第5話 朱髪の鬼面

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 校内に少しも明るさはなかったが 目はすっかりと夜に慣れていた。

 そこは勝手知ったる場所で、それはハルにとっても見慣れていたはずの景色であった。だが、暗闇の中にぼんやりとした輪郭だけを見せる建物を見れば、そこにある全てのものが、異様さを醸し出すものに様変わりしていた。妖異を思い浮かべながら路を進めば、まるで迷宮の中に誘われているかのような感覚に落ちた。


「鬼が出るのか、蛇が出るのか……」


 無理に出した声が少し震えていた。自分がどれ程の危険を冒そうとしているのかは重々承知の上であった。それでも、怖いものはやはり怖い。 そんな時に、ふと昼休みに出会った少女の顔を思い出した。


『……少しでも思い当たるなら、やめておく方が良い』


 茜の「やめておけ」という台詞が何度も心の中に木霊する。

 ハルは一度下を向き奥歯にギュッと力を込めた。そして、硬直したまま震えている片方の拳を無理に開いた。


「怖じ気づいているわけじゃない。少し、緊張しているだけだ!」

 

 言い聞かせるように言葉を吐き、もう片方の手に持つ武器に目をやった。

 ハルはここまでの道すがら、野球部の部室に立ち寄ってそこから金属バットを拝借していた。

 

 ――こんなものでもないよりは良い。

 手ぶらで突っ込んでいくより少しはマシだろうと考えるが、カタカタと手に持つバットは震えていた。


 グラウンドの入り口に着くと、ハルは付近の物陰にそっと背中を預けた。

 ――闇雲に飛び出すほど僕も馬鹿じゃない。プランが何も無いというのはただの玉砕だ。

 静かにゆっくりと深呼吸する。ハルは頭の中を整理した。


「先ずは、助けるべき者を確認すること。そして、子供と相手の位置を確認すること。それと、相手の数も確認しなくてはいけないな……。とにかく、最初から全力でいって、救って、そして逃げるんだ」


 やるべき事を脳裏に刻み、そのことを言葉に代えてから心の立ち位置を定めた。

 建物の陰から半分だけ顔を出して様子を探る。目にするそこは少しだけ明るさが増しているように思えた。


 ――子供はどこだ……どこにいる。……いた!


 広いグラウンドを一気に見渡す。目標とする場所は直ぐに目についた。

 現在地から見て左側、校舎に沿って広がるグラウンドの端の方に数個の黒い影が見えた。


「あれが相手か……。獣のようだけど、あれはなんだ……」


 力強く地に立つ太い四足を見る。獰猛を思わせる黒い影が跳ねるように動いていた。

 その様子は、まるで子供とじゃれている様にも見えた。

 目標とするその地点まではまだ距離があったが、実際に妖怪を目にしたハルの心は萎縮を始めていた。

 それでも歯を食いしばる。ハルは黒い影を注視しながら、音を立てないように細心の注意を払って歩みを進めた。獣はどうやら子供に夢中なようでこちらには気が付いていないようだった。


「た、すけて……」


 救いを求める声を耳が拾った。同時に子供の影が小躍りした後に跳ね飛ばされるのが見えた。瞬間、反射的に肩がビクリと動く。ドキリとした胸を強く押さえ息を飲み込んだ。

 ハルは汗掻く右手にあるグリップの感触を確かめた。助けを求める声は更に弱々しくなったように聞こえていたが、ここで焦ってはいけない。

 ゆっくりと進みながら観察する。数匹の黒い影はやはり遊んでいるようで、直ちに子供を殺してしまう気も無いようだった。そこで少しの猶予かあると考えたハルは、気を引き締め直し、相手にするであろう獣の数を数えた。


「一、二、三……相手は三頭か、これならば……」


 獣を数えながら慎重に近づいていくと、いよいよ相手の姿がどのようなものであるのかが分かってきた。闇に浮かぶ黒い影の正体、それは。


 ――あれ? あれは、犬、なのか? しかも、それ程の大きさもないような……。


 ハルが見ていたものは犬だった。それも普通の犬だった。いや、この場合は普通という表現には語弊があるのだろう。ここまできて、勘違いなど洒落にもならない。やはりただの犬でしたという落ちが、この話につくことなども期待するべきではない。

 相手が化け物だということは肌に感じて分かっているつもりだった。だがそれでも……。視覚に捉えている獣は、どう見ても化け物には見えなかった。

 立ち止まり、首を傾げて唸る。どこか騙された気分になっていた。

 相手がただの動物であるのなら自分にも何とか出来るのではないか。ハルは両手でバットを握った。

 

