第22話 踏み込む者の覚悟
-22-
ハルは走った。その危機は直ぐそこにある。助けなければならない。
――もう嫌だ。あんな思いは二度とごめんだ。
恐怖に歪んだ少女の顔を思い出す。記憶の中に張り付いているその少女の声。「ああ……」とそれが彼女の最後の言葉だった。
その残された言葉の続きが何であったのかを、後から考えたが分からなかった。
自分の最後を覚悟して何かを言ったのか、あるいは何かを悔いていたのか。
あの事件の直後はそのどちらでもあるように思えていた。だがそれは、自身があの事件を自殺と思い込もうとしていたせいかもしれない。
あれは手を伸ばしても届かなかった命だった。命が空の中へと消える間際、ハルは少女と目を合わせていた。何かを訴えるようなその眼差しは、死を望む者のそれではなかった。きっと彼女は生きたかったに違いない。死にたくないと思ったに違いない。
悔しさを喉の奥へと押し込むように歯を食いしばった。
肺が痛むほどに走った。心臓の稼働速度は既に制限域に近い。それが危機を感じて分泌されたアドレナリンのせいなのか、限界を超えんばかりに走っているせいなのかはもはや分からなくなっている。とにかく、今ある全力をもって迫る危機を退けなければならない。
目的の場所は五階の一室。くしくもあの時と同じように階段を駆け上がっていた。
コンクリート剥き出しの階段は狭く、そこは学校の階段よりも更に螺旋を思わせる。
走り抜ける際に、階ごとに色分けされた扉をいくつか通り過ぎた。だが、くるくると回っているうちに、そこが何階であるのか認識出来なくなっていた。命を救う。その事だけを思い、ただひたすらに上り、まだか、と心に焦りだけを募らせていた。
現場に近づくほどに、ヒリつく肌に纏わり付く悪寒が強まった。そして、その部屋の扉の前に立ったときには、全身の肌が泡立っていた。
――凄まじいな。人の怨念っていっても、これ程のものになるのか。……だが、やらせはしない。まだだ。まだ間に合う。まだ何も聞こえてきていない。
呼び鈴を鳴らす。しかし反応はなかった。聞き耳を立てればドア越しにテレビの音声だけは聞こえてくる。確かに家の中には人の気配があった。だがそこには、当たり前にあるはずの生活音や話し声などはなかった。
「くそっ!」
いってハルは、錆の見える鉄のドアを叩いた。
「宮本さん! 宮本さん!」
この際だ、近所迷惑などとは言っていられない。ハルは声を張り上げて名前を呼んだ。その時。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
悲壮を帯びた男の子の叫び声を聞いた。その声を聞き咄嗟にドアノブに手を掛ける。丸いドアノブが回り扉がフッと引き寄せられた。
後はもう夢中だった。中の状態は分からない。そこに誰が何人いるのか、どんな悪意がいるのか。状況はどうなっているのか。はたして宮本円香は生きているのか。
とりあえず男の子がまだ生存していることだけは確かだった。在宅しているであろう他の家族がどうしているのかまでは分からない。まさか巻き添えになったということはないだろうが。
土足のままで上がり込んだ。玄関を入って狭い視界を抜けると直ぐにダイニングに入った。悪臭こそ無かったが、そこはお世辞にも良い環境とはいえなかった。まるで衛生的でない台所。部屋の中には雑多に積み上げられた雑誌とゴミ袋の山が見えた。
その部屋をぐるりと見回すがしかしそこに人の姿はなかった。
「お姉ちゃん……。お姉ちゃん……」
今度は、泣きじゃくる声を奥の部屋に聞いた。反射的に首を向け、そのまま駆け寄り、叩き付けるように襖を開けてその部屋に飛び込んだ。
――なっ!
へたり込むようにして泣いている小学生くらいの男の子が見えた。
そして、その小さな背中の向こう側、ちょうど男の子の頭の真上に白い素足が見えた。
部屋のちょうど真ん中で、少女が不自然に宙に浮かんで揺れていた。
「大丈夫か!」
ハルは声を張り上げた。大丈夫かと声を掛けたのは、その少女の生存を確認したからだった。良かったまだ生きている。まだ間に合う。とハルは意気をあげた。
「いま助けるからな!」
声を掛けると、少女の視線が横に動いてハルを捉えた。しかしその少女は危機に瀕しているにもかかわらず何故かハルを見て微笑んだ。それはまるで死を受け入れているかのようであった。それでも。
「見えているんだからな。今度ははっきり見えているんだからな!」
ハルの目は、両の手で少女の首を絞めるようにしている白い影を捉えていた。
急いで駆け寄り、白い影に向かって拳を放つ。しかしハルの身体はその勢いのままにつんのめってしまう。
――なんだよ!
