第18話 忍び寄る危機

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 夕暮れ時、西日が遮られているその場所は薄ら寒かった。周囲には生徒の声もない。そしてそこに供えられていた花はもう枯れていた。

 事件直後、そこには彼女をいたむ色とりどりの形骸が山のように詰まれていた。しかし、現在そこに残されていたものは、もうその花束が一つだけとなっていた。

 ハルは唇を噛む。なんと容易たやすいことなのだろうか。人は何もかもを、こんなにも簡単に忘れていってしまう。たとえそれが命の消失であってもそこに差違などはない。

 その風化は饒舌にその事を語っているようだった。


「ごめんね、もう少し早く気づいてあげられたなら……」

 呟き、屋上を見上げた。自分になら何か出来たのではないかと思わぬではいられなかった。そしてハルは、その場所でそっと目を閉じ祈りを捧げた。


「あの……。蒼樹君?」

 背後で小さな声がした。振り向いてゆっくりと視線を向ける。そこに一人の少女が立っていた。少女は目を潤ませてこちらを見ていた。


「あ、ああ、そうだけど、君は?」

「友達……。その子の友達」

 か細い声だった。肩をすぼませながら手を前で組み、おどおどとしていた。


「悲しいよね。こんなことになって」

「うん……」

「君、この子と仲が良かったの」

「うん」

 少女の返事は短かった。きっと友人の死に心を痛めているのだろう。こうして事件現場に立てば言葉を失ってしまうのも無理はない。


「あの……少しお話が……」

 いって少女が憂える瞳を持ち上げた。ハルは直ぐに呪いの事件のことを思い浮かべた。

「え? 話? 僕に?」

 戸惑いながら尋ねると、少女は小さく頷き、チラリと向こうを見やった。その視線を追って先に目をやると裏山が見えた。


「ここでは、ちょっと……」

 モジモジとしながら少女が下を向く。


「あ、ああ、構わないよ。人がいない方が話しやすいっていうなら、向こうへ行こうか」

 事件はハルの心に影を落としている。目の前でむざむざ命を失わせてしまったことを悔いていた。だから、もしもこの少女が事件に繋がる何かを知っているのなら聞いてみたいと思った。


 山道は、木立の間を縫うようにして続く。その道をしっかりとした足取りで少女は進んだ。ハルを導くように先を行く彼女は時おり確かめるようにして振り向いた。

 日はまだ落ちきってはいなかったが、辺りはもう暗かった。

 ハルは、生い茂る木々を見上げ、どこまで行くのだろうかと首を傾げた。

 裏山といっても、古墳を思わす程度の高さしかなく。頂上まで上ってもたかが知れているのだが、それでもここまでくれば人の気配などは全くなくなってしまう。

 話をするだけなのに、このような所まで来る必要があるのだろうか。少女の話はそれ程に何か危険を思わせるものなのだろうか。様々な疑問が頭を過った。


「ねえ、どこまで行くの? 話ならもっと下でも大丈夫なんじゃないの?」

 しびれを切らしたハルは尋ねた。だが、少女は無言のままで先を目指した。

 溜め息を一つ零し、仕方なしに後を追う。とうとう、二人は上まで登り切ってしまった。

 少し開けた場所に出ると、向こうの方に照明の明かりがポツリと一つだけ見えた。

 その淋しげな明かりの中に、簡易的な遊具や、ベンチがぼんやりと浮かぶ。


「ええと、随分と上って来ちゃったけど、大丈夫なの?」

 尋ねながら、少々緊張していることを自覚していた。


 ――このような人目の無いところに二人きり。今の僕の目的は、確かに事件に繋がる何かを聞くためであるのだがしかし、このシチュエーションはいったい何だ。

 いけないと思いつつも、何かを期待して、思春期の甘酸っぱい感情を芽吹かせてしてしまっていた。ハルは、己に自制を言い聞かせた。

 だがそこで、図らずも期待通りの事が起こる。

 突然に、少女がハルの胸に飛び込んできた。当然のことであるが、少女の、そのような突飛な行動についていけるはずもなく、だらりと手を下げたままその場に突っ立ったままで固まってしまった。


「ハル君……」

「は、は、は、ハル君!」

 名前を呼ばれたことに激しく動揺した。鼻先には、何かをくすぐるような甘い香りが漂ってきていた。


「ようやく、二人きりになれたわ」

「あ、え、ええと……」

 少女の甘い囁きに対して、どう答えて良いか分からず口ごもる。心臓は高鳴っていた。


「あ、あの、ええっと、いい匂い。い、いや香りだね」

 とりあえず、褒め言葉を探して口に出した。


「そう? そんなに良い匂い? ハル君は、この匂い、好き?」

「あ、はい、好きです」


 ――好き? 好きです。好き? 好きです。好き? 好きです……。ああ、感動だぁ。すばらしい。ついに僕に訪れた、これが青春の1ページ……。


「良かった。でも不思議、ハル君はこの匂いを嗅いでも平気なんだ。といってもそうね。そうじゃないとね」

「え?」

「あ、いえ、何でもないわ。それよりもね、ハル君の方がもっと良い匂いをさせているのよ」

 目を蕩けさせながら少女は言った。そしてその後、口が裂けるほどに口角を上げた。


「え?」

「分からないのかしら? あなたの方が美味しそうな匂いをさせている。って言ってるのよ」

「え?」

「だからぁ、食べちゃいたいっていってるのぉ」

 少女は下を向き、喜びを堪えるようにしてクツクツと笑った。その様子に、驚いて後退る。これは何の冗談だ。と混乱する頭が状況についていかない。


「フフフ、あなた『雨』なんでしょ? いや、『雨』に違いないわ。いや、この際、『雨』でなくても構わない。こんなにも美味そうなんだから」

「美味しそうって、それに、雨って! なんで、どうして」

「どうしてって、そりゃもう大騒ぎなのよね。この辺の化け物の間ではもうその話題でも持ちきりなのよ。数百年ぶりに雨が現れた。しかもまだまだ未熟者らしい。それならば今のうちに喰ってしまえってね」

「な、食べるって、マジか!」

「マジです!」

「あ、いや、断言しないで!」

 話しながら、これは何とかせねばと考える。相手は化け物だが、形は少女である。ならば、ここは全力で走って逃げれば何とかなるかも知れない。

 

「おっと、逃がしやしないわよ」

 素早く少女が動いて、一本道の退路を塞いだ。


 ――なんで、こんな羽目に……。おかしくないか、僕の青春。


 少女は、あの時の犬の妖怪とは違った迫力を纏っていた。逃げ道を塞いだ時の動きも犬の妖怪に劣らぬほどのスピードだった。これでは逃げ切れないかもしれないと、その動きを見たときに悟ってしまっていた。


「くそ、何でこんな時に茜ちゃんも、仙里様もいないんだよ」

 呟きながら、周囲を見回した。しかし見えるのは草木ばかりで、そこに救いの手など現れる雰囲気もない。冷気が漂う薄闇の中、冷たい汗がシャツの下を流れた。


「さて、もういいかしら? どうせならもっと恐れおののいて欲しいものだけど、このような御馳走、滅多に口に出来ることはないし。それも贅沢というものでしょう」

 言い終えると、少女はその姿を徐々に変化させていった。まず、瞳の色が黄色に変わる。瞳孔を細めたそれは爬虫類を思わせるようであった。次に、髪の毛が伸び、額の上部から角を突き出した。そして筋肉が盛り上がる。


「お、鬼って、マジか!」

 これは喰われても仕方ない。と、その鬼の姿を見て思った。だが、ここで命を諦めることも出来ない。


「あ、あの……」

「なにかしら?」

 返してきたその声も、既に少女のものではなかった。


「あなたは、鬼? もしかして鬼なのですか?」

「そうだけど? 見て分からないの?」

「あ、いえいえ、見たまんま鬼です」

「そう、じゃあもういいかな?」

 鬼がにじり寄ってくる。


「ちょ、ちょっと待ってください!」

「なんだ! うるさいやつだな」

「あなたは、見たまま鬼ですけど、だからといって、僕が見たまま『雨』ということにもならないでしょう?」

「ん? 何が言いたいのかしら?」

「いやあ、僕もね、つい最近、『雨』だのなんだのって言われたんですけどね。でもね、それをね、違うって言う人もいるんですよ」

 と、そう言ったところで、鬼が首を傾げた。これはしめた。とハルは何とか事態の打開を図ろうと言葉を続ける。


「いや、むしろ、否定派の方が多いくらいで。多数決では、結局は、お前は雨ではない! みたいな結果になったと申しましょうか……」

「はあ?」

「だから、間違いなんですよ」

「……?」

「だから、ほら、僕が雨だというのは間違いなんです!」

 必死だった。だから矢継ぎ早に会話をする。何とか話に気を取らせて、逃げ道へのポジションを確保しようする腹づもりだった。

 だが、鬼は、悠々と構えて隙などは見せなかった。そして鬼が鼻息をフッともらす。


「もういいかな? 言うけど、お前の正体云々などどうでもいいのよね。お前が雨だろうとなんだろうとどうでも良いの。ただ美味そうな御馳走が目の前にある。そ・れ・だ・けっ」

 言い終えて、鬼が飛び込んできた。目の前でキラリと何かが線のように光った。


「うわっ!」

 その光の筋を仰け反るようにして躱す。しかし尻餅をつき、転んだ時に足をくじいてしまった。


「避けますか。流石ですわ。それならば、もう少し遊ぼうかしら」

「いえいえ、とんでもない。そんなデカい包丁のようなものを振り回して遊ぶだなんて言われても」

「そうよね。まどろっこしいわよね。それ」

 

 風を切る刃物が唸りを上げる。鬼の動作を頼りに、音が出る前に転げてなんとか攻撃を躱した。後方では、ミシミシと木が倒れるような音がした。


「あのね、だから勘違いだって言ってるじゃないですか! 僕は雨なんかじゃありませんって!」

「ああ、それ、もうどうでもいいから」


 縦に横にと刃物が走る。その幾つかを避け、その幾つかが身体をかすめた。徐々に体力が奪われていく。吐く息は荒く、途切れるようになってきた。手足に込められる力も残り僅かのように思える。


 ――不味いな……。助けは、こりゃ、来ないな……。

 そう思ってひらめいた。そう言えば、助けを呼んでいなかったじゃないかと。


「誰かあ! 助けてください! 誰かーー!」

「フ、フフフフ。ア、アハハハハ! あなた、おもしろいわね。でもね、残念っ、誰も来ないわよ」

「な、なんでだよ」

「だって、あなたを助ける者が誰も近くに居ないことを確かめてるんですもの」

「マジ、ですか」

「はい。マジです」

 

 鬼が笑う。これはもういよいよかと思った。だがその時、風が爽やかな香りを届けた。

 何かが来た。と、その香りに希望を持った。

 そして、香りの主がその場所に姿を現す。

 だが、その姿は、ハルの期待を一瞬で裏切った。


「くそっ! よりにもよって、こんな状況で……」

 それは見知った気配を醸し出していた。形はあの時とは違う。迫力も段違いであった。だが黒い毛皮に赤い瞳のその獣は、間違いなくあの時のあの獣の仲間なのだと思った。

  

 ――こんな時に犬神って、なんなんだよ……。

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