第15話 少女の思い

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 乾いた寒風が頬に切れるような痛みを与えた。堪らずコートの襟を立てると、マフラーの隙間からふわりと暖気が漏れ出した。 そこに自分の温度を感じとってしまうと意図せず心は不快に囚われた。そして彼女は眉根を寄せ失笑を漏らす。


 ――迷ってなんかないわ。

 

 目の前には、樹齢数百年を思わせる銀杏の大樹があった。


「あなたが死ぬ必要は無かった……。死ななければいけないのは、この世から消えなくちゃいけなかったのはアイツらの方だ……」

 銀杏の大樹に、右手をそっと触れさせて呟くように訪花ほうかは言った。


 真冬の早朝。鋭利をはらんだ白い空気の中にぼんやりと浮かんだ木々や建物。

 溜め息とともに吐き出された息が、冷気に凍えて取り巻く霧と同化をする。

 閑散とするそのやしろにはまだ人の気配は無かった。


「よいのか? もう後戻りは出来ぬのだぞ」

 傍らから、柔らかな声色で話しかけられた。


 訪花はその声の主の方を向き腰を屈めた。そして、自分の身を案じてくれている黒い大型犬に微笑みかけ頭を撫でた。


「来てくれたのですか、黒麻呂くろまろさん」

「あ、ああ、まあな」

 黒色の大型犬は真紅の瞳を泳がせた。そんな黒麻呂の照れるような仕草が可愛らしい。訪花は思わず黒麻呂を抱きしめてしまった。


「まあ、良い匂い」

 腕の中にあるフサフサとした毛皮から何とも言えない爽やかな香りがして、思わず驚きを口にする。


「き、気に入ったか」 

 黒麻呂は声を上ずらせた。そしてその後、垂れた耳を揺らすようにして余所を向いた。

 

「ええ、私は好きですよ。その香り」

 訪花はにっこりと笑った。

 

「そ、そうか、それならば良かった。これは、ア、アロマオイルというものらしい」

「ふふふ」

「な、何がおかしいのか!」

「何がって、黒麻呂さん、妖怪さんなんですよね? それに犬なのですよね?」

「それがどうした?」

「妖怪さんならどうかは分からないのだけれど、犬なら、そんな強い香りはお辛いのではありませんか?」

 心配する気持ち半分、揶揄する気持ち半分で訪花は尋ねる。

 

「そ、そのようなことは、心配には及ばぬ。俺は、確かに犬としてのさがを持ち合わせてるが、それでも獣とは違う。それに俺も神を名乗る者の端くれ。このようなことは然程のことでも無い」

「……ちなみに、黒麻呂さん。アロマオイルは身体につけるものではありませんよ」

「な、なぬ……」

「それでも、ありがとうございます。でも、無理はしないでくださいね。わたしなら大丈夫ですから」

 訪花は頬を緩めた。もちろん世辞ではなく本心を伝えるために。

 

 そんな訪花を心配そうに見つめて黒犬が言う。

「もう、後戻りは出来ぬのだぞ」

「……分かっているわ」 訪花は、笑顔のままで言った。

「『人を呪わば穴二つ』というが、それは人に対して、その道には入るなという忠告でもあるのだぞ。それを果たせばどうなるのか、お前もただでは済まないかも知れぬ」

「うん。それでいい。……それで、良いと思う。だから私はこの『呪い』を私のものにする」

「お前というやつは……。まったく、人というももの考えはいつになっても分からぬ。理解に苦しむ」

 いって黒犬は苦さをその顔に浮かべた。


「いいの。それでいいの。だって許すことなんて出来るはず無い。私でさえそうなんだから。あの子だって、あの人だって、きっとそう……」

「そういうものか」

「分からないけど、きっとそうだと思う。それに私にはもう見ていられない」

「見ていられない、か。しかしそれは、お前が真から望んでいる事ではないのかもしれぬのだぞ」

「そうかもしれない。そうではないかもしれない。でも自覚はあるわ」

「自覚とは曖昧な……。しかし、この俺から見ても、お前はお前の自我によって動いているように見えている。ならば、お前の言う通りに、それがお前の本心からくる行動なのだとも言えるのだが……」

 黒犬は迷うようにして俯いた。

 

「ありがとう、黒麻呂さん。でももう決めたことだから、だからやるね」

 訪花はキッパリと言った。そしてもう一度、銀杏の大樹と向き合った。

 見つめる先、太い幹の真ん中にそれはある。

 訪花の身長から見ればやや低く思えるその位置で、大の字に形作られた藁の人形は、ちょうど心臓の位置に突き刺された鉄の釘によって幹に貼り付けられていた。

 訪花は、人形に触れるか触れぬかのところで両の掌を重ね瞳を閉じた。

 呪詛の言葉などは知らなかった。だが、自分はそれを思うだけでいい。訪花には元来、その様なことを成せる力が備わっているのだと教えられていた。

 だから今は、ただ、それを成すことだけに集中すれば良い。

 

 ――死んだ者は帰らない。だが、失わせた者はのうのうと生きて享楽を愉しんでいる。

 

 友を失ったことが悲しい。友を救えなかったことも悔しい。しかしそれ以上に、最愛の我が子を失って悲嘆に暮れているあの母親の姿を見ることが辛い。

 

 何故、世界にこのような理不尽があるのか。

 彼女は良い人であった。彼女には何の罪も無かった。それなのに彼女は死んだ。

 いや、殺された。そして、殺した奴らは、その心に罪の意識も持たずに生きている。

 この春から、自分は高校に進学する。奴らも同じように新しい生活のドアを開いた。

 

 ――あんな奴らに、死んだあの子が見ることの出来なくなったこの眩しい世界を、平気面して歩ませることなど出来るものか。


「私は、許すことなど出来ない。この国の仕組みが許し、世間があの子の死を忘れたとしても私は忘れないし、許さない」

「それが、お前の正義か」

「正義かどうかなんて知らないわ」

「やれやれ……俺たちは、今、お前を失うわけにはいかぬのだがな」

 

 灰色が覆い尽くす空は重い。一面に広がる黒雲は、時を黎明と言わせぬほどに、世界への光を遮っていた。

 

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