第2話 妖怪の涙

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 ハルにはそれが涙なのだと直ぐに分かった。切なさに胸が締め付けられた。

 声は出せたのだが、今度は掛ける言葉を見つけられない。

 冷たい雨が音もなく自分と少女を濡らすその空間で少女の涙から目が離せなくなっていた。

 硬直する心のままに、少女の伏した瞳がゆっくりと持ち上がるのを見る。ハルの意識は、じゃく々とその心悲うらがなしい仕草に引き込まれていった。

 少女のその瞳は、美しい緑色をしていた。それは、自ずと畏怖を抱かせてしまう程に澄んでいた。


「お前には、私が、見えているのか……」

 少女が言葉を発した。耳に入った旋律は電流のように身体中を走った。


「それは、どういう……」

 少女の言葉の意味を受け取る事さえ出来なかったハルである。返した言葉も曖昧なままになってしまった。


「……」

 少女から沈黙が返る。その僅かの間を受け取ってハッとした。


「見えているって、どういう……」

 無言のまま視線を向けてくる少女に訪ねた。だが、少女は、その問いかけには答えなかった。


「あ、い、いやぁ、なんだ。幽霊っていないと思っているもので。でも、もしも幽霊ならば、こうして実際にお会いするのも初めてで……」

 現実と虚構の境が曖昧になっていた。自分でも何を言っているのか分からなかった。そのことに、ただ慌てふためくハルだったが、見れば少女の唇は閉じたままで開く様子もない。無性に言葉を交えたいと思うのだが、どうやら少女には自分と会話をする気は無いようだった。


「だ、だけど、あれですよねぇ、幽霊も雨に濡れちゃうんですね」

「……」

「あ、雨に濡れちゃってるてことは、やっぱり幽霊じゃないのか」


 場を取り繕うように話し続けたが、やはり会話にはならなかった。

 視線だけはこちらに向けてはいるが、少女は無口で無表情だった。

 ハルは、息が詰まるようなその状況に、どんどんと追い詰められていく。

 何を言っても無関心な相手に対してどうしても間が持たない。だから仕方なく矢継ぎ早に言葉を並べるしかなかった。


「あの、えっと、ここで会ったのも運命というか。あ、違うな。へへへ、何かのご縁というか、だからなんだ、その、えっと……」


 気持ちはどんどんと上滑りをしていく。自分でも言った尻から話している事の意味が分からない。話がしたい。会話をしたい。いや、彼女の声をもう一度聞きたいと心底から少女の音を求めていた。しかし、どうにも彼女に口を開かせる事が出来なかった。

 願望のままに思いを巡らし考える。そうしてハルは、こうなればもう自棄やけになってでも話し続けるしかないと言う考えに行き着いた。


「あ、あの、その、あなたはここで何をなさっておられるのでしょうか?」

「……」

「こんな雨の中で、しかもずぶ濡れになって、あなたは……」

「……」


 少女は口を開かなかった。

 完全に空回りしている事はもう自覚していた。だが、とにかく、なんとか会話を成立させようとする。


「あ、あははは、そうですよね。見ず知らずの者にそんなこと聞かれてもってことですよねぇ」

「……」


 それでも、少女は言葉を発しなかった。

 ――もう駄目なのか。

 この少女もあの美猫と同じで自分に関心など持ってくれないのかと歯がみをする。だが、心が諦めに埋められようとしたその時、少女の口角が少し上がったのを見つけた。


「……であるな。お前には関係のない事だ」


 ようやく少女が口を開いた。美しい声が耳に届いた。

 高いわけでもなく低いわけでもない甘美なる音。その美しい旋律に心は高揚した。

 欲望が突き抜け渇望になる。声の余韻が耳の奥から消え去る前に次の「音」を求めた。激しい欲求が胸の奥から突き上げてくる。叫ぶ心。もっと声を聞かせてくれ。

 少女が自分に対して放ったものは拒絶の言葉であった。にも拘わらず、ハルはその辛辣な言葉にさえ喜びを感じていた。


「あ、いや、でも、これもご縁。もしお困りならば僕に何かお手伝い出来ることはありませんか?」

「……」

「あの……」

「去れ、人間」


 次の言葉もまた拒絶であった。だが、この時も心は少女の音に痺れた。酔っていた。そんなハルである。ここまで来ればもう心は揺るがなかった。だから少女の言葉尻を捉えて食い下がった。


