第21話 見えてきた景色
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標的の一人である宮本円香の住まいは、公営の古い団地の中にあった。
一棟五階建て、横並びに八軒並ぶその建物は所々に亀裂が見られ、くすんだアイボリーの外壁がより一層その経年劣化を窺わせる。
ドミノの列のように整然と並べられていた団地の群に踏み込む。見上げると、日当たりを考えてのことだろうか、十数棟並ぶ四角い建築物はどれも物干し場を南側にしていた。
無機質なコンクリートの群れは、その間を縦に横にと迷路のように道が張り巡らされていた。番地を示す標識がなければきっと目的地へは辿り着けないだろう。それほどに、どこもかしこも同じように見えた。
そこはどこか雑多な空間だった。上品な空気などどこにもなかった。だがそこは活力には溢れていた。
「本当に、この辺で合っているのか?」
半歩先を歩く少女。茜が首を傾げるとそれに習って朱い髪が揺れた。
「なんで、着いてくるんだよ」
「なんでってそりゃないだろ。お前が言ってることが本当なら危ないじゃないか」
「危なくなんかないよ」
「なんで?」
言いながらクルリと身軽に振り向く茜。躊躇無く接近する彼女は下から覗くようにしてハルの顔を覗き込んだ。突然目の前に飛び込んできた少女の顔、その距離の近さに驚いて思わず身体を仰け反らせてしまう。
「と、とにかく。今は事件は起こらないよ」
「なんで?」
「事件は二件とも学校で起きているんだ。だから家に居れば大丈夫だと思う」
残された呪いの標的は二人。次は
二人の内どちらが先に襲われるのかは分からないが、第一の犠牲者も第二の犠牲者も校内、もしくは学校付近で襲われていることからすれば、第三の事件も学校付近で起こる可能性が高いであろうと考えた。勿論、これが根拠なき推論であることは自覚している。それでもハルは祈った。休学している間は襲われることは無いであろう、どうか無事であってくれと。
「それ、真面目に言ってるのか?」
茜は呆れ、やれやれと溜め息をついた。
「なんだよ」
「まあ知らないのも無理はないけどな、呪詛とはそんな簡単なものじゃない。それにこれは相手を呪い殺すほどの怨念だ。そんなに甘くはないと思うぞ」
「……」
「呪いってのは、時も場所も選ばない。あるのは一つ。相手の命を奪うことだけだ」
聞いて何か腑に落ちた。言われてみればそうかもしれない。だがそれならば彼女達を救う手立てが限定されてしまう。彼女達に二十四時間張り付いて守ることなど出来ないからだ。
「茜ちゃん、今ここで何か感じることってある? 気配とか、その、予兆みなたいな」
「あ、ああ、呪詛の気配を感じるのか、ってことだな」
言った後、茜は目をつむり深く息を吸って吐き出した。茜が身に緊張を纏う。耳を澄ませるようなその仕草をみて、ハルも息を殺した。
「ど、どうかな?」
「……ないな。でもやっぱりって感じだ」
「やっぱりって、それはどういうこと?」
「もしもこれが
「普通の呪いではないと……」
「そうだな。これは、相手に蠱毒を飲ませるとか、穢れを取り憑かせて貶めるとか、そうやって苦しめてから殺すってやり方じゃなくて、もっと直接的なものだろう」
「直接?」
「他力に任せるのではなくて、直接自分の手で相手を殺しているってことだ」
「そんなこと出来るの?」
「出来る」と言って茜は目を厳しくする。そして続けた「恐らくは術者の怨念が生き霊化してるんだろう。普段はそこには居ない。だからその者が現れた時にしか感知できない」
「それはつまり、事件が起こる直前まで察知することが出来ないということ?」
「おお、蒼樹にしては飲み込みがいいじゃないか」
「……」
「御霊を怨霊化させて、その霊体だけを飛ばしているってことになるな。これは余程のことだ。霊体だけを飛ばして誰かを害するなんてことは、私にだって出来ない。そんなことが出来る者はもはや人間ではないな。人を捨てて化け物になっていると言っていいかもしれない。そして、そうだとすると、これはもう呪いなんかじゃない」
「生き霊、怨霊化、化け物……。または、それ程の力を持っている者がやっていると?」
