第4話 空飛ぶ猫
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終業の鐘が鳴るのも、終わりのホームルームに担任が話す言葉も耳には入ってこなかった。とにかく、今日という日がこのままで何事もなく終わって欲しいと願っていた。
あの時、自分と茜の姿が、遠く二階の窓からどのように見えていたのかは分からない。事実は、息巻きながら茜のスカートの中を覗こうとしていたということだったが、果たして、あの遠目から自分の目線がスカートの奥に向いていたことが見えていただろうかと考えれば、そこには多少なりと救いがあるのではないかと思えてくる。
――いや、これも希望的観測だろうか……。
時間を戻せないように、やってしまった過ちを帳消しにすることは出来ない。
机に突っ伏したままで溜め息をつく。そのあと、諦め半分の気分で教室から外へ出た。すでに多くの生徒が廊下に出ていた。大勢の人間が口々に話す不規則な音と、そこかしこから聞こえてくる雑音に気後れをする。その場の活気に息が詰まるようになった。
そんな
昼間の醜態を鬼怒川茜が周囲に漏らしたということもなさそうだった。これならば、とりあえずは安堵しても良いであろう。
それでもまだ、気持ちはどこか落ち着かなかった。だからハルは、気分転換のために寄り道をすることにした。
ただし、とハルは予感する。普段と違う行動をすれば、それだけ普段とは違う場面に遭遇しやすいとうことに他ならない。立て続けに変事に遭遇しているのならば、この日も用心をするべきだ。奇事は重ねて起きるのだということも推して然るべきであろう。ハルはもう一度、用心のために左右を見回した。
寄り道のために立ち寄った商店街は街の中心部にある。学校からそこまでの数キロは軽快に自転車を走らせた。
アーケードに差し掛かり多くの人が行き交うのを見て自転車を降りた。
そこでハルは思わぬ者の姿を見る。
――あれ? あれは、姫? 姫じゃないのか?
白銀の長い毛並みに緑色の瞳、そして、普通の猫にはない特徴的なその二本の尻尾。賑わいを見せる雑踏の中に飼い猫の姿を見た。
もっとも、飼い猫といっても姫は昨日、我が家に迷い込んできただけだったので、完全に居着いているのかどうかは不明であったのだが。
ともかく、人混みの向こう側に姫を見つけた。一体どうしてこのようなところに姫がいるのかと首を傾げる。それと、このように目のおけない美しい猫が衆目の前で空気の一部であるかのごとく誰の気にも留められて居ないことを不思議に思った。
姫はまるで気配を絶っているかのようだった。
ハルは、姫の有様と周りの景色との間にズレのようなものを感じていた。
多くの人間が行き交う雑多な空間の中で、悠々と佇んでいる姫の姿に違和感を持った。
姫がいる場所と、人がいる場所が同じようで同じでない。姫は、無理にコラージュされた画像のように背景から浮き出ていた。姫の存在と世界がまるで交差をしていなかった。そんな姫の元に急ぎ駆け寄ろうとした。しかし姫は、直ぐに目を切って姿を消してしまう。結局のところ、ハルは幻惑の正体を掴むことが出来なかった。
――太陽はすっかりと西の稜線に沈み、深い夕暮れ時の空には僅かな明るさが惜しみを残すだけとなっていた。夜の始まりを伝えるような薄い紺の夜空に、金星がひとり勇むようにぽつりと輝きを見せていた。
夕闇を感じた自転車のライトが早々と点灯を開始していた。勢いよく路肩を走れば、家路へと急ぐ対向車のライトが秒刻みで目に差し込んでくるようだった。
この日の帰宅の時間はいつもより遅かったが、そのことを取り立てて心配する者はいない。
自分のことを気に掛けてくれる家族はもうこの世にはいなかった。ハルは幼い頃に愛する両親と妹を一度に失っていた。
ハルは叔父の横山尚仁と二人住まいをしていた。その叔父は独身貴族であった。 彼にも家族は居なかった。自分とは一回り歳が違う彼に、恋人がいるかどうかは分からない。そのことについては、特に心配してやる必要もなかったのだが、彼の職業を考えると些か不憫にも思う。彼は若くして寺の住職であった。自身を「イケメン住職」などと称して喜んでいるが、世辞にも賛同はしがたかった。
寺の敷地は広い。その広い場所に男が二人だけで暮らす様にはどこか物悲しさもあった。それでも、その広さに救われることもある。むさくるしいよりはマシだと思う。
ただ、時より無性に女性の気配が恋しくなることもあった。それが、母親を慕う気持ちからくるのか、または思春期がなせることであるのかは自分にも分からない。