「に、人間? では、それではやはりあなたは!」

「聞こえなかったのか? 私は、お前にこの場から去れと言ったのだが?」

 またまた次の言葉も拒絶である。しかも今度はそこには怒気が含まれていた。


 ――これは、もしかしたらヤバいことなのかもしれない。

 肌が粟立つ。咄嗟に命の危機を感じ取った。しかし、陶酔しながら鼻息が荒くなっている心は萎えることを忘れた。やる気に満ちていた。


「あ、ああ、そうですね」

 軽い感じで返す。しれっと会話を続けようとした。

 打たれては起き、起きては打たれる。そのような根気が自分の中にあったとは思いもよらなかったことだと我ながら感心もする。

 確かに怖さはあった。だが、切望する自分の心は不屈の意志を見せようとした。

 それでも実情は、つっけんどんな少女に対して、もはや頼みの綱は根性だけという有様だったのだが。

 その様子に少女は呆れた表情を見せて言葉を吐いた。


「やれやれ、八百年ぶりに話した人間がこのように相手に気遣いも出来ぬ不躾者ぶしつけものだとは……」


 少女は肩を落とし溜め息をついた。

 ハルはハルで八百年という言葉を耳にしても、それが長いのだか短いのだかを考える事はしなかった。いや、考える事を必要としなかった。今の今、命を燃やす自分にとってそれは些末な事。それに、目の前にいる少女が人間ではない事はもう承知の上であった。だからそのような事を考えても仕方のない事だと、それはもうきっぱりと割り切ってしまっていた。


「す、すみません。あ、いや、でも……」

「私を見て、かぶいておるつもりかもしれぬが止めておけ。私の事が見え、私の気に耐え、私に語り掛けることが出来たその気力は認めてやるが、私はお前など知らん。早々に失せるが良い。命は取らぬ」

「命を取る? それではあなたはやはり怨霊――」

「お、怨霊だと! 無礼な! この私に向かって怨霊とは何事であるか!」


 少女の増して増しての鋭い怒気が圧となってハルを叩いた。


「あ、あの、すみません、すみません。違う、のですね。失礼をいたしました」

 慌てて謝罪をする。


「……」

「すみません……」

「まぁ、よい。時は流れ世も変わった。我を知らぬのかと問うてもそれは詮無きことだ」

 少女の怒気が少し和らいだことを感じて、ほっと胸を撫で下ろした。


「あの……それで……あなたは?」

「様だ」

「え?」

「様を付けろ」

「あ、え、あ、えっと、はい。それであなた、様は……」

「うむ。それでよい」

「で、あなた様は一体?」

「お前が何故この私の気に当てられてここまで正気を保っておられるかは知らぬが、それでも、聞けば命が縮まるぞ。良いのか? お前には私と、このせんたる私と関わる覚悟があるのか?」

「セン? それって、なんのこと、でしょうか?」

「やれやれこれは全くもって呆けた奴であるな。 しかし、知らぬも致し方なしか……」

「す、すみません」

「私は『仙』である。もっとも、仙に転変するまでは妖ではあったのだがな」

「アヤカシ……ですか……。はあ……」

「なんだ、それも知らぬのか……」


 少女は手を額に当て俯くと、やれやれといって顔をしかめた。


「すみません……」

「怪異、妖怪、物の怪、そういった類いのもだ。これで分かるか?」

「よ、よ、妖怪!」

「まぁよい。蒙昧者もうまいものに説明しても仕方なし。それに面倒でもある――」

「そ、それで……」

「ん? なんだ?」

「あ、いや、あなた様の、その……お名前は……」

「やれやれ、不躾な上に、こうも無礼であるとはな……。まったく。これは流石にもう怒りも通りすぎるくらいであるな」

「は、はあ……すみません」

「……仕方が無い話してやる。よいか、よく聞けよ人間。我が種に名を尋ねる行為は人間にとって忌避すべきことであるのだ。その上に『仙』たる私に名を尋ねるは不敬極まりないこと」

