第8話 雨の陰陽師
ー8ー
「僕が、仙里様の
そう呟き、しばらくの間ぼんやりと考えた。
いったい何故、いつからそんなことになったのだろうか。
「おそらくはここ数日のことだろう。何か思い当たることはないのか?」
「そう言われてもね……」
言いながら、出会いの場面を思い起こす。
あの時交わした仙里との会話を辿った。茜と真子は食い入るようにしてこちらを見ていた。
「仙里様と出会ったのはつい二日前だ。――あれは、大雨の中だった。僕は仙里様とあの社で出会ったんだ。……いや、違うな。始まりは違う気がする。なんだろう、もっと別な……」
思い出そうとしているうちに、ハルの頭の中で何かが重なろうとしていた。
「なんだよ、違うのか? お前、あの化け猫とどこで知り合ったんだ」
「猫? そうか! 姫だ! そう、だったんだ……」
銀色の毛並みと美しい緑の眼、銀色の髪と澄んだ緑の瞳。初めてその少女を見たとき自分は確かにその事を感じ取っていた。あの時自分は、仙里を見ていながら確かに、彼女にあの美猫の姿を重ねて見ていた。
「きっと、そうに違いない……。仙里様が姫であり、姫の正体が仙里様だったんだ」
今しがた、仙狸という妖怪が二本の尾を持つ猫の妖であると教えられていた。
自分が一昨日、この学校で出会ったのもの二本の尾を持つ美しい猫だった。ハルはその日、猫を探して仙里と出会った。
――しかし……。
分からない。茜は、仙里が自分を殺そうとしていたのだと言うが、それは本当のことなのだろうか。あの日、自分は本当に仙里に誘われていたのだろうか……。
「おい、蒼樹!」
「あ、ああ、茜ちゃん、ごめん」
「何をぼうっとしてるんだよ。続けるぞ。それで? それであいつと出会ってお前はどうしたんだ? その時何があったんだ?」
「僕は二日前にここで、この学校で姫と、あ、いや、銀色の猫と出会った。……その猫には二本の尾があったんだ。多分その猫が仙里様だったんだと思う」
「二日前……それで?」
「僕は、その猫のあまりの美しさに見惚れてしまって……。でもその時はその猫には無視をされちゃって……。だからその後、もう一度その猫に会えないものかと方々を歩き回ったんだ。そして、猫を探している内に社に辿り着いた。そこに仙里様がいたんだ」
「なるほど……仙狸はお前と知り合う前からこの学校に姿を現していたということになるのか……っておい、ちょっと待てよ。だとするならば、なんで……」
「え?」
「あ、いや、てっきり私は、お前に取り憑いた仙狸が何か悪さをする為に姿を見せていたのだと思っていたんだけどな……。でもそうじゃなかったのか……。だけど、それならば何故あいつはこんな所に……」
茜は釈然としない様子で眉根を寄せながら唸った。
「そう言えば、あの時、姫は何を見ていたんだろう……」
黙り込む茜を余所にして呟いた。そうして中庭での出来事をもう一度思い起こす。
ハルは、雨に打たれ、ずぶ濡れになりながら何かを見つめていた猫を思い浮かべた。
その記憶の中の猫は、どこか一点を食い入るように見ていた。
更に深く記憶をたぐる。あの時猫はハルに目もくれなかった。何かを見ていたその目は、まるで、獲物を見定めているというような厳しい目つきをしていた様にも思う。と、そこで、今朝の仙里の言葉を思い出した。
仙里は確か「私にも私の都合がある」と、いっていなかったか。
あの時、仙里は何を見ていたのか。仙里のいう都合とは何か。自分を殺そうとしていたと教えられたがそのことも含めて謎は深まるばかりだった。
「まったく、分からないことだらけだな。これはどうしたものやら」
茜がお手上げだというふうに両手を持ち上げた。
「ええっと、とにかく話を戻そうよ。その、まずは僕が仙里様の主? って事についてなんだけど……」
「ん? なんだ蒼樹。なんか思い出したのか?」
