第17話 宿怨の発露
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この春、高校生になったハルには目標があった。それは彼女を作ることだった。
男女交際こそが高校生活における最重要課題であり、そのことは入学式直後から現在まで変わりは無い。
三年という月日など、あっという間に過ぎていくだろう。だから一分、いや一秒でも無駄には出来ないと思っていた。
しかし、現実はどうだ。入学早々から、妖怪だの、神様だの、巫女だのとあまりに奇怪なことが次々と身の回りで起こった。
というか、あの夜と昨夜とでもう二回も死にそうな目に遭っている。これでは、恋愛などと悠長なことは言っていられない。
非日常など欲していない。日常は平凡で良いのだ。贅沢も言わない。
彼女が欲しいと言っても、なにも美人でなくてもいいし、恋愛も一般的な高校生のそれで全く問題は無い。それなのに……。
現実はその真逆を行くようではないか。
昨夜の日本人形の一件といい、あの夜の犬神との戦いといい、起こる出来事は、まるで定められたことだと言わぬばかりに自分という存在を怪奇の世界に絡め取る。
ハルは思う。普通の人生でいいのに。普通の恋愛でいいのに。
「ぼくは、ただ、恋がしたいだけなのに……」
そんなハルの定めが、性懲りも無く新たに一人の少女の因果を引き寄せる。
次に出会った少女の名は
彼女もまた、大きな運命の渦に引き寄せられた者の一人であった。
その彼女のことを話そうするならば、今より少しばかり時を戻さねばならない。
――桜が旺盛を極める頃、ハルはひょんなことから仙里と出会い、
その事件から凡そ一ヶ月弱が過ぎ、ようやく平穏を取り戻したように思っていた。
この時にはもう真子は音沙汰もなく、犬神との騒動もあれ以来で、何の動きもなかった。妖怪がらみのあの一件は、身の上を通り過ぎていくエピソードの一つに過ぎなくなっていた。
5月も間近に迫り、
見上げれば、そこには黒い雲が立ち込めており、初夏というよりは梅雨の盛りと言った方が当てはまるような空であった。
雨の日はバス通学になっていた。雨が嫌いなハルは、その日も窓辺に肘をつき心を空にして車窓を流れる雨模様を眺めていた。
息を吐くたびに窓ガラスは白く結露を繰り返す。外気には冷えを感じるほどの寒さはない。きっと車内にある熱と外の気温の差がそうさせているのだろう。
学校前に到着するまでにはまだもう少し時間がある。通学途中のバスの中は、大勢の体温と身に纏わり付くような湿気のせいでどこか息苦しかった。
そのような窮屈な状況に置かれ鬱々としていた時だった。耳が女生徒達が小声で語る奇妙な話を捉えた。噂話を受け止めたハルはギュッと瞼を閉じ、口を堅くつぐんだ。
「呪いなんだって」
最初に捉えたその声は、すし詰めになったバスの中に湧いた雑音の一つでしかなかった。気になったというよりも、ごく自然に耳に入ってくるTVやラジオの音声のようで、そのような雑音は雑多に集まる人の群れの中では特に珍しい事ではない。それは通常、乗客達にとってありふれた効果音でしかなかった。
「マジ? ねえそれってマジなの?」
「でもそれってさ、誰かが面白がって作ってるんじゃないの?」
「それでも……あれば怖くない? 怖いよね」
彼女達の話し声はハルの耳を捉えて放さなかった。聞きたくも無いのに無理やりに耳に入ってくる。そのことに
自分の中に入ってくる彼女たちの声は恐ろしさを孕みながらも、ある種の希求というものをハルに抱かせていた。だからいくら意識を外そうとしても心が求めたのだ。
バスはいつも通りに幾つもの停留所を越えて先に進んでいく。
何時しかハルは、彼女達が面白がって語るその噂話を聞き逃すまいとして聞き耳を立てしまっていた。
「何かに関係している子らしいよ。その子達が一人、また一人と殺されて……」
「えー、だって事故でしょう? マジやめてよ」
「本当だって」