「待ってろよ、今、助けてやるからな!」


 俄然とやる気を見せた。犬の背中まで五十メートル程の距離に近づき、フンと鼻を鳴らして意気を見せた。ハルは、その場所から勢いよくダッシュすると大型犬の背後から飛び込んでいった。


「お前ら、こんな小さい子に何してんだ!」


 大きな声を出しバットを振り回す。駆け寄ったハルは、急いで子供を腕に抱き上げた。

 子供は女の子であった。見たところ小学生くらいであろうか。腕の中の子供は、あまりに小さく華奢な身体をしていた。

 素早く子供の具合を確認する。そこでハルは、目を奪われてしまった。

 息も絶え絶えの子供はあまりに無残な姿をしていた。

 体中に無数の傷があった。噛まれた跡だろう、衣服から露出した手足には幾つもの歯牙の型から血が流れ出ていた。また、着衣は血混じりの泥で汚れ所々が破れていた。血が滲む生地の裂け目からは裂傷が見て取れた。


「酷いな……。おい、大丈夫か!」


 犬を睨んで牽制しながら子供に声を掛けた。犬達は観察するかのように視線を向けてくるだけで動かなかった。

 バットの先を犬達へと向けながら腕の中にある子供の状態を覗う。肌伝いで、かすかに呼吸は感じられていた。それでもこれほどの傷である。意識があるかどうかまでは分からなかった。


「おい、しっかりしろ!」

 敵から目を切らずにもう一度声を掛けた。


「あ……あ、う、うう……」

 子供が僅かに細い息を吐いた。息とともに漏れた声を確かに聞き取って少しホッとした。


「気が付いたか! もう大丈夫だからね」

 更に子供を安心させようと声を掛け、しっかりとその身体を抱えた。


「あ……あ、めだま……」

 子供がうわごとのように何かを呟いた。その様子はどこか安堵しているようであったが声は弱々しいままで、ろれつは回っていない。


「――様……、良かった。や、やはり、おいででいらしたのですね……」

 朦朧としてハルを見る子供が続けて話した。


「無理にしゃべらなくていいから。とにかく直ぐにここから逃げよう」

 ハルは周囲を見渡す。現在地はグラウンドの端の方。対峙する獣は三頭。

 恐怖はない。目の前にしている黒い獣は、どこにでもいるような大型犬に見えていた。色は三頭の全てが灰がかった黒色をしていた。体毛は短く、筋肉質なところを見せる体躯はツルリとしていたが、それでも、猟犬として飼われている犬種を思い浮かべ比べてみれば、どうにもありふれた感じが否めなかった。


 ――さて、これからどうする……。


 生臭い息を吐く黒い犬が、首を上下に揺らしながらにじり寄ってくる。犬がそれぞれに低い唸り声を上げていた。

 その犬達の顔はよく見えなかった。だが、闇夜の中に鈍く光る双眸は飢える肉食獣を想起させていた。犬から威圧を受け取ったハルは背中に悪寒を走らせた。

 ――やはり、ただの犬では、ないな。

 犬だと思いたいというのは自分の希望が描いている虚像に過ぎない。気を取り直し考えを正した。


 緊迫する空気、辺りに充満する獣臭。その臭気が風とともに動いた瞬間、黒い影が一つ、正面から唸り声を上げて飛びかかってきた。反射的にそれを薙ぎ払うがしかし、手にした金属バットはむなしく空を切った。目は確かに相手を捉えていたし、当てた自信もあった。それでも犬の動きは、軽々と想像の範疇を飛び越えてしまった。 戸惑う間にハルはその犬に後ろを取られてしまう。