「ああ、相当だな」
これでほぼ間違いないと思った。犬神に雨殿と呼ばれていた彼女にならきっと出来るのだろう。
「茜ちゃん、例えばなんだけど、雨様ならどうなんだ?」
努めて平静を装い尋ねた。ここではまだ茜に玉置訪花の存在を悟られてはならない。茜は雨の陰陽師の存在を頑なに否定している。それに茜は何かを隠している。そんな彼女に訪花のことを知らせる必要は無い。
「急になんだ?」
茜が目を細め疑うような視線を向けてきた。
「別に、茜ちゃんが、犯人は化け物か、力がある術者だと言ったから、聞いただけだよ」
「ふうん。……まあいい。雨様などありえないが、仮にそれ程の力を持つ者ならば、易々とやってのけるだろうな。しかし、ありえない」
「ありえない? なんで?」
「それ程の力があるならば、こんな面倒なやり方をしない。直に殺した方が手っ取り早いし、当然、人の世で見つけられるような痕跡など残さないからな」
「痕跡?」
「この場合は、証しとでも言おうか」
「それは……」
「だってそうじゃないか。自殺にしたって、事故にしたって、その殺しを大勢の人間に見せつけているだろ? ただ殺すのに、なぜこんなにも世間にアピールする必要があるんだ? しかも呪いの噂だ。わざわざそんな話を流す必要がどこにある?」
確かに、茜の話には一理がある。ただ恨みを晴らすために殺すのなら、このような手間を掛ける必要は無い。この事件の発端が何なのかは分からないが、そこには何か理由があるはずだ。
「そうか!」
失念していた。そのことはあの時、確かに訪花が言っていたではないか。
「ん? どうしたんだ。何か思い当たることがあるのか?」
「あ、い、いや」
戸惑いながら、彼女の台詞を思い出す。訪花は言っていた。彼女達は自分の罪に殺されていると。
「なんだよ」
「あ、いや、さっき茜ちゃんが言っていた、噂話とアピールについてなんだけど」
「それが?」
「誰かが呪いの話を広めたのには理由があるんじゃないかって。これはつまり、殺される者には然るべき理由があるってことのアピールなんじゃないかって」
「なるほどな。呪われている者達には、それ相応の理由がある。か。それならば、このことにも合点がいくな」
「このこと?」
「犯人は、何故四人同時に殺さないのかってことだよ」
「それは?」
「殺すことだけが目的なら、一度に殺しちゃえば良いじゃないか。なんで一人ずつなんだよ。まるでショーとして見せつけているようじゃないか。まぁ世間を騒がせたいとか、相手に恐怖を与えて喜んでいるというなら分かるけどな」
「違う気がする」
「そうだな。私もこの事件に猟奇的なイメージはないな」
茜と意見が一致したことで、ハルはもう一歩、事件の真相へと踏み込んでいった。
それは生徒達から噂話を聞き取っていたときに感じていたことだった。些細なことだったが、どうにもその事が気になっていた。
「この事件の根っこの話なんだけど」
「根っこ?」
「発端っていうか、原因っていうか、彼女達が呪われた理由のこと」
「ああ、そこか。それで? 何か気になることでもあるのか?」
「呪われた生徒には共通点がある。それは、四人とも同じ中学出身ってことだ。そして」
「そして?」
「この呪いの話を聞いて回っているときに気が付いたんだ。呪われた生徒らと同じ中学出身の生徒には何か思い当たる節があるようだった。だけど、誰もがそのことを口にしたがらなかった。それは何故か。その口をつぐんだ生徒達は皆、同じ災難が降りかかることを恐れているんだと思う。きっと、その同じ中学で過去に何かがあったんだんだよ。そして、皆、何かしらその事に関わりを持っている」
「……なるほどな。自分も、死んだ者と同じように呪われるかも知れないと思っている。その原因について、思い当たることがあるってことか」
生徒が死んでいることを、因果の帰結であると訪花は言った。
それはおそらく、彼女達が自分の行いが原因で死んでいるということを言いたかったのだろう。そして訪花は、その原因のことを罪という言葉で言い表していた。
その中学で、過去に何があったのか。何故彼女達はそのような罪を背負ったのか。
そのことを調べなければならないとハルは思った。