家族を思えば、胸の片隅に寂しさが湧いてきた。それでもあの事故からはもう数年が経過している。幼かった自分も高校生になった。もうあの頃のように子供ではない。
ハルはペダルを踏む足に力を込めた。そうして、まだ春になりきらない重い空気を振り切るようにして走った。
点々と並んだ街頭が走路を照らしていた。立ち寄っていた商店街を出てからもう何分が経過しただろうか、辺りはすっかりと暗くなっていて、進む視界の中には照明に照らされるものだけが映り込んできていた。取り巻く空気はすっかりと闇に溶けていた。
家路へと向かう時、商店街を背にして少しだけ学校の方へと戻ることになる。そのことで学校のことを思い出し、この日あった出来事を思い返す事となった。
昼休みに、茜は「深入りするな」と、言ってきた。その言葉の意味を考えながら自転車を走らせる。
――確か茜ちゃんは、忠告しにきたって言ってたよな……茜ちゃんが忠告してきたこと……それが深入りするなということで、だけど……。茜ちゃんは、いったい何に深入りするなと言いたかったのか……。そう言えば……。
茜は深入りするなと忠告した後で、思い当たらなければそれでいいとも言っていた。そのことについて、あの時は深くは考えなかった。他愛ないことだと思っていた。
――だけど。
何も無いとはいえなかった。そこに思い至って少し心がザワついた。
考えてもみれば確かに自分には思い当たる節があった。
だがしかし、茜が言ったところの意味が、今の自分の考えと一致しているということに確証が持てない。何故なら、昨日のあれは、自分の身に起きた妖との出来事であったからだ。
当事者の自分でさえ、未だに信じがたいことだと思ってしまう。そのような眉唾物の出来事を、平穏な日常を営むごく普通の人間が認知をすることなどはない。
仮に、茜が何らかの事情を知っているというなら話は別であるが、そのようなこともありえないだろう。鬼怒川茜はどうみても普通の女子高生だ。
――あの髪の色以外はだけれど。
それに。仙里は自分に言った。「わたしのことを他者に話せば……」と。そのことを言い換えれば、それは自分と仙里だけの秘密ということになるのではないのか。
「 やはりありえないな……妖怪と
いつしか足は止まっていた。自転車を路肩で止めて夜空を見上げていた。
そこには、吸い込まれそうなくらいに澄んだ美しい黒が広がっていた。
ハルは、一連の出来事を考えても仕方の無いことだと結論づけた。息を一つ吐いてから笑む。そうして再び家路につこうとペダルに足を掛けたその時だった。
空から少し下げた視線の先、道路を照らしている街灯の頭の上に銀の塊を見つけた。
見て直ぐに姫だと思った。だが、目にしているその光景が信じられなかった。
だから目をこすって二度見して確かめた。
高く突き出した鉄の柱を下からなぞる。鉄柱は上に行くほど細くなり、上部で湾曲して先の方に楕円の照明器具を備え付けている。そこに、その丸い照明の真上に優美な立ち姿を見せる二本の尾を持つ猫がいた。その肢体は下方を照らす器具の上で、僅かに上に漏れる光を受けるだけだったが、見えるその色はまごうことなき姫の銀色だった。しかし、どうやったら猫があのような高いところに登れるのか……。
「姫!」
ハルは呼んだ。すると、すぐに声に反応した姫が高き場所から視線を落としてきた。
「危ないぞ! どうすんだよ。そんな高いところから降りてこられるのか!」
大きな声で訪ねた。姫のことを危惧しながらも何故か焦りはなかった。何とか助けてやらねばならないとは思っていたが、ハルとて高所にいる姫のことをどうすることも出来ない。せいぜい落ちてくるところを受け止めるしかないと考えていたとき、予想外の事が目の前で起こった。
あたふたしながら問いかけるハルを横目で見た後、フッと失笑したかにみえた猫が勢いよく空中に飛び出したのだ。
姫は飛んだが、落ちてくるのではなかった。
空を舞った姫がゆっくりと下降していく。そして、車道を流れてくる車の屋根に柔らかく着地すると、次々と走ってくる車の上をポンポンと軽やかに渡っていった。
気が付けば飛び去る姫の後ろ姿を追いかけていた。姫の八艘飛びを目で追っていた。放物線を描くような銀の線を信じられない気持ちで見ていた。後を追う最中、姫は時よりハルの視界から消えたのだが、それでも銀の軌跡を描きながら高いところを飛び跳ねるようにして移動する姫を完全に見失うことはなかった。