「ふけい……」

「そして、そのことを知ってなお我が名を聞こうとするならば心して聞かねばならぬ」

「心して……。お、覚悟してということか」

「そうだ。覚悟をせねばならん。そして聞けば一つだけ誓わねばならぬことがある。それでも良いというのだな? 覚悟はあるのだな」

「誓い? ですか?」

「そうだ誓いだ。誓えば私という存在を知り、それを意識に留める事は出来る。しかし」

「しかし?」

「私のことを誰かに話せば命はない。話せば私はお前を殺さねばならぬ。そしてこれはことわりだ」

「ことわり……」

「どうだ? 恐ろしいだろう? 命が惜しかろう? 止めておくか?」


 言って嘲るように少女が微笑んだ。


「あ、あの……」

「なんだ?」

「僕にはあなたが人の命を簡単に奪う者には見えないのですが……」

「あははははっ! これは面白い事を言う」

「面白い? ですか」

「そうだな。私を見てそのような事を言ったのはお前が……」

「お前が?」

「よい! ともかく、これは私と人との間の理である。我が名を聞けばそこで盟約は成り、お前は私に縛られることになる。そして縛られた者が盟約を破れば……」

「盟約を破れば?」

「その者には死という罰が与えられる。どうだ人間? それでも私の名を聞きたいか?」


 妖を名乗る少女はハルに死を突き付けた。しかしそこに恐怖は無かった。自分にはもう家族も無い。それに自分はどうせ過去に一度、死にかけている。そう思えばその盟約とやらも然程の事でもないと思えた。

 逃すな。この少女のとの間には得体は知れないのだが自分を引き付ける何かを感じる。それはスリリングな恋の予感とも言い換えられるであろう。微塵の迷いも捨て去ろう。掴まねばならない。

 数多の星を浮かべる天にあともう少しで手が届きそうな気がする。いや、もう指先はそこに掛かっているのではないのか。天使が奇跡を降らせたようなこの出会いは正に大恋愛のビックチャンス。命がけの恋の予感であった。


「いいですよ!」

「え、えらく簡単に言うのだな」

「ええ。まぁいいかなぁって思いました。それに」

「それに?」

「言わなきゃいいんでしょ?」

「あ、ああ、まぁそうだな」


 少女は微笑んだ。顔を引きつらせて。


「では、お願いします」

「お、おお。そうか、で、では言うぞ。よいか。私は『仙狸せんり』と――」

「へぇ、センリさんて言うんだ!」

「そうだ。私は仙狸だ。そして――」

「で、それはどんな字を書くのですか?」

「はあ? 字だと? 字とは人間が使う文字というもののことか?」

「そう、文字です。センリとはどう書くのです?」

「あ、ああ、それはの……」


 言って少女はちょこんと顎に手を当て思案をする。そしてその後、人差し指で宙をなぞるようにして説明をした。


「仙はニンベンにヤマ、狸はケモノヘンにサトだ」

「ええっと、センは仙人の仙、リは……リは……え? タヌキ? 君ってもしかして……」

「断じていうぞ、私はタヌキなる者ではない! それに私は列記とした『仙』である!」


 ハルの言葉を遮って少女は断言をする。しかしそのようなことはどうでも良かった。ハルが気にしたのは、どうやら少女が自分の名に「たぬき」という字が使われていることを忌んでいるのではないのかということだった。ならばと思いつく。

 妖ならば、戸籍だのなんだのと人間社会の縛りはない。ならばいっそ充てる字を変えてしまえばいいのではないのか。


「それではよいか、人間、よく聞けよ、私の名は……。あ、いやルゥ-――」

「ねね、センリ、君はその字が嫌いなんだろう? ならばいっそ狸からケモノヘンを取っちゃえば?」

「はあ?」

「だからぁ、その変な名前をもっと美しくしようっていう話さ」

「……」

「いいでしょ? 妖なら戸籍とかって関係ないんだし。それに君はこんなに美しいんだから、名前もほら美しい感じの方が良いに決まっているでしょ。だから僕が考えてあげるよ」


 言いながら、ポンと一つ柏手かしわでを叩く。我ながら、これはとても良いアイデアだなと思い悦に入っていた。そして、その喜びのままに人差し指を使って宙に仙里と字を描く。