負けじとハルは白い影を振り払おうとした。
だが、何度やってもハルの手は影をすり抜けるばかりでまるで捕まえることが出来ない。
――くそっ! やっぱりすり抜けるのか!
ハルは、あの夜の犬神との戦いを思い出した。あの時も手に持つ武器は化け物をすり抜けてしまい為す術がなかった。それでも、今回の敵はハルに対して干渉してこなかった。その理由がターゲットにしか触れられないということなのか、または目的を達成すること以外に興味が無いということなのかは分からない。とにかくその白い影はハルに見向きもしなかった。
――どうする……どうしたら……。
影には触れられない。だが実体ならそこにある。ハルは、少女にならば触れることは出来るだろうと考えた。そして直ぐに、その影と少女の間に割って入った。
影から少女を引き離した。しかし、付いてくる白い影の手はハルの身体を通過したまま少女の首から手を離さなかった。
「くそっ! 離せよ!」
ハルは少女を守るようにして抱きしめた。そしてその身体を床に降ろす。
片膝をつき、腕の中で少女を抱きかかえた。それでも影は少女の首から手を離さなかった。
「いい加減にしろっ! いったい何人殺せば気が済むんだ! お前は、お前は、こんなにも平然として人の命を奪うのか! お前、言ったよな。こいつらに罪があるんだって。殺されても仕方が無い罪があるって。でも、罪があれば殺してもいいのか」
訴えども、白い影は応えない。
「それでは、それではこいつを殺した罪はどうなる。お前の罪はどうなるんだよ!」
必至になって訴え続けた。それでも白い影は何も語らず頑としてその手を離さなかった。
「あ、ああ……」
少女の口から掠れる息とともに音が漏れ出た。
「大丈夫だ! 絶対助けるからな、だから頑張れ」
少女を励ます。
白い影の手は少女を掴んで離さなかったが、自分の身体を通過していることで幾分かその力は弱まっている気がした。目の前の少女の顔に僅かだが血色が戻ってきている気もしていた。そこに微かに希望を見いだす。何としてでもこの化け物を退けなければならない。
「いい加減にしろって言ってるんだ! お前がまだ誰かを殺すっていうのならば、僕はそれを必ず阻止してみせるぞ! 離れろ! ここから去れ! 玉置訪花!」
玉置訪花の名前を叫んだ途端に、影の迫力が薄らいだ。ここが勝負所だとハルは思った。頭の中に訪花の姿を思い浮かべ、その彼女に向けて渾身の気力を放つ。
「玉置さん、もうよせ。意味なんてない。こんなことは、やっても意味の無いことだ」
もう一度、訪花の名を呼んで訴える。すると影が戸惑うように揺れた。
「玉置さん。……玉置訪花、もうやめてくれ」
白い影が沈黙した。ゆらゆらと揺れる影。影はしばらくその場に佇んだ後、すうっと薄らいでいってその後にゆっくりと消えて失せた。
直後、腕の中の少女が咳き込んだ。
「よかった。間に合った」
ハルの腕の中で、少女は脱力した。安心したのだろう。そこでハルもようやく胸をなで下ろした。泣きじゃくっていた男の子は、今はハルの背にしがみついて嗚咽を漏らしていた。ハルは、その少年に微笑みかけて引き寄せ、宮本円香とともに腕の中に収めた。
「まったく! 無茶しやがって。それにお前、余所ん家に土足で上がり込むとは。もうどうしようもないな」
「あっ」
しまった。といってハルは宮本円香に目を向けた。円香は、まだ虚ろな目をしたままハルに向かって笑みで答えた。
「さて、これからどうするんだ?」
茜が、部屋の中を見回しながら言った。
「どうするって……どうしようか……」
これで終いということはないだろう。円香が自宅で襲われたことは、彼女がいつ如何なる場所で襲われてもおかしくはないということを示している。ならばどこか安全な場所を見つけて避難させるほかはないのだが。
「とりあえず、お前の家に連れて行けばいいんじゃね?」
「そ、そんなこと出来るわけないだろ!」
「なんで?」
「なんでって、勝手に連れ出せるわけないじゃないか。今は不在のようだけど、ちゃんと親の許可も取らないといけないし、それに、なんて言って説明すんだよ。娘さんが化け物に狙われているので匿いますっていっても誰が信じるんだよ」
