え?」といって声の方を向いた。そこには、自分を見つめて首を傾げている子供の狼がいた。

 今、呼びかけられた気もするが……。その時ハルは、そこに昨夜の子供の顔を重ねて見ていた。


 ――そう言えば、あの時もこの子は僕に向かって何か言っていたような……。

 昨夜、子供のところに駆けつけて抱き上げたとき、あの子が似たような音を発していたような気がした。確か「アメ玉」とかなんとか……。


『どうかなさいましたか、アメサマ』

 まただ。アメサマ? アメサマとはいったい何なのだろう。

 何故この子は自分のことを訳の変わらない呼び方でよんでいるのだろうか。


「あ、あの……」

『はい』

「君は? いったい何者なの? ……ええっと、君は、君の名――」


 名を尋ねようとして口をつぐむ。仙里との出会いを思い出し、名前を聞くことに戸惑ってしまった。


『私の名は真子まこ真神まがみ大口真神おおくちのまがみに属する者です』

 ハルの躊躇に構うことなく子供の狼は自分の間合いで話しを進める。


「まこ……」

『はい、しんの子と書いて、真子と申します。見知りおきの程、宜しくお願い申し上げます』

「マコ……」

『ん?』

「あ、ああ……」

『何か?』

「い、いや、何でも無いよ」

 ハルの様子を受け取って真子がまた首を傾げる。


「あ、いやいや、ごめんよ。なんでもない、大丈夫だよ。それより、君は、その、真子さん? 真子ちゃん? 真子様? その……なんて呼んだら良いのかな?」

『ん?』

「あ、いや、妖怪ってさ、敬称にうるさいのかな? って思ってさ」

『私は、妖怪ではありませんよ』

「妖怪ではない?」

『はい。私は妖怪ではありません。私はこれでも神格の者に連なっております』

「しんかく?」

『神格といっても、正式に神というわけでもございません。一応、神ではありますけれど……いうなれば氏神クラスといったところでしょうか」

「神様……。君は神様なのか……」

『ふふふ。然程のことでもございませんよ。それよりもアメサマ、私に、あなた様のお名前を頂戴出来ませぬでしょうか」

「頂戴? ……って、僕の名前を教えて欲しいってこと?」


 真子は黙って頷きだけを返してきた。その後、小声で何事かを呟いた。


「え、なに?」

 不思議に思って尋ねるが、真子は微笑みを返すだけで応えなかった。


「そんな大袈裟な。名前は何って普通に聞いてくれれば良いのに。なんか君も変わってるね。言葉使いもそうだけど、その振る舞いにしたって古風というか何というか。妖怪ってみんなそうなのかい? あ、違った。君は神様だったね」