夢中で追いかけていた。この時ハルは、自分がどこをどう走っているのかということは考えなかった。ただ、姫が何故このようなことをしているのかが知りたかった。
ついに姫へと追いついた。完全に息が切れていた。ハルは自転車を停め空を見上げひとつだけ大きく息を吸って吐いた。そうして気づいた。見回せば、そこは昼間とは全く違う様相を呈していた。辺りは閑散として人の気配もなかった。ハルは自分の通う学校に戻ってきていた。
「まったく。なんなんだよ。これってどういうことなんだ」
時間の感覚など、とうに失せていた。今が何時であるかなどすっかりと失念していた。
これはやらかしてしまったなと思いながら時間を確認する。ポケットから携帯端末を取り出すとなんと時はすでに夜の十時を過ぎていた。さすがにこれは不味いだろうと思い、取り急ぎこれから帰るとのメッセージを尚仁の携帯に送った。その時だった。唐突にハルは声を拾う。いや脳裏に直接声が響いたようだった。
「助けて! 誰か、助けて下さい!」
助けを呼ぶ声は、幼い子供の声のようだった。直ぐに思ったことは、助けるということだった。だが、経験則が足を止めさせる。自分が抱く感覚に既視感を覚えていた。
ハルは、前日に起こった仙里との出会いの場面を思い起こしていた。あの時に感じた恐怖を思い出していた。それに、今しがたまで身に起きていたことも考慮せねばならないと考えた。空飛ぶ猫を追って来たなど、常軌を逸しているにも程がある。昨日も今日も、そしてここに来るまでも散々と不思議を見せられてきた。商店街で見た姫の虚像。銀の糸を引くような姫の軌跡。姫が、何かを探すように街中を飛び回っていたその理由も分からないままであった。その姫が学校の中に消えてしまっている。この先に一体何があるというのだろうか。今ほど聞こえてきた悲鳴と姫とは関わりがあるのだろうか。様々な疑問が心に溢れた。
何をどう考えても分からないことだらけだった。だが、そんな自分でも分かったことがあった。
ハルにはもう、姫が普通の猫ではないということだけは理解出来ていた。
そしてこれは、ありきたりな日常からかけ離れている出来事であろう。
「嫌! 来ないで――」
また、声が聞こえた。
その声は校舎の向こう側にあるグラウンドの方から聞こえてきていた。震える声は先ほどよりも切迫していた。それでもハルは思っていた。これは人の声ではないだろうと。ならば、これは人が近づいてはならない事態に違いないのだ。考える必要も無い。悲鳴を聞いて焦る必要も無い。ハルは冷静だった。
自分の考えを肯定する材料も山ほど思いつく。このような時間に幼い子供が、高校のグラウンドにいる理由がない。自分が通っているこの学校は街外れにあって周囲に住宅なども無い。周囲を山や田畑に囲まれているこのような場所に子供が一人でいることの方が不自然なのだ。やはり、ここは声を無視して帰るべきだと考えた。出来れば助けてあげたいと思う。姫のことも気になっている。しかしこの事態には決して踏み込んではいけない。絶対に危険だ。
自転車の方向を転換して家路へと向いた。危機を訴え、救いを求める声に対して何も行動を起こさないことに一抹の罪悪感はあったのだが。
――だからといって、僕に何が出来るわけじゃない。分かるんだ。何となくだけどあの声は人じゃない。きっと妖怪のものだ。
僅かに後ろ髪を引かれる思いがした。それでも、今のこの危機を悟る感覚は仙里と縁を結んだからこそ感じられるのだという確信がハルにはあった。
「――様! どこに、どこにおいでなのですか。あ……さま……。どうか……」
縋るような声が、ハルの胸を背中から刺した。
「駄目だ。駄目だ」
ハルは目を閉じ首を振った。
「――様。どうか助け……」
救いを求める声が、先ほどよりも弱くなった気がした。
「無理です……。ごめんなさい。僕には出来ないです……」
うつむいて歯を食いしばった。ハルは思いを振り切って帰路へと足を踏み出した。
「きゃあああ!」
一際大きな悲鳴がした。
「ああ! もう! 駄目だって言ってるだろ! 助けてくれっていったって、僕なんかには何も出来ないんだよ! 無理なんだよ」
吐き出された言葉とともに投げ出された自転車が、そのまま横倒しになって校門の前に捨てられた。ハルは閉じた門を飛び越え、悲鳴のしたグラウンドへと向かった。
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