第3話 朱髪の少女

              -3-

 ――青い空が綺麗だ。

 この日も、そんなとりとめも無いことを漠然と思いながら空を見上げていた。

 校舎の裏手にあるその場所はお気に入りの場所だった。

 その緑に囲まれた一角で、横たわって何気なしに空を見上げていた。

 昼食はいつも通りにパンとジュースであり、その簡易な食事は直ぐに終わってしまう。だからハルはいつものように長い時間を持て余すようにして昼休みを過ごしていた。


 ――と言いたかったが、今日も少し様相が違った。

 空を見上げていた。いつもと変わりのない日課のような時間になるはずだった。しかし、この日の変化にハルは気付いてしまった。


 空を見上げる視線をもう少し脳天の方へ、上方へと上げれば頭上のそこにそれはある。瞬時に考えた。こんな事態に遭遇してしまえば、欲求のまま、心に正義の火を灯し意気を揚げるしかないではないか。渇望せよ男子! それを望まぬ者はもはや男ではない。


 頭上で、スカートのプリーツがそよ風に吹かれてユルユルとそよいでいた。

 意気込んだ。鼓動は大きく波を打っていた。迸る熱情は滾っていた。

 それは余りに甘い誘いであった。

 気取られぬように素早く左右に眼球を動かす。白く透き通るような二本の足を、見た。


 ――もう少し、あと少し……。

 しかし残念だが、そこに目は届かなかった。そしてこれは人間の限界だった。

 紺色はこんなにも風に揺らめいているのに、その紺色はギリギリのところで奥にある秘部を遮蔽していた。まさに絶妙だった。


 ――くっ、ううう。

 歯痒さに身悶えしていた。

 九割の本能に一割の理性。今のハルはそんな状態であった。もう少し、あと少しと煩悩が背中を押してくる。

 そんな時だった。心を焦らすように弄んでいた風がその強さを少しだけ増した。

 前髪を揺らす程の風が顔の真上を通りぬけると、邪魔をしていた紺色が今までより大きく揺れた。


 ――お、おお!

 その自然の恵みにより、揺れる心は指針を煩悩へと大きく振り切らせてしまった。

 風が過ぎ去った後の、そこにはもう理性はなかった。

 鼓動がどんどん大きくなる。もはや周囲が見えなくなっていた。音も聞こえなくなっていた。


 そして、山が動く。


「まったく……。なんて情けないやつだ。いいように遊ばれやがって……。それにしても、そんなにスカートの中が見たいのか? いいよ。なら見せてやるよ」


 見せてやる。という言葉だけが頭の中を巡った。他にも何か言われたようだがどうでもいいという気持ちになっていた。

 だが、そこで冷たい空気がハル首筋を撫でる。ハッと我に返った。とっさに視線が泳いだ。いや、逃げた。考えた。ひょっとするとこれは、とても不味いことなのではないのか。どうも話がうますぎる。この出来事は天からの恵みなどではなく、悪魔の罠なのではないのか。