『……』

「僕はね、僕の名前は、蒼樹ハ――」

「あははははははは!」


 ハルが名前を言い終える直前だった。その嘲るような笑い声は、最後の一音を遮るようなタイミングで落ちてきた。

 鋭利を伴ったその声が瞬く間にハルの平穏を破る。一瞬にして部屋の空気が緊迫した。


『何者だ!』

 小さな身体が跳ねるようにして部屋の入り口に向いた。真子は毛を逆立てて襖の向こう側を睨んでいた。


「まったく、この蒙昧もうまい者には呆れるばかりだな。いいや、ここまでくればただの馬鹿者と言った方が良いのか」


 声と同時にふすまがゆっくりと開いていく。開いた直後、そこには誰の姿も見えなかった。

 しかし、何だ? と思ったのも束の間、部屋の入り口の向こう側で黒い影が揺らぎ見せると、それが瞬く間に人型になる。そこに仙里が現れた。


「せ、仙里、さま? 仙里様が何でここに?」

 思わぬ急な展開に考えが追いついていかなかった。

 横を見ると仙里に向かって敵意むき出しの真子が唸るようにして威嚇をしていた。


「仙里様、どうしてここに?」

 もう一度ハルは尋ねた。


「お前、あやかし者との名のやり取りがどういう意味をなすのか、もう忘れたのか?」

 ハルの問いには答えず、仙里は呆れ顔で言った。


「……意味」

「そうだ、意味だ。あれ程覚悟を説いたのにもかかわらず、今またこうして盲目の有様で名を告げちぎりを結ぼうとする。あきれ果てて開いた口も塞がらぬ」


 仙里は嫌悪を顔に浮かべ吐き捨てるようにいった。


「ちぎり?」

「そうだ、契りだ。人で言うならば、一生添い遂げるなどと妄言を吐きながらまぐわうといったところか」

「まぐわう?」

「……お前、本当に何も知らぬ馬鹿だな」

 仙里は、自分の話す言葉が通じ無い様に苛立つようにして頭を掻いた。


『あなたは……』

 仙里とハルの会話をよそに真子が目を細め、訝しんで仙里を見ていた。その視線に気づいた仙里がニヤと笑って真子を見下げる。


「おお、これは、これは、真神さまではございませんか。しかし、解せませんね。何故このようなところに? しかも真神さまともあろうお方が人間のしとねに潜り込むなどと」

「……」

「ん? どうなされました。下卑た様を見られ恥じ入っておられるのですか?」

 仙里が挑発するようにいった。それを受け、真子がキッと口を閉じ睨み返す。


『あなたは、アメサマの……従僕? あ、あなた、昨夜あの場所におりましたね』

「さて、知りませんね」

『惚けないで下さい。気付かなかったでも思っているのですか!』

 真子は詰め寄るようにして仙里を問いただした。だが仙里は素っ気なく鼻を鳴らすだけで答えなかった。


『しらを切っても無駄です。しかし解せません。何故にあの時加勢しなかったのです。従僕ならば主を助けるが筋。あなたは何故にアメサマをお助け致さなかったのですか!』

「従僕? フン! なんのことだ? 私が誰の従僕であると? おい犬ころ、世迷い言もいい加減にしろ」

『盟約を結んで居るではないですか!』

「従僕だの、盟約だのと。本当にこの子供は笑わせてくれる」

 仙里は居直るようにして横を向いた。


『ここまで言ってもまだ続けますか。しかし、あなたとアメサマのえにしが私に見えぬと思っているならば、それは間違いです』

「ほざくな子供。お前が如何に真神であろうと、あんな陳腐な犬神いぬがみ如きにやられておるようではたかが知れているというもの」

『な、何を! 私とて本来の力を出すことが出来ればあのような雑物など――』

「フン! 本来、か。その言葉も果たして真を語っているのかどうだか。しかし、まあ良い。お前の事情など私にはどうでも良いことだ」

『くっ』

 見下され、突き放された真子は歯がみして仙里を睨んだ。


「私には私の都合というものがある。お前のことなど知らん。だが、言っておく。そいつと名を交わし、契ろうなどと考えるな」

『それは、出来ませぬ。これは私の使命。私はアメサ――』

「アメなどおらぬよ」

『な!』

「長きを生きるこの私が見たことも無いものだ。あれは単なる作り話に過ぎぬ。しかも人間が作り出した話だ。お前も神格を名乗るのなら分かるだろう。人が平気で偽り事を語るのだということが分からぬお前ではあるまい。それに、そこにおる馬鹿はただの人間だ。昨夜たまたまあそこに現れはしたが、それはお前の危機を察したからではなく、お前の呼びかけに応えたのでもない。こいつは偶然あそこに来たのだ。決して縁を得て参上したわけではない」

『……』

「あははは。良かったではないか。お前、私のおかげで助かったのではないのか。危うくのところで過ちを犯すところだったのだぞ。お前には使命があるのだろう。ならば、逸ったが故に盆暗と契ってしまったなどいうことになれば、それは洒落にもなるまい」

『……』

「分かったか? 分かったなら私の邪魔をするな。おお、そうだ。この際だ、せっかくだから私がこの馬鹿の名を教えてやろう。こいつはな、蒼樹ハルという。そしてこいつはどこにでも居る人間のガキだ」

『蒼樹ハル……ハル、さま……』

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