「偶然だよ。ありえないよー、もう、ちょっと止めてよ、朝から怖すぎるよー」
彼女達の会話は、まるで昨夜見たドラマの話をするかのように軽妙であった。
「マジだって……。だってもう二人目だよ」
「たまたまだってー、ないない」
かしましいその声には、時より笑い声さえ混じる。それは現実性のないフィクションを語っているようだった。
呪いとして語られているその事件は、昨日の出来事だった。同級生の女子生徒が交通事故で死亡していた。部活動を終えて、校門を出た直後の事だったらしい。
その事を痛ましい出来事だとは思う。しかしそれは三面記事に書かれるようなありふれたことである。残念なことではあるが、そのようなことは日常の中にはままあることだ。それが何故、「呪い」などということになるのか……。
「でもさぁ、いくらなんでも呪いだなんてそんなふうに噂したら駄目じゃない? その子、亡くなっているんだよ」
女生徒の一人が窘めるようにして言った。その声にハルは同調する。
不快を抱いたハルは、息を小さく吐いて車窓から視線を遠く投げた。
だが、彼女達の話はそこで終わらなかった。
「でもさ……」
「でも? でもなに?」
「あのね、これは聞いた話なんだけどね。その子もふざけていて道に飛び出したとか、そういうんじゃないんだって、それに……」
「それに?」
「その子、最近様子がおかしかったんだって、何かに怯えていたっていうか……」
「え、ええ!」
「だからさ、ほら、ね、怖くない? それってさ怖いよね……」
「もう、ちょっと止めてよー」
「何かに殺されたんじゃないかって」
「殺されたって、マジ?」
「嘘じゃないよ。事故を見てた子が言ってるんだもん。本当だよ。それに見たのはその子だけじゃないんだ。一緒に帰ろうとしていた友達が何人も見てたんだって。で、その子が言うにはさ、事故に遭った子が急に何かに怯えるようになって――」
「何か? 何かって何よ」
「分かんない。とにかく、何かを見て、怯えて、逃げたんだって」
「で? それで?」
「何か訳の分からない事を言って逃げ出したその女の子はとにかく校門の外まで走ったんだって」
「それで、事故に?」
「……」
「え? じゃないの?」
「その子は、確かに焦っていたけど道には飛び出さなかったの……」
「え? じゃあなんで?」
「……」
「え? なになに?」
「……押されたんだって」
女生徒が発したその言葉にハルは目を剥いた。直後、その言葉が脳裏にある場面を想起させる。
「だからぁ、道淵で立ち止まったその子は、そこで何かに押されるようにして道に飛び出したんだって……」
「うわっ、怖い! 何それ! それってマジ怪談じゃん!」
ハルは、身体は強ばらせながら、「押された」という言葉を何度も頭の中で繰り返した。
――あの時も。そういえば、あの時もそうだった……。
彼女は何かから逃げていた。悲鳴を上げ、助けを呼んでいた。そうして屋上の淵へと追い込まれ、そこで何者かに押されて空へと消えた。
改めてそのことを思い返せばハルが目撃した事実はそうであった。
しかし自殺いうことで処理されたあの事件は、不可解な要素を多分に含んではいたものの、その不可思議なことについてはハルのみが認識していたことであり、公には自殺であると認知されていた。
――いや、そうではない。僕はその事を知っている。
自殺とされた一人目の犠牲者と、交通事故死した二人目の犠牲者、そこには自分だけが知る共通点があった。ハルは、あの日のことをもう一度思い起こした。
その日の放課後、帰宅の途についたハルは生徒玄関を出た所で悲鳴を聞いた。
驚いて周囲を見回す。しかし見ている光景は普段と何も変わりが無かった。行き交う生徒達の動きにも表情にも何の変わりもなかった。
――聞き違いか? 空耳? でも……
『だ、誰か! 誰か助けて!』
また声が聞こえた。
やはり間違いではない、空耳ではないと、この二回目の悲鳴で危機を確信した。