 しかし事態は進行する。話しかけてきた女生徒は、ハルの気持ちには何の関心も寄せずに一歩前に歩みを進めようとした。

 踏み出そうとする足の気配を受け取ると、心は再び揺れ始めた。それでも僅かに残った理性が欲望を抑え込もうとする。


『見たいのか。見せてやるよ。見たいのか。見せてやるよ。見たいのか……』

 ハルのセンサーはその女生徒の言葉を正しく判定しようとしていた。

 結果、出した結論は青信号だった。行き着いた正否判定は当然の如く「正」であった。


「肯定だ!」

 これで能動的という事実が消え、なおかつ不可抗力という武器を手にすることが出来たと結論付けてしまった。

 元よりハルが性による縛りから脱することなど出来るはずもない。

 それでも心のどこかに迷いは残っている。だから、残る理性で理論を再構築して逃げ場を残した。


 ――仕方の無いことである。見せられてしまったのだ。だから僕に罪はない。

 ハルは愚かにも、餌を与えられる飼い犬のように鼻息を荒らして待ってしまった。

 ドキドキしていた。この時既に天に感謝していた。

 だが、そこまでだった。


「なんだと!」

 思わず声が出てしまったことに、慌てて手で口を塞いだ。

 スカートの中が見える寸前のところで、女生徒は紺色の生地を手で押さえながら、持ち上げた足をさっと後ろに引いた。

 なんて始末の悪い結末なのだろうか……。男の子の夢は意図も容易く破れ去り、破廉恥な青少年の姿だけがその場に取り残されてしまった。


「なんだよ、そんな悲しそうな。まるで生き仏になり損ねた僧正が断末魔に悔やんでそのまま乾いてミイラになってしまったような顔をしているじゃないか」


「どんな顔だ!」

 訳の分からぬ御託を受け、反射的に言葉を返す。だが自分の顔を見下げる女生徒の、見透すような目を見れば顔から火が吹き出した。ハルの心は後悔に塗れてしまった。


「見せるわけ無いだろう。この、ド変態」

「あ……」

 掠れた声を出しながら、純心は瓦解をしていった。

 だが、話はこれで終わらなかった。何かが心をザワつかせた。ハルは更なる追い打ちの予感を抱いた。


 ――なんだ!

 唐突に感じ取った。どこかに、この様を見ている存在がいる。

 どこから見られているのかも、また、いつから見られていたのかも分からない。

 ハルは、急いで自分達のことを見ている視線の出所を探した。もうこれ以上、無様を重ねるのはごめんだと思っていた。

 上体を起こし、ぐるりと周囲を見回す。まずは体育館の方を見た。次に渡り廊下の先に見える運動場を見る。そして最後に校舎の窓へ目を向ける。自分達の姿を見ることが出来る全ての場所をくまなく探した。


 ――どこだ!


「お、おい、何だ急に。何をそんなに……」

 言って女生徒も周囲を見回した。


「居た!」

 校舎二階の窓辺に、振り向き様に長い髪を揺らした女性の後ろ姿を見つけた。


「居たって、誰が……。どこに? 誰も居ないぞ」

 女生徒は首をかしげた。彼女にはどうやら見えなかったようである。だけれど自分の目は確かに校舎二階の窓からこちらを見ていた人影を見つけていた。ただし、それはあくまで人影だけであり、どこの誰かまでは分からなかった。


「み、見られていた……。全部、見られていた……。しかも女子に。これで、僕の青春は、終わった……」

 ガクリと項垂れて肩を落とした。


「見られていた? 終わった? あははは」

 ハルの落ち込む様子を見ながら、女性はどこか楽しげに笑っていた。


「な、何が、そんなにおかしいんだよ。元はといえば君が……って、ええ!」

 残された矜持で、何とかせねばなるまいと考えていた。だがこの時、狼狽よりも羞恥心よりもまず、目の前にしている女生徒の髪が気になってしまった。

 自分を見て笑っている女生徒の髪が、夕焼け空のような朱色をしていた。


 ――ありなのか? あの髪色って、うちの校則では有なのか?

 それにしてもと思う。このような目立つ髪の色をしているならば、今までに気付いていてもおかしくはないはずなのに。それに、あのように朱い髪をしていれば生徒たちの中でも噂にもなるだろう。だがハルは、その朱い髪の事を全く耳にしたことが無かった。思わぬ事で、スケベ心を見透かされ窮地に立たされていたハルであるが、自分のその様なところは棚に上げて、異様に美しい朱い色のことを考えてしまった。


 ――ハッ。

 今はそれどころではないと思い直した。

 確かに自分の性は明け透けになり、その事は既にもう目の前の少女に見透かされていた。それどころか、第三者にまで目撃されてしまっている。

 これは絶対に取り繕う必要があると強く思った。


 ――どうする……。

 とりあえずはこの場でだけでも何とか納めねばならない。蒼樹ハルが女子のパンツを覗き込んできたなどと言いふらされては堪ったものではない。

 これから純愛を基にした青春を謳歌しようとしている目論見がこんなところで破綻するのには耐えられなかった。


「残念だったな」

 少女が笑う。


「な、な、なんのことでしょう」

 意識を、これから予測される悲惨な未来から引き戻し、現在という時の中で身を守るために全力をもって惚けた。強い意志で急場を取り繕ってみた。だがそんな小手先の努力を女生徒は鼻で笑った。


「フッ、フフ」

「な、なんだよ」

 誤魔化すために強がってみる。しかし、どうやら遅きに失したようであった。

 その女生徒のしたり顔を見れば、もう何もかもが終わってしまっているように感じられた。露わになってしまった男心を隠したり仕舞ったりする場所はもうそこには無かった。


 ――うう、この蒼樹ハル、一生の不覚。だけれど、これでいいのか。まだ何か、出来ることがあるのじゃないのか。僕の青春は、僕の恋愛はまだその蕾みさえつけていないのに、こんなところで終わってしまうのか。――いや駄目だ。こんなところで負けちゃいけない。やるしかない。