「お、お前、な、何を……。それにお前、なんだ……。お、おい、ちょ、ちょっと待て! 待て、人間、待て!」

「いいかい。それでは発表しまぁす!」

「待て! 待て、待て、待て、待て! お前、何を――」

「これからは、これからの君の名は……」

「お、おい! 人間、止めろ! お前、待て、それ以上――」

「これからの君の名は『仙里せんり』だ! 仙に里と書いて仙里だぁ!」


 少女の狼狽には目もくれず声高らかと宣言をした。だが、仙里を見ると何故がガックリと肩を落としている。


「え? どうかした、んですか?」


 心配になって声を掛けたが、仙里は恨めしそうに睨みつけてくるばかりで話をしようとはしない。

 仙里は口惜しそうに唇を噛んでいた。そして小刻みに体を震わせていた。


「あ、あの……仙里? ……あ、そっか! 『様』だったよね。じゃ、仙里、様?」

「う、う、ううう! 様など、様など要らぬわ!」

「え? あ? えええ? どうしちゃったのさ」

「お、おのれ人間! くっ、私にも油断があったとはいえこのような屈辱! 覚えておれよ!」

「……」


 仙里が何故これ程までに怒っているのか全く見当もつかなかった。そしてその理由を尋ねる事も出来なかった。何故なら、顔を赤らめた仙里は捨て台詞を吐いた直後にその場から姿を消してしまったから。境内には「覚えておれよ!」という言葉が木霊のように心に響いていた。

 この時、心にはっきりと淡い感情が芽生えていたことを自覚していた。

 ただし、ことはそうすんなりとは収まらなかった。

 仙里が去った後に彼女の見つめていた先を見ると、あの銀杏の巨木の太い幹に五寸釘が撃ち込まれた藁人形があったからだ。

 恋の予感と呪いの予感。天使と悪魔に同時に微笑みかけられたそんな気分になった。

 そうして銀杏の巨木の前に立ち尽くしていたハルはいつの間にか周囲にあったノイズが消えている事に気付く。あれだけ降っていた雨が止んでいた。

 見上げると空が明らんでいる。身に迫りくるようなその朱色はどこか怪しげではあったのだか、そこには胸が締め付けられるような切なさもあった。


 家に着くと叔父の横山よこやま尚仁ひさとが玄関先までタオルを持って来てくれた。


「ハル、風呂、沸かしといたから直ぐに入るといいぞ」

 何と気が利く人なのだろうと感謝した。だがしかし、そこでハルは驚く。また驚く。本日何度目だろうか。玄関で尚仁は美しい猫を大事そうに抱いていた。そうそれは銀の毛に緑眼のあの美猫だった。


「お、お前!」

 思わずその猫に声を掛ける。しかし声を掛けられた猫は、ハルを一瞥した後でフンと横を向いた。


「あらぁ、ハルってば嫌われちゃったねぇ」

 尚仁は愛しい眼差しを猫に向けその頭を撫でながらハルに言った。


「尚仁さん! その猫はどうしたんですか?」

「さぁて、どうしたんでしょうねぇ」

「どこで拾ってきたんです?」

「拾った? 違うよハル。姫はね、どうやらうちに迷い込んできちゃったみたいなんだよぉ」

「迷い込んできた? それに姫って? 姫って何ですか!」

「ああ、それね。ほらこの子ってばこんなに美しいだろ、それにどこか気高いっていうかぁ、凛として近寄りがたいっていうかさぁ、それでなんだか名前を付けづらくってさぁ、だから僕はこの子のことを姫と呼ぶことにしたんだよぉ」

「……」


 まったくなんて日だと思う。あまりに奇怪な出来事が凝縮していた一日だった。しかし、どことなく幸福に満ちあふれた一日でもあった。

 今度はいつ会えるのだろうかと仙里を思う。勿論のことあれは妖怪である。そうそう出会える存在ではない。しかし、自分と仙里はえにしで結ばれたのだ。そう自分はもう仙里という妖の名を知り、そして盟約を結んだ。だから遠からずまた会えるだろう。


 その夜は興奮して眠れなかった。あの美猫が家に迷い込んできていたことも勿論嬉しかったのだが、それにも増して仙里と出会えたことが嬉しかった。そしてハルは夜通しを掛けて仙里のことを考えた。

 しかし驚きはこれで終わらなかった。

 快晴になった次の日は自転車で登校をした。風が爽やかであった。意気揚々と足取りも軽い。いやはやなんともとご満悦。我が世の春を謳歌する。ハルは教室に飛び込んだ。しかし。


「――! な、な、なんだぁ!」

 なんと、教室の一番後ろの席に仙里が座っていた。


「あ、あ、あ……」

 これでもかと目を見開いて仙里を見る。そして教室の中を見まわす。雰囲気はいつもと変わりがなかった。

 あまりに普通に、以前からずっとそこに居たかの如く仙里は席に座っていた。


「な、なんだこれ……」

 と思った時に仙里と目が合った。そこで仙里に声を掛けようとした。

 だが、チラリと目を合わせた仙里は直ぐ目を切ってフンと横を向いてしまう。


 ――いったい、なんなんだ……。


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