「お前、この状況をよく見てみろよ」
「はあ? 状況? 状況って……」
言いながら、茜の視線に合わせて、部屋の隅々を見渡した。
「円香ちゃん、あんた、親がいないも同然なんだろ?」
「え? 茜ちゃん? 何言って――」
「ネグレクトだよ」
「ネグレクト?」
「そんなもん。家の中を見りゃ分かるだろ? それに、その男の子をよく見てみろ」
茜に言われて、家の中を見る。そこはゴミ屋敷というほどではなかったが、確かに壁にも、置いてある家具にも荒んだ様子が見て取れた。ハルはそこでダイニングの様子を思い出す。思えばキッチンにもダイニングにも、通常とは違った意味で生活感が無かった。物が散乱していたその場所は、とても機能しているようには見えなかった。そこでハルは、男の子を見た。
「な、これは!」
「虐待だよ」
茜の端的な言葉が心に響く。ハルは唇を噛み眉目を寄せた。
くたびれたTシャツに半ズボン姿の男の子の姿はまるで見窄らしかった。
衣服から出ている腕や足には不自然な青あざがいくつもあった。
「連れ出しても大丈夫だよ。むしろ親から離す方がいい。幸いにしてお前の住まいは寺だ。住職にでも相談すればそんなもの何とでもなるだろう。社会的には信用もあるんだ。寺から方々へ連絡してもらえば、話も通りやすいだろう」
それならばと思い、ハルは円香を見た。円香は少し困った様子を見せたが、それでも直ぐにこくりと頷いた。
「あとはあれだな。その呪いを少しでもなんとかしなきゃってことだな」
「茜ちゃん、あれは、あの白い影は何だったの?」
「白い影?」
「あ、ああ。僕がここに来たとき、円香ちゃんは、白い影のようなものに首を絞められ宙吊りにされていたんだ」
「ほほう」
「あれが生き霊ってことなの?」
「ううん……。私がここに着いたときにはもう終わっていたからな。何とも言えないが、感じた気配からすれば、そのようなものかもしれないな」
「対処できそう?」
「そうだな……。ちゃんと見てないから断言は出来ないが、あれが霊的なものであるなら、ある程度なら守れるかも知れない。とりあえずの処置だが、これを渡しておこうか」
そう言って、茜はブレザーの懐から紙切れを取り出した。
「それは?」
「退魔護符だよ」
「たいま、ごふ?」
「魔除けのお札って事だ。これをお守り代わりに持つと良い。この護符とお前の家の加護があるなら当面は何とかなるかもしれない」
「うちの寺の加護?」
「寺の敷地内は、ある程度の聖域になるってことだ」
「なるほど」
「それに、あそこにはお前の従僕もいるんだろ?」
「従僕? ……あ、ああ、仙里様のことか」
「あいつの縄張りってことなら、並の妖なら近づくことすら出来ないだろう。それに、万が一の時には、あいつに頼めばいい」
「仙里様に、頼む、か……」
「なんだよ。使役してるんだろ?」
「い、いやあ……」
ハルが頭を掻くと、それを見た茜は呆れて溜め息をついた。
ハルは苦笑した。それでもどこか胸が張れるようではあった。今回は何とか間に合った。たとえ僅かな成果であろうとも、今回は危機を退けることが出来た。
フッと息をついて横を見る。ハルと茜の様子を円香と男の子が不思議そうに見ていた。
「もう大丈夫だから」
彼女達に向けて微笑んだ。
そしてハルは、今後のことに思いを馳せる。宮本円香のことは、とりあえずだがこれで何とかなるかもしれない。次は桐島華蓮ということになる。
残る危惧は玉置訪花、そして黒麻呂というあの犬神だが。
彼女と犬神が言い残した言葉を忘れてはいない。
彼女は、邪魔をするなと言った。だが、自分はたった今、彼女の目的を阻害する事を決意しそれを行った。ならば、犬神の残した言葉とも対峙せざるを得ない。
黒麻呂は言った。訪花の宿願を妨げれば殺すと。
ハルは事件の真相へと踏み込んだ。これで文字通り命がけということになった。
「それでも、やるしかないだろう」
ハルは、強く拳を握った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます