1-8  垣根

 岩場を離れ、藪を通り抜けると、すぐに、さっきのジメジメしたところに出た。

 ところどころ出ている岩を渡って歩きながら、あやかさんが言った。


「それにしても、これではね…。

 もう、ここは、迂闊には近づけないところになってしまったね」


「ああ、そうだよね。

 おれが…来たから、なのかな?」


「そうかもしれないし…、あなたとわたしが揃ったからなのかもしれないし…。

 とにかく、今日は、戻ろうよ」


 岩場を離れ、山道に出た。

 動き始めて、ほとんど時間は経っていないんだけれど、この間、二人とも、かなり、緊張していたようだ。

 すごく、ホッとした感じ。


 とにかく、真っ直ぐに、別荘に帰ろう。

 山菜の、ミズを採りそこなったのは、気が付いたけれど、もう、あの場所では、採りたいとは思わない。



 別荘に着いたのが、6時ちょっと前。

「ただいま~」

 と、とにかく、元気を出して、別荘に入った。


「おかえり~」

 と、食堂の方から美枝ちゃんの明るい返事。

 なんだか、とてもうれしい。


 このときまでに、なんと、美枝ちゃんが、夕食のテーブルの用意をしておいてくれていた。

 静川さんが作っておいてくれた料理も、すぐに出せるように準備完了らしい。


 そして、お風呂も沸いていて、顔を合わせるなり、美枝ちゃん、『着替えたら、先に入りなよ』と勧めてくれた。

 そこで、おれ、ちょっと格好をつけて、

「それじゃ、あやかさんからどうぞ」

 と、横のあやかさんに言った。


 そうしたら、みえちゃん、

「リュウさん! 次に、わたし達2人が入って、それからビールなんですからね。

 さっさと、二人で入っちゃって下さいよ。

 ここのは、広いんだから二人で入っても大丈夫ですよ」

 と、驚きの、そして、とても素敵な指令。


 おれたちのあとには、美枝ちゃんは、北斗君と一緒にはいるらしい。

 そういうことで、なんだか、すごくうれしい進行で、あやかさんと二人で夕方の風呂に入ることになった。


 すぐに2階で着替えてきて、そのまま『お先に~』と、風呂場へ。

 あやかさんも、さっきまでの極度の緊張のあと、おれと一緒に入るのがうれしかったようだ。

 さっきは、チラッと、おれのことを馬鹿にした顔したのにね。


 5月も下旬、この時刻、まだ、当然、外は明るく、窓の広いここの風呂は、何ともいい感じだった。

 窓を少し開けてみると、肌寒くなってきた空気が流れ込んできた。

 曇り空だし、夕暮れて来つつはあるのだけれど、裏の林の木々には、まだまだ明るさが残っていて、緑がなんともきれいなものだった。


「いいねぇ…。

 やっと、ホッとできたよね」

 と、あやかさん、二人で湯舟に沈みながら。


 おれも、ずっと、心の底にあった恐れのような緊張が、湯の温かさでフワッと消えていくのがわかった。



 おかずは、なんと、おでん。

 大きな鍋…、学生時代に、みんなで芋煮をやったような、すごく大きな鍋…、その鍋いっぱいに、おでんがある。


 温めてきたものを、テーブル中央に、ドンと乗せた。

 これは、おれがやった。

 夕方、美枝ちゃんが、一度温めておいてくれたので、美枝ちゃんと北斗君が風呂から出る頃合いを見計らって、もう一度温めたもの。

 うまそう…。


「静川さんのおでんって、初めてだよ。

 …そういえば、うちで、おでん、出たことなかったかも…」

 と、あやかさん。


「短時間で、いろいろ準備してくれましたし、さらにいろいろ考えてのことだと思いますよ」


「確かにそうだよね。

 でも、こういうのって、おいしそうだよね。

 うちでも、作ってくれるのかな?」


「ええ、頼めば、すぐに作ってくれますよ。

 たぶん、静川さん、リュウさんが、あやかさんの旦那さんとして来たので、完全に垣根がとれたんだと思いますよ」


「垣根?」

 と、あやかさん、珍しいことに、本心から『疑問です』といった感じで聞いた。


「ええ、心の中にある垣根ですよ。

 なんだかんだ言っても、お嬢様は櫻谷家のお嬢様ですからね。

 今までは、おでんのようなものは、夕飯のおかずとしてのリストにはなかったんじゃないでしょうかね」


「それが、垣根なの?」

 と、あやかさん、さらに美枝ちゃんに聞いた。


「ええ、そうですよ。

 素顔のお嬢様の言動には、みな、気を許し、深く慕っていますが…、ただ、お嬢様くらい頭がいいと、普段の素顔が、本当の素顔かどうか…。

 そこで、心の奥に、みな、何かの時、一線を画して自分を保つための、様々な垣根…、とても低い垣根ですが…、そんなものを持っていたんだと思いますよ」


「そうか…。

 う~ん…、なるほどね…。

 そうだったんだね…、みんな、飛び抜けて優秀な人たちだものね。

 そうするのは、当たり前のことだよね」


「ええ、そして、そのような中で、お嬢様が連れてきたご主人が、まあ、リュウさんということですからねえ。

 みな、普段の素顔は本物だと、納得したんじゃないでしょうかね…。

 ククク…、それで、静川さんの場合は、これならば、メインのおかずに、おでんを出しても大丈夫だな、と言うことになったんじゃないでしょうか…」


「なるほど…。

 そうだったんだね…。

 うちの旦那、のどかだから…、フフフフフ…。

 素顔隠しのために、意にそぐわない結婚まではしないもんね。

 そこには、まったく気が付かなかったよ…

 なるほどね…」

 と、あやかさん、一人で納得してしまった。


 でも、おれ、みんなが心の奥に、低い垣根を持つところまでは、なんとなくわかるんだけれど、おれが『のどか』で、そして、おれがあやかさんの亭主になって、どうしてみんなの垣根がとれたのかというところまでは、まだよくわかんない感じ。


 それで、

「どういうことなの?」

 と、おれが聞いたら、


「リュウさんは、落とし穴掘って喜んだり、素手で拳銃に立ち向かったりする人だ、ということですよ」

 と、美枝ちゃん、言ってから大笑い。


 あやかさんも笑って、そのまますぐに飲み出すことになった。

 そんなことで、最後のところがよくわかっていないおれにはお構いなく、この話は終わってしまい、二度と出てくることはなかった。


「それじゃ、乾杯。

 これからは、毎日4人で乾杯だね」

 と、あやかさん、ちょっと楽しそうだ。


 おれも、同じ心境。

 妖魔洞窟で、あのようなことがあったあとだと、あやかさんとの二人だけの夕食だったら、精神的に、かなりきつかったと思う。

 美枝ちゃん達、明るいし、格好の話し相手になるしと、ここで一緒にすごすことになって、本当によかったと思う。


 おでんに入っている大根、今まで食べた中で最高においしいかもしれない。

 おでんとはいっても、そこは静川さんが作ったもの、鶏ガラで出汁だしを取ってと、それなりに凝っている。


 さらに、鶏もも肉も入れてある。

 もちろん、おでんの具として食べると、かなりおいしく、ホク君、特に気に入ったようで、さっきから、けっこう食べている。

 でも、これ、多量の昆布とか大根と一緒になって、汁の旨味を増すためなんだと、作っているときに、美枝ちゃん、静川さんから聞いたんだとか。


 このおでん、今晩のおかずとしてカウントされているけれど、4人で食べても、おそらく、半分も食べられないような量だ。

 さらに、冷蔵庫には、買い置きのおでんダネが、まだいろいろとあるらしい。


 煮込んでおいしいものは、たっぷり鍋の中。

 そして、あまり煮込まない方が良い、さつま揚げ系統などは、継ぎ足し入れていくように、冷蔵庫に入っているといった案配。


 あいだ、あいだに、まあ、一日置きくらいでね、ほかのものを食べていれば、一週間は、間違いなく、おいしく食べられる。

 なるほど、さすが静川さんだ。

 いろいろと、料理担当のおれのことまで、考えてくれている。


 おでんを食べながら、しばらく飲んだところで、あやかさん、美枝ちゃんと北斗君に、ゆっくりと話し出した。

「実は、今日、洞窟でね…」


 あの恐かったときの話。

 美枝ちゃんもホク君も、おでんには手を着けず、ビールに口をつけることもなく、真剣に聞いてくれていた。

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