だがその助けを求める声は、自分だけに聞こえているようで、他の生徒たちの誰にも届いてはいないようであった。
「くそっ! マジか!」
平穏な空気の中で、たった一人、自分だけが危機感を抱いていた。その事態にもちろん疑念はあった。だが、この時既に妖怪の存在を認めていたハルは、世の不思議を現実として受け入れることが出来るようになっていた。だから直ぐに声が聞こえてきた方向を見た。しかし一見して代わり映えのしない日常のその景色の中に危機を思わせるものは無かった。
『い、嫌! 来ないで! 来ないで!』
また声が聞こえた。今度はハッキリと聞こえた。
ハルは声の出所を探した。目を凝らし、正面から右、後ろと順に自分の身体をひと回りさせて丁寧に周囲を探った。
――いない! どこだ! 声はたしか……。
思い至って視線を持ち上げる。校舎の壁、窓、一階、二階、三階と注視しながら探していった。
そしてついに、校舎の屋上に人影を見つける。直後にハルはその場所に向かって走った。
校舎に駆け込み、螺旋のように続く階段を一つ飛ばしに掛け上がっていく。
途中、彼の視線の中を普段通りの生徒達の笑顔が流れていった。
すれ違う生徒の誰にも慌てる様子が無い。助けを求める声に気付いている者などいなかった。ここで彼は更に確信を深めた。これは普通の出来事ではないと。
屋上に向かう途中で教師の一人を捕まえる。そしてハルはその教師にとにかく一緒に来て欲しいといって強引に腕を引っ張った。
最後の踊り場を蹴って上を見上げれば、屋上へ通じる扉が開いてそこから青い空が見えた。
息はとっくに切れて胸は苦しかった。だが事は急を要する。
ハルは歯を食いしばって最後の階段を駆け上がった。そして青空の中に飛び出した。
薄暗い場所から飛び出して急に光を受けたハルは目を細めながら叫んだ。
「どうした! 大丈夫か!」
大きな声を出し視線を左右に踊らせて悲鳴の主を探す。後ろでは、一足遅れて教師も屋上に辿り着いた。
そしてハルは屋上の端に悲鳴の主を見付ける。そこに女生徒の恐怖に歪む顔があった。見る先で、女生徒が何かを恐れ、何かから逃げるように後退りする。
「そっちはダメだ!」
咄嗟に叫んで飛び出した。しかしそのハルの腕を、後を追って屋上へと出てきた教師が掴んだ。
「き、君、いかん! 待て!」
ハルの伸ばした腕の先、自分の視界の中から女生徒が消えた。
それから僅か数秒後、大きな衝突音と階下からの悲鳴が聞こえてきた。
ハルと教師はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くした。
「せ、先生……」
呟き、救いを求めるように教師を見た。
教師は眉間に皺を寄せきつく目を瞑っていた。そして間に合わなかった、残念だといって首を振った。
「くそっ! 何で、何でだよ……」
下を向き唇を噛んだ。
確かに、女生徒と自分との間には距離があった。そして彼女が身を投げるまでも、ほんの僅かな時間しか無かった。たとえ教師に止められなかったとしても、手は届かなかっただろう。しかし、人の死を目の前にして自分を責めずにはおられなかった。
だがそんな時だった。背後から視線を感じた。そしてハルはその気配に誘われるように振り向いた。
「な、なんで……」
それを見たハルの身体は硬直していた。口を開いたまま言葉も出せなかった。
視線の先、屋上の出入り口の方、平面から突き出した四角いコンクリートの箱の上にその人物を見上げる。
青い空の中に仙里は立ち、ハルと教師を見下ろしていた。
「どうやら、始まったようだな」
仙里は不敵な笑みを浮かべた。
「……始まった? 始まったって、何が」
ハルが息を漏らす。だがそのハルの声を聞いて教師は首を傾げた。どうやら教師には仙里の姿が見えていないようであった。
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