「しかし、なんでまた、入学早々からこんなことになるんだろうな……。まったく、なんでお前はこんな面倒事ばかりを引き寄せるんだ……」
「そんなこと、僕に言われても分からないよ」
茜に言われるまでもない。当事者のハルとて未だ困惑を抱いている。
妖怪に出会い、事件に巻き込まれて死にそうになる。それが一段落したと思ったら、今度は呪いの事件を目の当たりにさせられ、鬼にも喰われそうになった。
ハル自身もこのようなことにはもう辟易としていた。
だが、今回直面したこの事件には人の命が関わっている。ならば見過ごすことなど出来るはずもない。
事件の発端が中学の頃の出来事であるということは分かった。詳しいことはこれから尋ねていく宮本円香に尋ねれば分かるかも知れない。
それともう一つ、ハルには、この事件の始まった時期が何となく想像できていた。
ハルは、仙里と出会った場所にあったあの藁人形を思い出していた。
――あれはまだ、そんなに古いものには見えなかった。
それは朧気な記憶であった。だが思い出すことは難しくなかった。
あの光景は何度も思い返した極めて印象的な場面だったからだ。
大雨の中で出会った美しい少女。それが仙里だった。その仙里が憂えた目で見つめていたのがあの藁人形で、その仙里が言ったことばが「始まり」という言葉だった。
――そうか!
ハルは重要なことを思い出す。
仙里と出会ったあの日、ハルは学校で猫の姿の仙里とも出会っている。
猫の姿の仙里は、見通すような目で校舎の一点を見ていた。その目はまるで獲物を見定めているようだった。
――もしあの時、仙里様が見ていたものが玉置訪花だとしたらどうだろうか……。
もしもそうだとするならば、仙里の狙いは玉置訪花ということになるのではないのか。
彼女はこの殺人事件の中心にいる人物である。その彼女があの社で呪いを施し、そのことを嗅ぎつけた仙里が彼女を追った。
不可思議な共通項をもつ事象。だがそれらのことは結びつけられるの事なのかも知れない。
――しかし分からない。何故、仙里様は玉置訪花を狙っているのか? 何故、仙里様は始まりを待っていたんだ……。
「蒼樹! おい、蒼樹!」
「あ、ああ、ごめん」
「まったく、何呆けてるんだ。とにかく、全容を判断するにはまだ材料が足りない。話は宮本円香に会ってからだ」
「あ、ああ、そうだね。事のおこりが分からないじゃ、話にならない。彼女に会って、原因になるものが何なのかを教えてもらわなきゃ始まらないよね」
言いながら頭の中を整理した。この事件は、恐らくは仙里の抱える事情に起因している。そこには、何かしら雨の陰陽師というものが関わっている。そして犬神に真神のことも。ハルの中で朧気ながらも事件と事件が繋がりを見せ始めていた。
気付けば、辺りは夕闇に染まりつつあった。周囲にある窓にはすでに明かりが灯されている。その暖色の光が羨ましくも思えた。今は想像することしか出来ないが、きっとそこには自分が失ってしまった団欒というものがあるのだろう。
ハルは、その幸福の空気を吸い込もうとして立ち止まり、目を閉じ大きく息を吸い込んだ。そして賑やかさを増したその生活音に向けて耳を澄ませた。
周囲を取り囲む家々から出る賑やかな音を受け取る。頭の中でそこにある家族の幸せな光景を次々と思い浮かべた。と、その時だった。思い浮かべたその光景が突如、鋭利な何かで切り裂かれた。途端に全身に悪寒が走る。
「なんだ!」
辺りに危機を感じて緊張したハルは目を凝らした。
「いきなりどうしたんだ! 驚くじゃないか」
茜が首を傾げて睨む。
「どこだ! くそ、どこなんだ!」
「どこって、おい、いったいどうしたっていうんだ?」
「危ないんだ。ここに何かがいる。誰だ! 狙っているのか? 誰を? そうか!」
ハルは夢中で駆けだした。誰でもない。この時、危険に晒されているのは宮本円香しかありえない。彼女の家の位置がどこなかはまだ分かっていなかった。だが、不穏な気配がする方向ははっきりと認識できていた。だから急いだ。
「もう、誰も殺させはしない!」
走るハルは、呼び止める茜の声を背中で聞いていた。
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