「あ、いや、茜ちゃんが、仙里様のことを
「それがどうかしたのか?」
「僕は、仙里様から名前を教えられるときに、その、何だ、僕は彼女の名前が『センリ』なんだと思ってしまっていたんだ。まさかそれが彼女達の種の名前だとは思わなかったんだ」
「それで?」
「センリというのが名前であると思い込んでいた僕は、彼女に『仙狸』とはどういう字を書くのかと尋ねたんだ。そして、その名前に『狸』という文字が使われていることを彼女が嫌がっているのだと思った僕は」
「お前は?」
「狸という文字から、ケモノヘンを取ってしまえば美しい名前になると提案したんだよ」
仙里との出会いについて、一連のことを思い出せば、名前について話していた時、確かに何かが起こったような様な気がする。それが何のことなのかは分からなかったのだが、あの時、自分が仙狸の名前を呼んだとき、確かに、彼女の態度がそれ以前とは違うようになったと思える。
「それで? だからどうだっていうんだ? その事が、お前が仙狸を従えた事とどう繋がるっていうんだ?」
茜は、さっぱり的を射ないといった感じであった。
「あ、いや、でも、あの時、僕がその、彼女の名を呼んだ直後、仙里様は恨めしそうに僕を見て、油断してしまったとかなんと言ったんだ。だから……」
確信はなかった。だが、その時の仙里の様子がやけに気になっていた。しかし茜は、ハルの言い分を全く意に介さずに肩を落とした。
「まったく、なんだよそれ。お前が仙狸のことを仙里と呼んだからって、それがなんで、妖を従えることになるんだよ」
「それは、そうなんだけど……」
「そもそもだ。さっきも言ったけど、あれは並の妖じゃないんだ。この私でさえあれがお前の教室に現れるまで気がつけなかったんだぞ。それに、これまでにもこの街中のどこにもあれの出現を予見させるものはなかった。あいつは、少しの気配すら感じさせなかったんだ。あれは相当にヤバい妖なんだと思う。そんなやつをだ、お前はしれっとして従えているという。それ程の化け物を従属させることなんて普通ではあり得ないんだ。それは余程の力がある者でも難しいことなんだぞ」
「はあ……」
「溜め息をつきたいのはこっちの方だよ。まったく、なんで普通なお前がそんなことに」
言って茜は呆れかえった。
「そう言われてもね。僕だって妖怪を知ったのはつい二日前のことなんだ。この世に妖怪なんてものが実在しているなんて夢にも思っていなかったんだ。だから、なんで妖を従えられているだって言われてもさ、そんなこと分かるわけ無いじゃないか! それに、僕には仙里様を従えている実感なんて無いんだ。こっちはさ、何にも分からないんだよ! それになんだよ、茜ちゃん、さっきから知ったふうな感じで話してるけど、隠し事ばっかじゃないか。昨夜のことにしてもそうだし、昨日の忠告にしたってさ。こっちのほうこそ、頭がおかしくなりそうなんだよ! 知ってることがあるなら話してくれてもいいじゃな――」
「世の中には、知る必要もないことってあるんだよ」
「なんだよそれ。僕は何の事情も知らずに死んじゃうところだったんだぞ!」
「し、仕方ないだろ。私だってまさかこんなことになるとは思ってもみなかったんだよ。大体さあ、お前が死にかけたってのは、自業自得じゃないのか。何の力も持たないくせに妖のもめ事に首を突っ込むなんて正気とは思えない」
「力? 力って何だよ! 無いだろうそんなもの。普通に考えればそんなものは無いよ。茜ちゃんだってそうじゃないのか? 昨日のあの巫女さんは確かに凄かったよ。でもあれは茜ちゃんじゃないんだろ。そう言ったろ。それなら、茜ちゃんだって僕と違わないだろ。なんだよ。茜ちゃんはいったい何を隠そうと――」
「フッ、フフフッ」
ハルと茜が会話をヒートアップさせようとしたその時、これまでずっと二人の会話を聞くだけだった真子がクスリと笑いを零し、二人の間に割って入ってきた。