 諦めなかった。だから残された気力を持って心の力を振り絞った。ここはとことんしらを切り通すのだ。


「ところで何か用なの? 君は? 誰?」

 正面から女生徒と向き合って、何食わぬ顔で会話を進めた。

 こうなればもう意地である。やるしかない。制服の下、シャツと素肌の間を妙な汗が流れた。


「あ、ああ。――私は隣のクラスの鬼怒川茜」

「きぬがわ、さん?」

「茜でいいよ」

「茜、ちゃん、さん、様、殿?」

「あははは、何言ってんの?」

 その返答に少し焦る。敬称を付けた事がかえって自分の後ろめたい気持ちを表してしまったのではないのかとも思った。


「あ、ああ、昨日、ちょっと敬称に煩いに人にあったもので……」

「ふーん……」

 といってどこか意味深に茜は目を細める。


「それで、それで君は、茜ちゃんは僕に何の用事があってここに?」

 訊ねると茜はニッと微笑む。


「まあ、用って事でもないんだけどね」

「……」

「そうだな。まあ強いて言えば、蒼樹ハル、お前とお近づきになる為にきた。ってところかな?」

「はあ……」

「あと、忠告もしに来た」

「忠告?」

「あまり深入りしない方が良い」

「深入り? それはどういうこと?」

「直ぐに思い当たる節がないならそれでいい。でも、少しでも思い当たるならやめておく方が良い」

「はあ……」


 いきなり目の前に現れ、希望を刈り取っていった鬼怒川茜との会話はそれで終わる。ハルは振り返り、一連の出来事の意味を考えた。一体何だったのだろうか。

 鬼怒川茜は忠告をしに来たと言っていた。それは言い換えれば「危ないぞ」という警告であろう。しかしどれだけ考えても、自分がどのような危機に深入りしようとしているのか思い浮かべることが出来なかった。


 ――わかんないな。何のことだ?


 暫く考えた後、お気楽な心は、「深入りするな」という忠告よりも「お近づき」という言葉の意味を考え始めた。

 その文字の意味は二つ。それは「知り合うこと」と「親しくなる」こと。


「はて? 茜ちゃんのいうところの意味はどちらだろう……」

 期待感を持つ心は勿論「親しくなる」を選択している。だから少しだけウキウキしていた。だが、大きな失敗をしてしまった後である。さすがに自意識過剰は禁物だと慎重にもなっていた。


「うーん……」

 顎に手を当てて唸った。

 ハルは、全てのことを自分にとって都合の良いように解釈した。

 あのように可愛いらしい女の子が、自ら男子に近付いてくるなどは珍しい事であろう。しかも彼女は自分を探して来てくれたのだ。


「やはりこれは、そうだこれは、モテ期の到来ではあるまいか」

 ふわりとした心持ちに浸る。夢見の様な気分の中にもいた。

 後ろの入り口から教室に入ると直ぐに仙里と目が合った。だが仙里は何故かこちらを向いてニヤついていた。まるで、小馬鹿にするような嫌な笑い方だった。


 ――な、なんだ?

 そのことを尋ねようとして仙里の方へ歩み寄ろうとした。しかし仙里は直ぐにプイと視線を外して横を向く。そういえば、仙里は昼休みにどこに行っていたのだろうか。昼休みに入った時にはもう仙里の姿はどこにもなかった。


 教室の中を見渡すが、そこには相変わらずの平穏があった。クラスの誰も妖怪である仙里を気にしている様子は無い。

 初めて教室の中で仙里を見た時には驚いたが、何食わぬ顔をして周囲の雰囲気に溶け込んでいたことには驚いた。仙里は、当たり前のように周囲と会話を交わしながら普通に授業に参加していた。


 それにしてもと考える。仙里のことといい、昼休みに会ったの鬼怒川茜のことといい、よくもまあ一日二日の間にこのように立て続けに色々な出来事に遭遇するものだ。このようなおかしな事を連続して体験してしまえば、頭のどこかには、まだ何かが起こるのではないのかと嫌な予感がしてくる。またこのように美少女との邂逅が連日のように自身に起きれば、よからぬ勘違いもしてしまいそうにもなる。いや、既に自分は勘違いしているのだろう。現に心はどこか浮かれてしまっている。


 ――分かっている。分かっているさ。僕の中にもまだ分別は残っている。ちゃんと理解はしているさ。これは勘違いなんだよな。

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