第16話 憂いの残滓
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遡ること今から半年ほど前、両親を伴ってその家を尋ねたのは、彼女の死から一年を過ぎたある命日のことだった。
それは、中三の夏休みの出来事。
その家の玄関に立つと、小学生の頃に二人で仲良く遊んだ日のことを思い出した。
呼び鈴を鳴らすと、意外にも中から張りのある声が聞こえた。
その明るい声が、玄関先で自分の両親と何事かを話していたのだが、会話の中身は
その後、招かれた
「
彼女の母親の声は、昔と何ら変わりの無い調子であった。
「いえいえ、私達は何も、それよりも、皆で揃ってお参りさせて頂こうと思っておりましたのに、このように遅くなりまして申し訳ありません」
父の社交辞令に少しだけ苛立ちを覚えたが、これも大人の世界の作法であると思えば仕方の無いことなのかも知れない。そんなことよりも、まずは彼女の母親が、自分が想像していたよりも元気そうで安心した。
「訪花ちゃんも、今日は来てくれてありがとうね。あの子も喜ぶと思うわ」
彼女の母親の言葉を聞いて、少し肩から力が抜けた。だが、言われて顔を上げた訪花の心は凍りつく。彼女の痩せこけた顔は、その声のトーンとは裏腹に土色をしていた。
――目に色が無い。
彼女の母親が作る笑顔に心の底が冷えた。
訪花は、彼女の視線を受け流すと、居辛さを誤魔化そうとして、そのまま家の端々へと目を向けた。
焦点が揺らぐ。景色を見て、そこで最初に思ったのは意外とキレイに整えられているな、ということだった。
だが、そのことがどうにも遣る瀬なさを思わせるようで居心地の悪さを感じさせた。たぶんこの整理整頓の様子は、この日の来客に備えて、ということではないだろう。きっと、彼女にはそれ以外にはやることがないのだ。
――いや、違うか。この人は自分が使うべき時間を失ってしまったのだ。それがこんなにも寒々しい景色を作っているのだ。だからこの家には温度が無い。だから、庭にしても家の中にしても、どこもかしこもが冷え切っているように感じるのだ。
「さあ、こちらにどうぞ」
訪花たちに声が掛けられた。
「あ、ああ、すみません。お線香を上げさせて頂けたら直ぐに帰りますので」
父が戸惑いながら答えた。この時また、視界が揺らぐ。
両親の背中を見送って、訪花は束の間その場に立ち尽くしてしまった。
――私は、このようなところで何をしているのだろう。
懐疑に惑わされて思った。
だが、その時だった、ふいに誰かに名前を呼ばれた気がして……。
そして、振り向くと……。
そこには、死んだ友人の蒼白の顔があった。
目の前の少女は、どこか物憂げな様子でこちらを見ていた。たが、そこにある存在は、生きているときとまるで変わりがなかった。
そして訪花は更に現実感を失った。
無言で彼女の方へと手を伸ばす。いま、捕まえれば、彼女はここに戻るのではないのか。と、そんなことを考えていた。
「訪花、何してるの? 早くいらっしゃい」
自分を呼ぶ母の声にハッとする。
「わたし、行かなきゃ……」
戸惑いの中で吐き出した言葉の意味は、分からなかった。
自分を呼ぶ両親の所へという意味なのか、彼女の母親の元へという意味なのか、それとも供養のために線香を上げるためなのか。
それでも彼女は、訪花の言葉を受け止めて、「うん」と優しい眼差しで頷いてくれた。
仏壇のある部屋に入ると、まず二枚の写真が目に入った。
小さなアクリル制のフォトフレームに収められたそれは遺影だった。
一枚は彼女の父親のもの。彼女の父親は数年前に病気で亡くなっていた。
そうしてもう一枚は、死んだはずの、彼女の笑顔。
「訪花、早くこっちに来てお参りしなさい」
促されて部屋に入り、順に両親の顔を見る。目が合うと父は黙って頷いた。
線香の香りの中で仏壇に向かって手を合わせる。しかし、訪花の心は友人の死を受け入れてはいなかった。この世からいなくなったなど信じられなかった。
――だって、あの子は今もここに、この家にいるじゃないか。
それからしばらくの間の記憶は曖昧だった。それは、つい先ほど、彼女に会い、彼女の変わらぬ優しい笑顔を見たせいかもしれない。
本当に彼女が生きているのか死んでいるのかも分からなくなっていた。時間の流れがひどく淀んでいた気がする。
そうして気が付けば、両親と並んで座卓に向かっていた。
合わぬ視点で、麦茶が注がれているグラスの結露を見ていた。それでも、いつまでも虚に囚われていたわけではない。はっきりと音が言葉に聞こえ始めたのは、父のその言葉を聞いたときからだった。
「お辛いことは分かっています。しかし、私どもにはこんなことをするしか」
いって訪花の父は、風呂敷に包まれた四角いものを座卓の上に置いた。
「玉置さん、それは……」
「有志で集めました。これは署名と嘆願書です」
「嘆願書?」
「余計なお世話かとは思いました。しかし、前に進むためには必要なことだとも思いました。私達は、彼女の死の真相を突き止めねばならないのではないか。その責任の所在をちゃんと明らかにする必要があるのではないのか。そう、思いました」
「玉置さん……」
「すみません。一番お辛いのはお母さんだと承知はしているのです。だけど、……何か動くことで、その……それが生きる活力となることもあるのではないのかと」
