第19話 因果の帰結

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 その体躯は、以前見た獣の優に三倍はあった。そよぐ毛並みは吸い込まれるような黒色で、瞳は燃えるように赤い。あの夜戦った猟犬種のようなスマートさはどこにも見えなかったが威風があった。そして、獰猛さを覗わせるその風体は犬というよりは獅子に近かった。


「このようなところに、何の用だ」

 鬼が、黒犬に問うた。

 黒犬は答えなかった。いや、答えるのも面倒だというような顔をして息をふうと吐いた。それがハルには笑っているようにも見えていた。


「これは私の獲物だ。お前とて邪魔は許さぬぞ」

 鬼が目を怒らせてニヤリと笑う。その構えは、刃物を振り上げて今にも飛びかからんとするような体勢であった。

 だが、黒犬はそんな鬼の様子に構うこともせず、ゆっくりと歩みを進めた。一歩、また一歩と、歩むその足運びは踏むたびに地面を鳴らすような迫力があった。


「そ、それ以上は近づくな!」

 鬼が声を上ずらせる。その直後、ハッとして仕切り直し、取りなすように言葉を続けた。「ま、待て! それではこうしようではないか、骨、骨だけは残してやるぞ」


 鬼が黒犬に交渉を呼びかけた。その話の内容は、獲物の部位の取り分けといったものだったが、そんな話は冗談ではない。喰われてなどやるものかと逃げる算段をした。目下、鬼の視界に自分はいない。鬼は完全に黒犬に気を取られていた。これならばと思い、自分の足首の状態を確認する。どうやら、歯を食いしばれば走れそうだと思った。

 ハルは、移動を開始した。少しずつ、鬼に気取られぬくらいにゆっくりと動く。静かに、細心の注意を払って足を横へ横へと滑らせていった。だが。


「甘いわね、逃がしはしないわ」

 ハルを横目で捉えた鬼が腕を振った。


「のわっ!」

 思わず飛び退く。足下の地面に鬼が放った刃が突き刺さった。


「分かったわ、仕方ない。じゃあこうしましょう。半分ずつ、均等に分けたらいいのよね。それでいいわよね」

「ちょ、ちょっと待った! 半分って、半分ってどう分けるんだよ」

「うるさいわよ、雨! そんなことはどうでもいいのよ。手足を一本ずつでもなんでも――」

「あ、頭はどうすんだよ! 腹は? 心臓は? えっとその他諸々の一個しかないものはどうすんだよ!」

「ちっ! うるさいわね! じゃあそれもちょうど真っ二つに分ければいいじゃない。私はお前を食えればそれでいいのよ」


 可笑しな会話だとは思っていた。だが少しでも、相手の気をどこかに逸らしたい。そして隙を作りたい。とにかく何とかしなければならないと考えていた。

 刃物はまだ自分の足下にあった。鬼の両手には何もない。それならば得物が飛んでくることは、取りあえずは無さそうである。

 鬼は、ハルと話しつつも目で黒犬を牽制していた。ハルは、ここで黒い犬の動きも確認する。黒犬は、変わらずゆっくりとこちらに向かってきていた。


 ――よし! 今だ!

 鬼の注意が少しだけ黒犬の方に向いた瞬間を見計らって、ハルは道の方へと向かって飛び出した。だが。


「残念でしたぁ」

 素早く進路を塞いだ鬼が、嬉しそうに目尻を下げた。


「は、はやっ! あの……さっきよりちょっと速くなってません?」

「もういいわ」

「え?」

「お前と話すの、面倒になっちゃった。それにあいつに気を遣うのもね。もうね、食べちゃったらいいのよ」

「はあ?」

「あいつより先に食べちゃえばいいって言ってるの」

 言って鬼は腕を振り下ろす。目の前を鬼の爪が通り過ぎた。


「なんで逃げるのよ! 観念なさい」

 鬼はハルを捕まえようと手を伸ばした。それを半歩下がって避けた。

 横殴りにくれば、身体を折って逃れた。縦にくれば身体をくねらせて躱した。

 両腕で抱くように捕まえにくれば、屈んで転げる。そうして鬼との攻防は何手も続く。ハルは、鬼の手の中で必死に目を凝らしてその動きを見た。一回でも見逃せばそれで終わりだった。