「ど、どうしたんだい、真子」
拍子抜けしたハルが尋ねると、真子は数度小さく頷き、一人納得した様子を見せる。
『私、分かってしまいましたわ』
「分かった? 分かったって何を?」
『アメサマがあの仙狸を従える事が出来た訳を、です。きっとそれは、アメサマがあの仙狸の
「真名? 上書き?」
『真名とは、その者の霊的人格と結びついている名前のことを言います。いわばその者の
「真の名前……」
『おそらく、あの者は己の真名を聞かせることによってアメサマを縛ろうとしたのでしょう。しかしその腹づもりが、逆にアメサマに名を上書きされて縛られてしまった。と、そういうことになるのではないでしょうか』
「おいおい、ちょっと待ってよ真神殿。真名で縛るってことは聞いたことがあるけど、真名の書き換えなんて聞いたことないぞ」
『書き換えではありません。上書きですわ。私たち神獣の類いにも、もちろんですが真名はあります。そして私たちは主と認めた者に真名を呼ぶことを許すことで主従の契約を結びます。しかし主従の契約の証しとは真名を呼ばせる事だけにあらずでありまして、もう一つ、契約者から新しい名の提示を受け、その命名を許すことでも成立させることが出来るのです』
「新しい呼び名……」
『そうです。真名とは違う名をその者が受け入れれば、それをもって契約がなされるのです」
「し、しかし真神殿。あいつが、あの仙狸が易々と名を受け入れるなどありえないだろ」
『彼女が自ら受け入れたのではありませんよ』
「はあ?」
『受け入れさせたのです。強力な呪力によって彼女は名を受け入れさせられてしまったのですよ』
「ば、馬鹿な……なんで……」
『それは、決まっているじゃないですか。蒼樹ハル様がアメサマだからです』
いって狼の姿をした真子は嬉しそう微笑んだ。
「……真神殿、また、アメサマ、ですか」
茜が苦笑を見せる。
「あの、その事なんだけど」
「あん? なんだよ蒼樹」
「そのアメサマっていうのはいったい何なの? 皆、当然知っているというように話しているけど、僕にはそれが分からない。アメサマって何なの?」
「あ、ああ。そっか、そう言えばまだ説明してなかったっけ。そのアメサマってのはな――」
『その者、雨の
「ええっと、真子、出来れば日本語で……」
ハルは苦く笑い、頭を掻いた。そんなハルを見て呆れた茜が話す。
「大昔に、『雨の陰陽師』と呼ばれた者がいた。その者が『雨様』と呼ばれていた。簡単に言えばそういうことだ」
「陰陽師、陰陽師ってあの映画とかマンガに出てくる……」
「まあ、イメージとしては合っているな」
「はあ……。なるほど……。でもねえ……」
ハルは真子を見る。それに合わせるようにして茜も子供の狼を見た。真子は喜ぶようにして尾を激しく左右に振っていた。
「真神殿、嬉しそうですね。しかし、先ほどから何度も言っておりますが、雨様などはいないのですよ。あなたが何故、雨様に拘っておられるのか分かりませんが、諦めになられた方がいい。そして、これも言いましたが、この蒼樹ハルは雨様ではありません。これは間違いのないことなのですよ」
「いいえ。蒼樹ハル様は雨様です」
「真神殿……」
「誰が何と言っても私は信じます。蒼樹ハル様が雨様なのです。でないと私は、私は……」
「真神殿、私にはあなたの事情は分かりません。しかし、もうこれ以上、蒼樹ハルを巻き込まないで頂きたい」
茜が真子を見据える。そんな茜に対して、真子も負けじと気を張るようにして見返した。
「真神殿、侮らないで頂きたいものです。見えているのですよ、私には。あなたは確かに真神です。それに間違いは無い。しかし、あなたはもうその力のほぼ全てを失わせている……」
哀れむようにいって茜は視線を落とした。
『そ、それは……』