父は、正座したした膝の上で拳を強く握りしめていた。そこに母の手がそっと添えられる。そんな両親の姿を見て彼女の母親は少し困り顔を見せ、そして微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
彼女の母親はやつれた顔に柔和な笑みを浮かべた。
「で、では――」
「せっかくのことですけれど……」
「し、しかし、それでは、それでは」
父は言葉に惑った。
「娘は、帰ってきませんから」
はっきりとした口調で言って彼女は弱々しく首を垂れた。
「帰らない」という、その時のその一言が、重く訪花の心を押しつぶしていく。
――もう、あの子は帰ってこない。あの子は、死んだ。
この時、訪花の中にある種の感情が芽生えた。曖昧なそれはどんな言葉にも置き換えることが出来なかった。嘆きではなく、悲しみでもなく。憤りでもない。
――私は、あの子とこの人を不幸にして嗤う者達を許すことが出来ない。
「玉置さん、どうかもうお気遣いなく。訪花ちゃんも来年の春には受験。今はとても大切な時期だわ。私ならもう大丈夫です。だからどうか私達のことはもう……」
無理に絞り出したような声だった。その声を聞いた途端、キツく胸が締め付けられた。
「……
訪花は心に芽生えた小さな思いを口にした。止めどなく流れた出た涙が頬を伝って膝に落ちていた。
「ちょ、ちょっと訪花、あなた何言って」
咄嗟の出来事に、面食らった母が手を引いた。その手を訪花は振りほどく。
「私、さっき、欅に会ったの」
「……訪花ちゃん」
欅の母親の、幽暗を湛える瞳がふうっとと持ち上がるのが見えた。
「おばさんもにも感じられているんですよね? 見えているんですよね」
「お、おい、訪花、なんてことを言い出すんだ!」
「あの子はまだここにいる」
「訪花! お止めなさい。すみません、吉野さん、この子、どうかして――」
「私は会ったの。ついさっきよ。欅はここにいる」
「訪花、止めないか!」
「欅はここにいる。それは、おばさんのことが心配だから。そして後悔しているから」
「……後悔。そう、あの子は、後悔しているのね」
「はい。私にはそう感じられました。欅は、おばさんをこんな形で残してしまったことを後悔しているのだと思います」
「訪花、もういい! もう、止めなさい!」
狼狽する父から叱責を受けた。だが訪花は自分の思いを止めることができなくなっていた。
「なんで! お父さんも同じ思いだったんでしょう! だから署名を集めて嘆願書なんかを作ったんでしょ」
訪花は強い視線をもって父に覗った。
「……確かに、父さんは欅ちゃんを知る皆で話し合って行動をした。だがそれは仇討ちとかそういうんじゃない。これは、これはまだ子供のお前には分からないことかも知れないけど――」
「分かるわ! 私にだって分かる。欅が死んで、いや違う、欅は殺された。そしてこの世には、欅を殺した犯人と、その殺しを見過ごした者とがのうのうと生きている。その紙はその理不尽を正すためのもの」
「……」
「欅が死んでからまだ一年しか過ぎていないのに、もう誰も欅のことを覚えていない。いや、違うわ。思い出そうとしなくなったんだ。そして、まるで何事もなかったようにして生きている。生徒も、親も、先生も、この社会も」
「落ち着きなさい訪花。だから父さん達はそれを正そうと、こうして――」
「本当に、もう良いのですよ。玉置さん」
欅の母親は物静かな口調で父の言葉を遮った。
「し、しかし」
「ありがとうございます。お気持ちだけは嬉しく受け取らせて頂きます。私達のことを思って下さる皆さまが、このようにたくさんいると知る事が出来ただけでもう十分です。そして私はそんな皆さまのお気持ちをとてもありがたく思っています」
「吉野さん……」
「いいんですよ、もう」
「それでも、それでもね――」
「玉置さん、教育委員会に訴えたところで、……事件を認めさせることが出来たところであの子は生き返りはしないんです」
「吉野さん……」
「私の望みは一つなのです。私はあの子を返して欲しい。今のこの時を、あの子が生きていた時間まで戻して欲しい」
欅の母親は、淡々と言葉を繋げて話した。そして、そんな彼女が優しい眼差しで訪花を見る。
「ありがとう訪花ちゃん、ここに欅がいるって言ってくれて。そして、欅の気持ちをくみ取ってくれて」
「おばさん、私、私……」
「いいのよ。ありがとう。私もね、実はフッと欅の気配を感じることがあるのよ。ああ、そこにいるんだなってね。おかしいよね。もう死んじゃってるのにね」
「……」
「でもね。訪花ちゃん、仇を討つなんて言っちゃ駄目よ。思っても駄目。あなたは、ちゃんとあなたの未来に向かって進みなさい」
「おばさん……」
「このことは、もう忘れていいの。あなたには、欅との楽しかった思い出だけを持ち続けていてもらいたいの。復讐なんて、復讐なんて……あなたのすることじゃないわ」
欅の母親は一筋だけの涙をこぼした。このとき訪花は、その冷たい雫の中に悲しみだけでない何かがあることを感じ取っていた。そして、彼女が話の最後で語った言葉が胸の中に木霊する。
「復讐」それは、彼女が意図せずに語った本心だったのではないのか。
訪花は欅の母親から目が離せなくなっていた。そして思う。無理に笑顔を作る仮面のその下に、何か黒々としたものが潜んでいるのではないのか。
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