「ちょっと、いい加減になさい!」

「嫌です。無理です!」

 捕まるわけにはいかない。捕まれば喰われてしまう。とは言うものの、ハルの体力も無尽蔵ではない。疲れは徐々に足の動きを鈍くさせ始めた。その時だった。


「アハハハ! これは面白い。面白いぞ小僧」

 いつの間にか側まで近づいていた黒犬が笑った。


「やっぱり喋るのか! でも、もう驚かないもんね」

 ハルは得心を口に出した。それでも油断はできないと目は鬼を見て、身体は鬼の腕から逃れながらであった。


「お前、あの夜の小僧だな」

「ええっと、あの夜とか分からないんですけど、人違いじゃないですか?」

 息を切らせながら、黒犬に応える。鬼の爪が制服の上着をかすめた。


「おお、大した胆力だ。ここでまだ戯れるか。しかし、この俺の鼻はごまかせん。お前からは、あやつの、あの真神の匂いがする。それと先代の雨殿の匂いもな」

「ま、また、雨ですか! ――おっと!  危ないっ」

 また、鬼の爪が制服をかすめた。


「こいつ、ほんとうに嫌になっちゃう。ちょこまかとすばしっこいったらないわ」

 鬼が地団駄を踏んだ。

「そんなことより、どうしてくれんだよ!」

「はあ?」

「こんなに切り刻んでくれちゃってさ、こんなんじゃ、明日から何着て学校に行けばいいんだよ!」

「フン。何をバカなことを。お前はここで死ぬのよ雨。明日のことなんてもうどうでもいいじゃない」

「良くない! それにバカじゃない! だから逃げてんだろ!」

「アハハハハ! これは愉快だ。よく動けている。鬼を目の当たりにして萎縮するどころか、まるで遊ぶようではないか。人間にしては大したものだ」

 黒犬が感心したように言った。


 それにしてもこいつは何なのだと思う。鬼と黒犬の会話から想像しても、この黒犬の方が鬼よりは格が上のような気がする。たぶん力も上なのだろう。直ぐに襲ってこないところを見ると、鬼のように自分を襲う為に姿を見せたとは思えない。だからといって助けに来てくれたとか、味方になってくれるとも考えにくかった。

 それに、この黒犬は、あの夜のことを知っている。自分のことを知っている。そして真子のことも。


「あんた、何しにここに来たんだ? ――うわっと!」

 黒犬に問いかけながら、鬼の手を躱す。

「お前、随分と余裕を見せてはいるけど、もうそろそろ足にきているのじゃないかしら」

 鬼が笑う。


「ま、まだ大丈夫です。まだいけます」

「そう、流石は雨ね。本当に食べるのが楽しみだわ」

「……雨、雨、雨、ってどいつもこいつも。言ってるでしょ、さっきから言ってるよね、聞いてる? ねえ、聞いてますか、僕は、雨なんかじゃないって! ――おわっ!」

「アハハハハ! であるな。その小僧は『雨殿』ではない」

「え?」

「はあ?」

 思わぬ介入に、ハルと鬼とが動きを止めて同時に黒犬の方へと顔を向ける。


「どうした? 俺は何か可笑しなことでも言ったか?」

「あ、いえいえ。至極真っ当なご意見かと」

「……」

「小僧、お前は違う。お前は雨殿ではない。何故なら雨殿はここにおられるのだからな」

「はあ?」

 ハルは黒犬を見て首を傾げた。すると、一人の少女が黒犬の後ろから、ゆっくりとその姿を現した。少女は黒犬の傍らに立ち氷のように冷たい視線をこちらに向けた。

 黒い獣のその体色に負けないくらいの美しい黒。彼女の長い髪は、世界の全てを塗り尽くしてしまいそうな漆黒の闇を見せていた。


「クロマロさん、お願いできますか?」

 少女が黒犬に目配せをした。すぐに黒犬は笑みを返し行動に移る。

 それは瞬間の出来事だった。ハルの目の前にいた鬼が黒犬の咆哮を受けて消し飛んだ。その光景を見たハルはその場で呆然として立ち尽くしてしまった。


「良かったな、小僧。これで命拾いだ。我が主に感謝するのだな」

「……あ、ああ」

「どうした? 先ほどまでの威勢はどこにいった」

 黒犬が笑う。

 また、このような奇怪なことに巻き込まれた。何故、自分の周りでこのようなことが起きてしまうのか。いったい何が起こっているのか。しかも、あの夜に対峙した犬神に今度は助けられている。様々な疑問が心の中に湧いて出てきた。


「あ、あんた、さっき僕のことをあの夜の小僧だと言ったよね」

「それがどうかしたのか?」

「それに、君は……」

 言って少女を見た。ハルと視線を合わせた少女は僅かに首を傾けた。


「君が……。君が『雨様』なのか」

 尋ねると、少女はもう一度首を傾げる。そして呟くように言った。


「そんなことは分からないわ。それは、この黒麻呂さんがそういっているだけ」

「くろ、まろ……。黒麻呂さん、あんたは犬神だよね?」

「まぁ、そうだな。それでいい」

「あの夜の……。い、いやそんなことよりもまずは君だ。助けてくれてくれてありがとう。でもなんで? 雨って、それも犬神を従えて、なんで……。それに、同じ制服を着ているところを見れば僕と同じ学校の生徒だよね? 君はいったい……」