「何か余程の事情があるのだとは思います。そのことは何となく分かります。だが、その事を話すことが出来ない。そうなのでしょう。昨夜のことにしてもそうだ。あなたは事情も語らず直ぐに姿を隠してしまわれた。そして今も何も語ろうとしない。いや、あえて自らは口を開こうとせず、ご自身の事情に触れられないようにしていると言っていいのか」
『……』
「返事がない。ということは当たらずとも遠からずといったところでしょうか。……まあいいでしょう。しかし、この蒼樹ハルからは離れるようきつく忠告しておきます。神であるあなたが、今は人の影に
茜はきっぱりと言い切った。その語気を受けて真子の瞳が一瞬だけ厳しい色に染まった。だが、直ぐにその色を隠して笑みを浮かべる。
『私には、雨様が必要なのです。誰にも邪魔はさせません。蒼樹ハル様を諦めることを私は絶対に致しません』
「真神どの……」
茜は苦い顔をして俯いた。
『ハル様』
真子が茜から視線を外し見つめてきた。二人の様子を呆気にとられながら見ていたハルは、不意に名を呼ばれて慌ててしまった。
「あ、ああ、はい」
『雨様、いや、ハル様、これだけは申しておきます。一夜を共にした私なればこそ分かることもあるのです。あなたには、これから様々な苦難が待ち受けているでしょう。しかしそれは、あなたに救ってもらいたいという願いからくるものなのです。お願いです。どうかその者達にご慈悲をお与え下さいませ』
「真子……。でも、僕にはそんな、誰かを救う力なんて――」
『大丈夫でございますよ。あなたならきっと出来ます。それは、あなたの胸の中で休ませて頂いた私が保証いたします。それともう一つ」
「もう、一つ?」
『はい。今後、雨様は必ず現れましょう。あなたはきっと、雨様と強い縁で結ばれています」
「雨様……」
『雨様の匂いを放つあの仙狸と契約が結ばれたのは、ただの偶然とは思われません。因果は互いに引き寄せ合う。そういうものです』
「仙里様との因果……」
『どうか、ご自愛下さいませ。そしてご武運をお祈り申し上げます』
真子はちょこんと頭を垂れ後退りをした。
「ちょ、ちょっと待ってよ真子。どうするんだよ。君は何か困り事を抱えてるんじゃないのか!」
『それは、自力で何とか致します故に』
「そんな! だって君は力を失っているんだろう」
『大丈夫でございますよ、昨夜、少々お力を分けて頂きましたから』
「無茶だ! そんなの無理だよ! 行っちゃ駄目だ!」
『あら、このような私のことも心配して下さるのですか。ありがとうございます。雨様にご心配頂くなど、私は幸せ者でございますね。そうだ。ハル様、昨夜お助け頂いたお礼がまだでございましたね。しからばこれをお受け取り下さいませ』
真子は両目を閉じ祈りのような言葉を吐いた。途端に真子の額の上に光の玉が浮かんだ。その玉がゆっくりとハルへと向かう。
『どうか、お手をお出しになって下さいませ』
真子に言われるがままに両手を差し出した。すると光の玉がゆっくりとハルの手の中に降りてきた。そこには優しい温もりがあった。
『それは、我が一族に伝わる
「駄目だよ……。これは君の大切なものなんだろ」
『ふふ。宜しいのでございますよ。私にはもう必要の無いものでございます。私にとってそれはもう役目を果たし終えてしまったようなもの。そこに残された雨様の残り香が、こうして私とハル様との縁を繋いでくれたのですから』
「真子……」
『雨様、いや、ハル様、私はあなた様こそが雨様であると信じております』
真子が微笑んだ。ハルは、手の中にある温もりを見た。そこには灰色をした小さな丸い石があった。
「温かい……」
小さく言葉を漏らし、再び真子の方を見る。だが、そこにはもう真子の姿はなかった。
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