――しまった! 逃げ道が。と声を出したのも束の間のことだった。左右にいた犬が消えた。その二匹を目で追う余裕はなかった。慌てて左右を見やるが犬は見えない。

 犬に気が付いたのは、手にした金属バットを宙に持って行かれるところとろでだった。

 犬によって、手にするバットごと身体を引っ張られ体勢が崩れる。それでもハルは踏ん張りを見せ、これだけは離せないとグリップを持つ手に力を込めた。

 だが、それでは敵の攻撃は防げない。消えていたもう一頭の頭がハルの脇腹に突進してきたと思うや、ハルの身体は引かれるバットとは逆の方向へと突き飛ばされてしまった。


 犬の頭部を身体が受け止めた瞬間、骨がみしりっと嫌な音を鳴らしていた。

 犬の頭突きの衝撃に、数秒の間呼吸を失う。子供を置き去りにしてはじき飛ばされた身体が横倒しのまま宙を彷徨った。

 視界が暗み目がかすむ。意識がちゃんとあるのかどうかさえも自覚出来なかった。

 だが、敵は休んではくれない。伏せるがまま地面に着いていた耳が軽い調子の足音と震動を捉えた。

 更なる追い打ちを感じ取ったハルは、飛んでしまいそうになっていた意識を強引に引き戻した。


 ――この子だけでもなんとか助けてやりたいが……。


 危険なことだとは分かっていた。いや分かっているつもりだった。だがやはり甘かった。自分の行いはあまりに無謀であった。それでもなんとかせねばならないと思う。痛む身体を引きずり、なんとか子供へと歩み寄る。ハルは子供の無事を確かめ、声を掛けた。

 

「安心しろとまでは言えないけど、それでも大丈夫だから。きっと助けてやるから」


 自信は無かった。その慰めのような言葉も半分は自分に向けて言ったものだった。

 子供が虚ろな目をしたままハルの言葉に微笑みで応えた。

 果たして自分が遭遇しているこの事態は現実なのであろうか。

 相手が普通の犬であったならどれ程よかっただろうか……。

 ハルは、子供を抱いたまま、片膝をつくようにして再び立ち上がった。

 

 ――なんとか、ここから逃れる手立てはないのか……。


 闇の中、右手の方には校舎が見えていた。その校舎の所々には点々と避難口誘導の緑が光っていた。

 今、立たされているこの窮地。そこから脱する術を思い巡らすとき、安全を示すその緑の灯火ともしびがなんとも空々しいものに思えた。


 この時ハルは、グラウンドの奥まで押し込まれそこに設置された野球のバックネットを背にしていた。その後方には裏山がある。現状、そこに逃げ込むことが最も有効な気がした。しかし、自分の足は決して早いほうではない。相対する犬は早い。全力で走ってみたところで、子供を抱えながらでどれ程のことが出来るのだろうか。

 前方の犬の後ろに広いグラウンドを見渡す、真正面に一頭。左右に一頭ずつが構えていた。敵との今の距離は、三頭それぞれに十メートルほど。これではバックネットを回り込んでいる余裕は無い。

 これは、つまりは囲まれていて逃げ場所がないということになる。それならば、挑んでいかねば活路はないということだ。


「そう言えば……。これも深入りってことになるのか……」


 今更ながらに思う。本当に自分はどうかしていたと笑んだ。

 ハルは覚悟を決めた。このようなところで死ぬわけにはいかない。何よりも、この子供だけは助けなければならない。ならば戦うしかない。

 じりじりとバックネットの際まで下がり、そこに子供を横たえさせた。


「きっと助けるから……」

 言いながらそっと子供の髪を撫でた。ハルは再び犬達に向き合った。


「来いよ! やるんだろ!」

 ハルが叫ぶのと同時に犬達が飛びかかってきた。

 正面の犬が並ではない跳躍を見せたかと思うと上空から牙を降らせて来た。その犬を待ち構えて迎え撃った。だが再び金属バットは空を切った。


「くそっ! マジか! なんで身体をすり抜けるんだよ!」


 言いながら、それもそうかと思う。相手はただの犬ではないのだ。相手が化け物ならばこのようなことも十分にあり得ることだ。

 だがそれならば、自分にはもう為す術がないということになる。逃げることも封じられ、攻撃することも出来ないとなれば万事休すである。事態はもう詰んでしまっている。


――どうする……どうしたらいい……。


 焦るばかりで手立てなど思い浮かばなかった。そうしているうちに横手から一頭が飛び込んできた。すかさず手を出したが今度もバットは当たらない。

 ハルは泳ぐように体勢を崩した。


「くそっ! どうすんだよこれ」

 バットを飛び越えた黒い犬が向こうで反転を見せると、別の一頭が背後から突っ込んできてハルを突き飛ばした。


 グラウンドを転げるようにして飛ばされたハルは遂にバットを手放してしまう。

 その後のハルは、犬達のなすがままにいたぶられることになった。時折立ち上がってみせるものの、それは犬達の興じる様に付き合わされているだけだった。

 理解していた。すぐに殺されるのではない。存分に苦しめられてからその時がくるのだろうと。

 起きれば倒され、倒れても遊び足りぬと言わぬばかりに起こされる。力を失った拳を振り回したとて、そのような攻撃は当たるはずもない。無様を見せるハルを犬達が笑っていた。嘲笑が聞こえてくるようであった。