 尋ねたいことが山のように思い浮かんで上手く言葉に出来なかった。


「私は玉置たまき訪花ほうか、君と同じ学校の生徒で同じ学年」

「たまき、ほうか……。同級生……」

 呟くように名前を繰り返した。その呟きに訪花は頷いてみせた。


「あなたに、忠告しにきたの」

 いって訪花は冷淡な視線を向けてきた。風圧のようなものを受けると同時に寒さを覚えた。そこで五体が切り刻まれたような錯覚に陥る。ハルは両肩を抱くようにして片膝を落とした。

 女の子に忠告されるのは、入学してからこれで二度目だった。あの時は、予期せぬシチュエーションの中でその言葉だけを受け取ってしまっていた。だが今度はそうもいかない。敵意は感じられなかったが、彼女からは並々ならぬ決意のようなものを感じ取っていた。その圧力が怖い。何がそうさせているのかは分からない。だがこれ程の思いからくる忠告ならば、今度はちゃんと聞いておかなければならない。それと、これは妖がらみの出来事でもある。


「何を、ってちゃんと聞いていいかな?」

「あなたは、あの子が死んだあの場所でその死を悼んでいた」

「見ていたのか」

「もう、誰も彼もがあの子の自殺を忘れてしまっているのに、あなたはその死を忘れなかった」

「忘れるわけはないさ」

「なぜ?」

「何故って……。そうだね、妖を傍らに置く君になら、話しても信じてもらえそうだ。だから話すよ。僕は、彼女が死んだところを間近で見ていたんだ。彼女は自殺したんじゃない。彼女は殺された。唯一僕だけが、彼女が殺されたことを知っている人間なんだ」

「そう」

「そうって、人が一人死んでいるんだよ。罪もない人が命を落としたんだよ」

 君は何も感じないのか。とそう問いかけたつもりだった。しかし、彼女はその事には答えなかった。それどころか、氷の瞳に影を宿し薄い笑みを浮かべた。


「やっぱり、黒麻呂さんの言ったとおりだった。でも、だからといって彼が邪魔になるとは思えないのだけれど」

「邪魔? 僕が? 邪魔って……」

 自殺ではなく殺されたのだ、というハルの話を当然のことのように流す少女。彼女は、そのことは知っていると言わぬばかりに冷笑を浮かべている。

 そしてそんな彼女から忠告と、邪魔をするなという言葉が出る。

 それはまるで……。


「ちょ、ちょっと待って! もしかして、君なのか! あの『呪いの事件』は君がやっていることなのか!」

「……」

 彼女は、目を伏せたままで沈黙を返した。


「分かっているのか! それ、人殺しっていうんだぞ! 人を、それも二人も殺して、君は平気なのか!」

「……わたしは、殺してなんかいないわ」

 彼女はさらりと言ってのけた。


「た、確かに、その手では殺してないんだろ。けど、呪い殺すのだって結局は同じ事だ。変わらない。それを人殺しっていうんだ。君は――」

「私は殺してなんかいない。あいつらが、自分で勝手に死んでいるだけ」

「それを詭弁っていうんだよ!」

「……あなたは、あいつらに罪はないって言った。でも本当にそうなのかしら? それではあいつらは何で死んだのかしら?」

「はあ? 何を――」

「教えてあげるわ。あいつらは、自分の罪に殺されているのよ。自分の罪に呪われているだけ。償っているだけ。それって当たり前のことじゃない? だからこれは、私の呪は、因果の帰結にすぎない」

「き、君は何を言って……」

「まだ、半分なの」

「半分?」

「あなたは他の人たちとは違う。だから忠告しにきたの。邪魔はしないでね。じゃ、行きましょう、黒麻呂さん」

 少女は、そっと黒犬に手を添えた。


「小僧、今のは貸しにしておく。我が主の宿願を妨げるなら、その命で返してもらうぞ。それから、これは俺からのサービスだがな。もののついでに言っておいてやる。あの真神には気をつけろ」


 黒犬と少女は闇に溶けるようにして消えた。それをただ呆然と見送っていた。

 辺りは静まりかえっていた。広場には、ポツリと一つだけの明かりがあった。


「半分って言っていたよな……。彼女は、まだ、殺すつもりなのか……」









 

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