 ついにハルの心が折れる。気力も体力も使い果たしたハルは、最後に僅かに残った気力を使い地を這うようにして子供の元へと向かった。


「ごめんよ……」そこでハルの力は尽きた。


 グラウンドに伏せ、子供に手を伸ばすようにしていたハルの身体が犬の鼻先によって仰向けへとひっくり返された。残りの二頭もひしひしと近づいてきているようだった。――これで終わりか。

 ぼんやりとしか見えていない目が犬の顔を認識した。近づいてきた犬が大きな口を開けて自分の喉を食い破ろうとしているのだと分かった。程なくして顔に生暖かい息がかかる。


「本当に、ごめんね……。僕は……また、助けられなかったんだね……」


 朦朧とする意識のうちに言葉を発して、ハルは目を閉じた。

 これでやっと、家族の元にいけるのか。家族の笑顔を思い浮かべると自然に涙が溢れて耳の方へと伝い落ちていった。

 だがその時だった。ハルは閉じた瞼に光を感じた。直後、耳が轟きを捉えた。

 なんだ? と思ったが力を使い果たしていた身体は動かなかった。

 何かが起こったということは分かるのだが意識も揺らいでいて思考が定まらなかった。しかしどうやら命拾いはしたようである。命を刈り取る獣の牙が一向に自分にとどめを刺してこなかったからだ。と、そこで、自分に話しかけてくる声を聞いた。


「だから言ったのに……」

 溜め息交じりに話すその声にはどこか聞き覚えがあった。


「それにしても……。これはまた、いいように遊んでくれたものだな」


 敵に向かって放ったであろうその台詞は、とても聞き捨てならないことであった。

 今のこの事態を見て「遊ばれている」とは一体どういうことなのだろうか。危険を冒してまで子供を助けようとしたのに。その上で死にかけているのに。そのことを、軽い調子で遊ばれたなどと言われてしまったことは心外だった。


 ハルは、なんとか声のする方へと顔を向けた。朱が炎のように揺れているのが見えた。


 ――火、ではない? ……あれは、髪、なのか?


 少女が一人、自分達を背に庇うようにして立っていた。少女の後ろ姿を見てすぐに巫女だと思ったが、それでも立ち姿に違和感もあった。

 ハルにはその姿がはっきり見えている訳ではなかった。ただ、どこか見覚えのあるその装束を見てそう思っただけであった。


「さて、とっとと片付けるとするか」

 巫女は、さらりと言ってのけると、真横に伸ばした右腕の先で何かを扇状に広げた。戦意を発した巫女は何事か唱えるようにして言葉を発した後、手の内に広げたものを宙へと放った。途端に閃光が走り、轟音が響く。巫女が生じさせたいかづちは瞬く間に三頭の獣を討ち滅ぼしてしまった。

 ハルは全身に感じる激しい痛みと疼きの中で、ぼんやりと巫女の仕業を見ていた。


 ――いったい何故、巫女さんがここに……。


 唐突に現れた巫女。妖怪と対峙する巫女というシチュエーションはどこか腑に落ちる気もするが、学校に巫女装束というのはおよそそぐわない気がした。それでも、どうやらこれで子供は助かった。

「本当に良かった」と唇を動かす。ようやく安息を得て、ハルはゆっくりと意識を失わせていった。深い水の底に沈んでいくようなその感覚の中で、ハルは巫女の言葉を聞く。


「ハルちゃん、これでもう分かっただろ。嵌められたんだぞ。――おまえはあいつに殺されそうになったんだぞ……」


 ――嵌められた? ハル、ちゃん? ……。


 夢現ゆめうつつの中で生じた疑問は、声にはならなかった。

 その和装の少女に覚えがあるような気もしていた。白い小袖に朱い袴、そして、炎のように揺れる長く朱い髪。


 ――いや、あれは髪ではないのか……。


 連獅子を思わせる赤い髪のようなもの……。少女の愁いに満ちた面影は、少女が被っている鬼面が見せているものだった。

 ゆっくりと持ち上げられていく鬼面の下に徐に見えてくる白い肌と桃色の唇。


 ――君、は、誰? ……

 ハルの意識は、そこで完全に落ちた。

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